Title: 温泉はいって文章書いては感謝する。
今年もきましたあの企画。
今年は温泉サークルin熱海。ということで全国から集まった猛者5人で箱根~熱海へ日頃の癒しの旅に行ってきました。
いやぁ色々あったな、金曜の晩から3日間濃い時間を過ごしたような気もするけど思い返してみると話してる内容はずっと同じことを繰り返し繰り返しだったような気がする。結局男なんてそんなもんですよ。なにはともあれ秘宝館には一度行くべきだね。
やっぱり年に一度はこういうの必要だ。
いざこうやって日記に書こうと思ってみると意外にこれといってここに書くこともないんだなこれが。それなのにものすごい充実感があったのはやっぱり心がみたされたからなんだと思う。まぁ正確にいえばここに書くことがないんじゃなくて、ここに書けることがないっていうほうがただしいか。。今年の無念は来年晴らす。しかしスマイル茅ヶ崎はかわいかった。
あと全然関係ないけど、高速のSAとかPAとかの食堂ってのは、ほんとに多種多様な人が居て、老若男女がこんなに一同にかいして色んな分野の人間が肩を並べて食事をしてるとこなんて他にないんじゃないかとおもった。
ビバ熱海。
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ものすごい長い文章を気持ちのままに書き出して、気持ちも全部文字にのっけて全部すっきり空なるまではき出した文章を保存し忘れて消えてしまったときの虚無感ってのはなんども味わってるけど最悪だ。自分の中では無形文化財の消失くらいにくやしくも悲しくもあり、自分のバカさ加減に腹立ちすら覚える。そして同じ文章は二度と書けない。逃がした魚は大きいというけど、そういうときに限って渾身の一文だったのにとかいう思いがぬぐい去れなかったりする・・・
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もうすぐおじいちゃんの7回忌ってこともあって最近ことあるごとにおじいちゃんの言ってたことを思い出す。
感謝をわすれちゃいけない。
あたりまえなんだけどそれを頭じゃなくて心でしっかりと捕まえるのはものすごく大変なことだ。
感謝の心を忘れないようにしようっていくら心に決めたって、食べ物には不自由してないくて、着る物にもこまってなくて、当たり前のように明日も生きてることを疑えない自分を含め今に生きている多くの人たちはどう考えたって意識をしなければ自分は自分一人で生きてるんだって錯覚したっておかしくない。
口先だけじゃなくて何かに感謝することがどれだけ難しいことなのか肌をもって痛感する。よく目をこらさなければ本質が見えない事ってたくさんあるもんだ。
おじいちゃんが生きてるときに、誕生日ってのは、おめでとうを言われる日じゃなくて。ありがとうを言わなければいけない日なんだって言ってた。自分がそこにいるのは一人でいると思うなって。
子どものときには意味がわかんなかったけど今ならその意味ははっきりわかる。
ちょっと考えればわかるけど、自分自身では気づけなかったことだと思う。
いまその言葉を思い出すとものすごい真宗的で、ああやっぱ自分の中にはそういう宗教的な思想がたくさんながれてるんだなと思う。
自分が生まれたことに感謝をすることなんて意識しないでできることじゃない。
でもそれを意識することが生きるってことで、生きるとか自分とかそういうものをしっかりと自分の中で浮き彫りにさせることが全部の答えの入り口になる。特別じゃない。ただの人だおれは。って。
感謝することとか、なんで働くのかとか、なんで自分がここにいるのかとか、なんとなく浮かぶ問いにもはっきりした答えは絶対にある。でもそれは誰も教えてくれない。だから自分でそこにスポットあてて頭を使わなきゃ死ぬまで見えないことがたくさんある。
ましてや幼稚園にいると自分自身がそういうことをいつだってしっかりと受け止めて見つめて痛感してなくちゃ何も育めないと思う。
自分が食べ物に感謝してないのに子ども達に食べ物を大切にしようっていったってなにも伝わらないし、自分が命ってのはすごいなって感じてないのに、子どもに命の大切さを伝える事なんてできないわけで。
なにかを育むっていうのは、自分の体温でみんなを暖めるようなほんとうに気の遠くなる作業なんじゃないかと思う。
POSTED @ 2006.11.13 |
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