• PHOTO最終更新日2010年10月11日



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Title: じゅんすいむく。
2008.02.29

純粋に。とよくあるせりふだけど。

純粋というのは。

まじりっけがないことで

まじりっけがないというのは。

きっと意識的ではないということなんだと思う。

純粋に楽しむ。

純粋に遊ぶ。

純粋に笑う。

純粋に怒る。

そこにはなんの駆け引きも経験に裏打ちされた核心もない。

年をとって純粋でなくなるのは。

たくさん経験つむからで。

明日とかあさってとか。

来年とかみえちゃうからだ。

子どもが純粋なのは経験がすくないからだ。

無意識でも日常をすごしていけるからだ。

いまここ、そんだけ。だからだ。

東洋的な考え方かもしれないけど。

芸術家も詩人も晩年に口にするのは。

やっぱり子どもは天才だ。

きっと感性をむき出しにするということは純粋でなければならないんだというところに行き着くんだと思う。

だからみんな最後は子どもの感性に近づこうとする。

経験をつみながら。嬉しいおもいや悲しいおもいをたくさんしてもなお。

純粋でいられる心は。

どうしたら手に入れられるんだろう。

純粋はというのは無意識で無条件で。

それができるために必要なものは。

知識でも情報でも経験でも自我でも個性ではなくて。

むしろそれが邪魔になる。

それを手放すこと。

だからぜんぶ捨てたい。

けど。

すてたら世捨て人だ。

社会不適合だ。

捨てられないということは。

そこにはいけない。

でもそこにはいけないと。

きっとここより先には進めない。

先。

先ということを考えてる時点でも。

まちがってるんだろうか。

意識的に無意識を目指すということは逆説を抱えているし。

でもいまからそこにいきつくためには意識的に考えざるを得ないし。

むずい。

無垢とはなんだ。

純粋とはなんだ。

手放すってのは何ですか。

手放せない場合はどしたらいいんですか。

山にこもって雨水と草と霞でも食べて人里はなれるのが正解ですか。

ここにいるということは。

いやがおうなしに。

そうは生きられない。

でも。

それじゃ限界があるんですよ。

さてこまった。

これが末法ですか。

むずいむずい。

これを超える答えはどこに書いてありますか。

広辞苑ですか。

六法全書ですか。

がっこうでもおそわってないし。

だれがおしえてくれるんでしょうか。

ああむずい。

だからカレーでも食べて。

はなくそほじって。

昼寝でもしよう。

蓮は泥がないと咲かないんですよ。はい。


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Title: 省みる。
2008.02.28

もっともらしいことばっかり思いついて、いっちょまえのことを並べ立てるのが正解だと思い込んでしまったり。

なまじいままで育ってくる中で落ちこぼれだったために言い訳だけはうまくなって嫌われたくないくせに自分は人とは違うと言い聞かせて。わかるやつだけわかればいいさなんていって自分を納得させて。

結局やってるのは調子よく自分を飾り立てているだけなのかもしれない。

ああいわれればこっちになびくし。こういれればそうじゃなかったのかもしれないとおもうし。ふらふら迷ってるのに迷ってないふりをするのは自分の器の小ささと弱さです。

ちっちゃいちっちゃい。ああちっちゃい。

くそ器の小さい男だ。

一番大切なのはなんだったか。

最後に立ち返る場所はどこだったか。

それすらもなんか勘違いしてたのかもしれない。

別に一人になったっていいやって。

そうやって自分を手放すことはものすごく怖いことだけど。

でもそこなのかもな。

執着をすてるということは。

まずはそこからなんでしょうか。

手放すというのはそういうことですか。

それでいいんですかゴータマさん。

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Title: よい加減。
2008.02.25

どこにも依らない。

依らないってことは。

さいこうに愛じゃないか。

依らない。

どこにもだれにも。

いまここ。

そんだけ。

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Title: 総括・最近浮かんだこと。
2008.02.24

白紙の画面に向かって深くため息をつく。

さてどこからとりかかるか。というよりもどこからほどいていこうか。なんて思いながら文字を打ち始める。

普段生活する中で、深く掘り下げていきたいような、一つ一つを突き詰めていったらきっとおもしろいところまでいきつくんじゃないんだろうかと思えるような思考がわいてきたときはとことん考えるし。とことん書き出すし、とりあえず気が済むまで考える。そんですっきりしたころに次にまたそういうものが現れる。次から次へ。どんどん沸いてくる。もうなんにも考えたくないと思ってもあたりまえのように浮かぶ。

その繰り返していままで書いてきた日記もなりたっているし、自分自身もそういう繰り返しで成り立っているんだと思う。そういう時間だけが唯一自分の中でのアイデンティティであり個性だとすら思う。

でもそうやってどんどん沸いてくるのに物理的に突き詰めていく時間がとれない時には頭の中がそういう思考の種みたいなものでいっぱいになる。

そうするとどこから手をつけていいかわからなくなるし、どれも時間がかかりそうだし億劫になって後回しにするし、時に放置する。

そうしてる間に消えていくものもあれば、あたまにこびりついて消えていかないものもある。

いつもならそれを2,3行の文章で総括して吐き出して楽になって終わりなんだけどなんとなくそういう状態のモヤモヤはどういうことなのか文章で書き出してみたらすこしはすっきりするのかと思ったら。これだけじゃやっぱすっきりしないみたいだ。逆に生殺しみたいだ。

最近浮かんだこと。



自分を棚に上げてでも相手の悪い部分が気になってしまったり、いままで我慢できてたことができなくなるということは。それだけ本気になってきたことだし。それがなきゃ前にはでれないからいいことなんだと思う。ようはそれをねじ伏せないでうけいれるだけの器が相手にあるかどうかなんだな。さてどうでしょう。

それと同時に時に足もとを確認して自分の視野や、感じる心がせまくなっていないか確認することも大切。本末転倒というのがおれは一番嫌いです。

自分の立ち位置やすべきことはなにか。見失わない前にそこがなになのかどこなのかをまずはっきりさせないとだめなんだと思う。

家というのは物理的ないごこちが良くなると、いごこちのよさというものをそういう物理的な部分に依存してしまうんだと思う。本来「家」にあるべきいごこちのよさとは物理的なものが生み出すものではないんだと思う。むしろそういう部分に頼り始めるといごこちのよさとはなにか。とか家族とはなにか。とかそういう本質的な部分が見えにくくなってしまうのかもしれない。

こういうことを本末転倒というんだと思う。物理的に豊かになるということは本末転倒になる恐れがたくさんあってそういうものに依存することで反比例して自分の中でなにかが衰えていくということなんだと思う。

あたたかさというものは物理的なものでは絶対に生み出せないんだと思う。

仏像の目はつぶってもいなくてはっきり開いてもいない。いままではなんでだかわからなかったのに突然それが、ああ。なるほど。あれじゃなきゃだめなんだと感じた。きっとこういう感覚を拈華微笑というんじゃないかと思う。言葉じゃない。

手を離そう手を離そう。もうなにも新しいものは抱えないと思ってるのにきづくとまだなにかおつかもうとする自分がいる。でもいままでだったらそのたびにそういう自分がもどかしかったりいらいらしたりモヤモヤしてたのに。最近やっとヤレヤレまたか。とすこしだけ穏やかに物事を処理できるようになったと思う。

新しく誰かに出会ったり。人じゃなくてもなにか新しいものに出会ったときに、ふと気づくとその人やそのものやその出来事に関わっていく中で気づかされたり、浮き彫りになるものはいつも自分の中にある感情や思い。ああおれまたこんなこと考えてるわとか。悪い癖だなとか。ああおれ意外にこんなことできるんだ。また萎縮してるなぁとか。誰かやなにかに出会うというのは同時に自分にも出会うことなんだと思う。

人間はなまじ情報を抱えると表面的にしかものごとを捕らえがちになる。情報は大事だけどおれはやっぱ自分で感じて前に出たい。それはこうですよ。なんてやったこともないひとに言われてもなんの意味もない。時にそういう人ほど自分はなんでもしっているという顔をする。

リュックをひとつ背負って南を目指そうと思うとする。そのときにそれをためらわせる理由がきっと一生自分を苦しめるものなんだと思う。そこでためらわせるものがきっと自分の中の奥底にある本当の問題なんだと思う。

無意識というものは些細なところにあって微々たるものだと思ってたけど。人間ほど無意識に支配されてる生き物はいないんじゃにかと思う。

むしろ物事が意識的にどうにかなってることのほうがはるかにすくないんじゃないかと思うし感情や気持ちほど意識的じゃないものはない。

宗教を突き詰めていくと最終的にそこにくる。心理学も哲学もそうなんじゃないかと思う。無意識をなんて呼ぶかはそれぞれ何だけど。いってることは同じのような気がする。

本気で伝えようと思ったら伝わらないことは一つもないんだと思う。それがいい結果を生むかどうかは別として。ようはなにごともどれだけ思えるか。

力や理屈でねじふせたり。根回しをして物事をなんとか乗り切ろうとしてしまう自分から手を放したいのにきづくとそういう自分が沸いてくる。いよいよこれこそ踊躍歓喜の心おこらずです。

きりがないから。

もうLOSTのシーズン3でも見て寝ます。

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Title: 頭と心。
2008.02.14

最近仕事をしていて感じたこと。

判断や決断には2種類あるんじゃないかと思う。

ひとつは頭で判断すること。もうひとつは心で判断すること。

頭で判断する仕事っていうのはそこから生まれる弊害や利害や数字を天秤にかけたり、確率論でマイナスを消していくような、たとえばリスクマネージメントだったり経理だったり。

そんでもうひとつの心で判断する仕事というのは、そこから弊害が生まれても、確率論なんて無視で天秤にかけても完全に傾いてるのにそれでも貫き通さなきゃいけないこと。難しいけど信念とか理念とか、そういう根本的な部分を見失わないように、そし時にそれを傷つけられないように守る仕事。

どちらの仕事も判断を誤ると大変なことになるけど、特に後者の判断を誤ると気づいたら本末転倒になってしまうんだと思う。

経営っていう仕事はきっと今目の前にある問題をどっちの判断で決断しなければいけないのかという線引きをしっかりとしていくことなんだと思う。すべてを頭ばっかり判断しててもだめだし、心でばかり判断しててもだめだし。その微妙なバランスが大切でどちらかに傾いててもだめなんだと思う。

ただ頭での判断は経験でいくらでも身につくけど、心での判断は経験では身につかないんだと思う。

これが難しいところだ。

一言で言えば

どれだけ好きになれるかどうかなんだろうなぁとおぼろげながらそう思う。

好きじゃなきゃ腹もたたないし。

好きじゃなきゃ嬉しくも悲しくもないし。

好きじゃなきゃいえない言葉というのはあるし。

なによりも好きじゃなきゃ感情的にはなれない、感情的になれない仕事なんてつまんないと思う。

そういう好きなものを守りたいという原始的な欲求をもつことというのは大切なことなんだと思う。

ああむずい。

むずいむずい。

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Title: あつくもなくぬるくもなく。
2008.02.12

なにごとも煮詰めたらよくない。

あくまで人肌で。

そんで最後はどうでもいい。

これにつきる。

言葉遊びをはじめたら。

足もとを確認。

本末転倒は。

そこらじゅうにころがってる。

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Title: 幼稚園の話
2008.02.10

たまには幼稚園の話。

つい先日幼稚園で発表会という行事があった。まぁ俗に言うお遊戯会というやつですよ。年々涙もろくなっているとはいえほんと毎年これがぐっとくる。

ぐっとくるというとなんとなくそれまでなんだけど。もうちょい深くいうと、こういうのが心の琴線に触れるという感覚なんだと思う。4、5歳の子どもたちが歌う姿、演じる姿。正直音とかはずれちゃったり、せりふとかミスっちゃったり。

それなのに直接心にがつんと響く。ツーンと目の奥のほうが熱くなる。無論見に来ている家族の人たちも一言も声をださずにじっとその子どもたちの姿を見ている。というよりも目が離せないんだと思う。それが自分の子どもがでている出ていないにもかかわらず。

思うにそれがあまりにもリアルだからなんだと思う。

うまく演じようとか、うまく歌おうとか、そういうのじゃなくて。

楽しいとか。がんばろうとか。そういう感情がむき出しで、感情をそのままむきだして歌ったらこういうことなんだろうな。とか思った。

自分は歌手じゃないからわかんないけど。

きっとうまく歌おううまく歌おうと歌を極めて言ったら。

最後はここに帰ってくるんじゃないかとおもうくらい。

岡本太郎も晩年やっと子どもの頃に描いた絵に近づいてきたっていってたけど。本当になにも纏わず取り繕わず、むきだしのストレートな気持ちというのが人の心に響かないはずがないということを改めて学んだ気がした。

同時に。

うちの幼稚園ではこの風邪ひきの多いこの時期にあえて発表会をやる。これには親から違う時期にしてほしいという意見が出ることもある。でもここにこだわるのは、幼稚園というのは4月新学期なのでいまのこの時期というのは1年間子どもたちと先生がすごしてきてつながりが深くなってくるいい時期でクラスがひとつになってなにかをつくりあげるという点で一番いい時期だと感じるからで。

そういう目でみると面白いくらいに。

1年間を子どもたちとそのクラスの担任がどうやってすごしてきたのかがでる。ほんとわらっちゃうくらい。きっと本人たちはきづいてないんだろうけど。

1年目先生のクラスのでは子どもたちが一生懸命先生を助けようとしてるし自分たちで考えてみんなで声を掛け合ったりしてて、みてて暖かくなるくらいに子どもたちの結びつきが強かったりする。

3年目で中堅になってある程度結果の求められている先生のクラスでは、クラスの子どもたちがそんなまじめで一生懸命な先生の期待にこたえようと先生の一挙手一投足から目がはなせなかったり。見に来てるお母さんもそっちのけで必死に踊りについていこうとしてる子がいたり。

だいぶあぶらものってきて、自信や余裕も見えてきてのびのびできていた先生のクラスでは子どもたちもみんな自信をもって舞台にたち観客席をまっすぐに見据えて堂々としてる。

どれが正解とかどれが不正解じゃない。

どれも正解なんだと思う。

子どもは大人が思っている以上にいろんなことを吸収していて、たくさんのことを感じているんだと思う。

またさらに思うのが。

去年までびーびーないてて何もできなかった子がりっぱに演じていたり、あんな赤ちゃんみたいだったあの子が堂々と歌っていたり。

1年という時間はこれだけ人を成長させられるんだ。この子たちが1年でこれだけ成長したのに、自分はこの1年でどれだけ成長できたんだろうかなんて気持ちにもさせられる。

発表会という行事は成長という目に見えないものを形にしてみせることが一番大切で。それをみせられるということはほんとに付け焼刃じゃだめなんだということを痛感した。

童心を育むということは。童心に学ぶことではなかろうかと生きてるときにおじいちゃんはいってた。

なんのこっちゃとおもってたけど。

今ほんとにそうだとおもうよ。

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Title: むじょうけん。
2008.02.05

おれはこんなにがんばってるとか。

こんなに大変なんだぜとか。

そういうことが言いたくなるのは。

どこかで自分が認められたいからで。

どこかで自分に自信がないからで。

そんなことを言ったところでなんにもならないのに。

それを手放せないのは、ひとつの執着、自分への執着。

自分なんてものは。

なにをしたかとか。

なにをしてるかとか。

なにを持ってるかとか。

なにができるかとか。

そんなもので出来上がるものではないし。

そんなものだけを誰かに認められて。

そこに安心してても

そんな安心はいつだってなくなりうるもので。

ましてやそういうところに安心してると

だれかやなにかににたいして

自分のほうが優れてるとか。

自分のほうが結果を出したとか。

自分のほうがなにできるとか。

そういうものにすら安心したり、自分を納得させるようになる。

それじゃ本当に大切なものはみえないんだと思う。

人と人が本気で向き合うということは。

そんなものはなんにも関係ないんだと思う。

最後はどれだけすきになってもらえるかよりも。

どれだけすきになれるかなんだと思う。

すきになるということは。

ほんとうに奥が深く。

やさしくも厳しい。

最近はすきだということを勘違いしてるやつがおおすぎる。

すきは。

無条件ですよ。

すきは。

まるごとですよ。

すきは。

認めることで。

すきは。

受け入れることですよ。

そんで。

すきは。

素朴なもんですよ。

一見文章につながりがないようですが。

つながってるんだこれ。

ああ。恋ですか。だれか好きになりましたか。と問われそうですが。

おれのいいたいところはもっと深い話です。

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Title: 新ブログたちあげ。
2008.02.04

数週間前に寝てたら。

夜中に突然。

そうだブログ立ち上げよう。

となんの前触れもなく思いつきました。

それから数週間せこせこせこせこと作ってきたものがやっとできました。

またこれMTと格闘しながらせこせこせこせこ。ちまちまちまちま。時間も見つけてはよなよな作り上げました。

はやいはなしが日記とか自分のいいたいはそれはそれで書くとして。それとは別にものすごく仏教に。もっといえば真宗に偏ったものばっかり書いてもいいんじゃないかと。

そういう趣旨のブログです。でも一番の目的は自分がそういうものを書く環境をつくることで前に進める気がしたからです。

興味あるひとだけどうぞ。

http://monkeysky.com/note/

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  • 自己紹介:1980年1月9日生まれ。どこからを趣味と呼んでいいのかは模索中。好奇心は旺盛。