• PHOTO最終更新日2010年10月11日



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Title: いったりきたり。
2010.01.31

旅気づいた心を鎮めようとするものの、どうやっても鎮火しない旅心に、もうこれは道祖神が呼んでるんだって思ってあきらめる。きっと旅にでればおさまるさ。

*

やなせたかしさんの弟が回天の乗組員だったことを聞いて、家に帰ってアンパンマンの唄の歌詞を聴いたら、すこしほろ酔いの頭と心にぐっときすぎていろんな想いがこみあげてどうしょうもなくて、アンパンマンを聞きながらおかしなテンションのまま眠りについたら、明け方、理由はわからないが春田(秀明)にきれた夢をみて目が覚めた。なんなんだあいつは。

*

久しぶりに身体をおもいきり動かしてみて、あまりの自分の低落っぷりにはもう笑うしかない。でもやっぱ思い切り身体を動かすのは最高に気持ちいい。あおむけにひっくり返って、ぼんやりとした頭で空を見上げたら、最高の満月が見えて。

なんかぐっときた。

そんでびっくりドンキでチーズカリーバーグをたらふく食べて、あとはもう泥のように眠った。眠りに落ちるときに、ぼんやりとやっぱ自分は身体を動かすのが好きなんだなと思った。

なので復活です。フットサル。

*

集中していこう。

おう!

というなんてない掛け声。

なんだけど。

よくよく考えてみれば。

なにをどこに集中するんだ。

精神を集中するだとしたら、精神がなにかもわかんないのに、集中はどこに意識をおけばいいかすらわかんないのに。

でもだれもがあたりまえにそれをしてるわけで。

不思議なことだ。

精神集中。

突き詰めたらまじ深い。

パーリ語で書かれちゃうくらい昔から考えてる人がいるくらいだもんね。

*

話をしていると、自分の中にあってまだ言葉にもなっていなかったようなものが、次々と出てきて、話をしているうちにいろんなことがつながって、ついついしゃべりすぎてしまう人がいる。その人と話をしていると大抵帰り道で反省するんだ。しゃべりすぎたなって。でもそれはきっと反省してもなおせないんだろうと思う。そういう人がいてよかった。ありがたいです。

*

いまここ。

まずはそこにいることで、そこにいると感じられる事細かな感覚が大事で。

言葉や文字でその感覚を伝えようとしてもそれを伝えるのは難しい。
だから言葉や文字ありきで、それをとらえようとしても本当は本末転倒なのかもしれない。

そこで得られる感覚が大事なんだけど、その感覚を言葉で伝達するのは難しいから、方便を使ってでも、まずはいまここに意識を置かせようとするんだろう。

仏教はどうもそういうものなんじゃないかと最近思うことがある。

*

あまりにニュートラルすぎると、ときにDとかRとかにギアを入れた方がいいんじゃないかと思うんだ。これでいいんだろうか。

こだわらなければこだわらないほど、執着しなければしないほど、身の程を知ろうとすればするほどに、自分が使える言葉が減っていく気がして、最後にはなにも発言できなくなってしまう気がして。

言葉にした瞬間にそれは、自分のみた側面にすぎないんだとか思えば。

正解なんてものはなんにもなくて。

自分の伝えられることなんてなんにもないのかもしれないと思ってしまう。

だから。

ナモしかないのかやっぱ。

楽なのに、それでもまだこれでいいのかと思う自分のあさはかさ。

踊躍歓喜の心なんておこるはずない。

*

選択本願念仏集がよみたくてたまらないとおもったときに。

Amazonでポチっと変える時代で嬉しいんだけど。

それがいいのかわるいのか今の自分には全くわからない。

*

きっと。

かっこいいまま次のステップにあがることができるとおもったら大間違いなんだろうと思う。なさけなかったり、弱い自分をさらけだしたり、涎とか涙とか垂らしてはじめてレベルアップできるんじゃないかと思う。

自分は体育会系だから、泥だらけにならないで、何かができるようになったことがないからそう思うのかもしれないけど。

きれいなまんまで腕でもくんで、御託並べてたり、自分の弱さを理屈ごねてごまかしてるのをみてると。

自分はそうはなるまいと思う。

前に前に、すこしでも前に。

*

ほんと、他力はあくまで自力の上になりたつもので、三願転入とはよく言ったもんだと思う。


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Title: はかないものへのあこがれだけで。
2010.01.29

「チップはずむから勇気をわけてくれ」

ホテルのボーイにそう告げて戦場に向かう次元の背中にしびれて、それから勇気をださなきゃなと思う時に、ぽかっとこの台詞が浮かぶことがある。

怖いことや弱い自分を、認めながらも、そんな自分奮い立たせて、前に前に足をだす。そんな生きざまをしたくとも、勇気をださなくてもいいような逃げ道がないか、つい探そうとしてしまう自分。

な~もな~も

昔、旅を始めたころに、あるバックパッカーがこういった。

おれ、長いこと旅してるけど、正直地元の食べ物とか苦手なんだよね。
だから大きな街にきたら、かならず最初にマックを探すんだ。

旅をはじめて、バックパッカーかぶれの自分は、パクチーとか嫌いなのに、旅に出たらやっぱその国の食べ物に触れなきゃだよね。日本でも食べれる物たべるなんて邪道じゃない。旅するいみなくない?なんてホントは、マックとか食べたいのに、さもあたりまえみたいに言っていて。

自分よりもはるかに経験を積んだその人の言葉をきいて、なんか恥ずかしくなった。

あ。それ言ってもいいんだって。

そんでいろんなものが軽くなった気がしたわけです。

とあるお坊さんが、すげぇ牧師がいたら、自分はキリスト教に改宗するかもしれないです。

というのを聞いた時にも思った。

あ。それ言ってもいいんだって。

こうあるべきとか、ないもんね。

チベットへ旅した時の写真を久々に見てたら。

あの頃の自分の顔にまとわりついてる、こうあるべきみたいなものや、自分はこういう人間だぜ。みたいな空気がぷんぷんしてて。

あ。それ言ってもいいんだ。

っていう経験たくさんしたほうがいいぜ。若かりし自分よ。と思ったわけです。

自分は、自分が想像できる以上に、はるかに多くの可能性を秘めてるぜって。


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Title: うたう。
2010.01.26

たまには幼稚園の話。

この時期になると毎年毎年書いてる気がするけど。もうすぐ発表会という行事があって、子どもたちが毎日劇や歌の練習をしている。今週は各クラスリハーサルがあるので、毎日あたまから通しでそれを見ているわけで。

そこで、子どもの歌を聞いてると、ほんとあまりにまっすぐすぎて、頭がぐらぐらする。

なんでこんなに、心に響くんだろうと思って。

それはきっと、子どもたちが、うまく歌おうとか魅せてやろうとか、そんな気持ちがさらさらなくて、自分が楽しんで演じて、楽しんで歌って、歌いたいように声をだして、歌いたいように歌ってるからなんだろうと思う。

そのまっすぐな姿勢と姿と、知らず知らずのうちにそうじゃなくなってる自分のなかにあるギャップがきっと摩擦を生じさせて、それが波紋みたいに広がるんだろうと思う。

これからこの子たちが大きくなっていく中で、いろんな壁にぶつかったりして、そのたびに、自分を守る術を覚えたり、世渡りする技術を身につけていったり、隣の子との差や、他人の中にあって自分の中にないものとか、自分のメリットとデメリットと向き合う中で、こうやって歌が歌えなくなってしまうのかもしれない。

これから少しづつ薄れていってしまうであろう、その感覚、そのむき出しの感情をこうやってビリビリと感じられる距離にいられるということは本当にありがたいことだと思う。

こうやって歌が歌える頃がだれにもあったんだろうに。

すくなくとも今この時期には、こうやっておもいっきり歌を歌わせてあげられる幼稚園でありたいと思う。


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Title: おぼつかない。
2010.01.26

でっかい器なんかいらない。と。おもってすぐにそんもんには初めから、手が届かないんだったと思いなおす。

自分の中にあるいろんな衝動とか、どうしょうもない部分を認めれば認めるほどに、自分がこれからどこを歩いていくべきなのか、まざまざと浮き彫りになってくる気がする。

自分はなんて欲張りなんだろう。少欲知足なんてえらそうに法話したって、ほんとは全然足るを知るなんて言えなくて、飢えてもいないのに、もっともっとという自分がいる。

最後の最後には、なにもももたずにひっそりと、南極の真ん中とかで息絶えることができたら、きっとにやりと笑いながら死んでいけるのかもなとか思ったら、なんか宮沢けんじの詩が思い浮かんだ。

現実とそうじゃないところをいったりきたりしている人の、なんて少ないことか。そこをウロウロしながら生きていたいもんだと最近強く思う。

睡眠不足のあたまからひねり出される言葉のなかにあるもろさや、危うさの中には、すごく本質がにじみでているきがして、正常なのはどっちの状態なんだろうかとわからなくなる。

そんなときには、大抵まっすぐな想いや言葉が、摩擦なく飛び込んできて、その1つ1つにあたまとこころがぐらんぐらんして、そのままそこに身をゆだねていてもいいのかと自問自答を繰り返す。

人は処理速度をこえた感情に言葉や行動をともならせようとしても無理なんだ。

くそったれと思うけど。

大丈夫。ギャップもちゃんと拾えてる。


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Title: 枯野
2010.01.20

マレーシアからバングラディッシュの0円航空券みつけた。とか。日本からクアラルンプールまでのチケットが往復で30000円だった。とか。バンコクまで往復15000円があった!とか。今週の週末はソウルで鍋でもつつくか・・・とか。トドメに、空を歩ける場所があるぜ。ボリビアに。とか。

そんなことを言う人が身近にいるもんで。

しかもどこから見つけてくるのか、次々に格安航空券を見つけてくる才能と快適な安宿をみつける才能はすごい。見習わなければ・・・

ほしがりません勝つまでは・・・ってなんにも勝負してないけど、あえて言うなら旅気づく自分と戦ってるのに、気づいたらウユニ湖でおおはしゃぎしてる自分とか・・・オーロラすっげ~犬ぞりとか超楽しい~とかいってる画をもやもやと想像してむふふとかなって。

しかもこないだのタイでいままで、封印されてた旅心の栓が完全に抜けて落ちたみたいで、その栓がどこかにあるはずなんだけど、どこまで転がったんだろうか・・・

やっぱそろそろインドだよな・・・ブッダガヤで瞑想でもしちゃうぜ。とか。

完全に妄想がエスカレートしたあげく、朝っぱらから、

なんならハワイでもいい。オアフ島あたりでバンガローで自炊でもして、BBQでもしながら、夜は、ダイアモンドヘッドにナイトハイクもいいな・・・原付でも借りて島をぐるっと散策するのもいいな・・・

なんてことを妄想しながら友達に、メールをしたわけです。完全に思い付きで。

おい夏に海外いこうぜ!なんならハワイとかでもいいんだけど?とか。

そしたら一言。

おまえってお気楽だな。だって。

最近、お気楽とか、めでたいとか、そんな、心やさしいほめ言葉をたくさんかけてもらえる。

マチュピチュとかもいってみたいよな・・・

今年は1つはパスポートにスタンプを増やさないとどうにもこの気持ちはおさまらなそうだ。

そんなことを想いふけってたら、ふと

旅に病んで夢は枯野を駆け巡る

という芭蕉の句が浮かんで、どうして死にそうになって、最後に駆け巡る夢が枯野だったんだろうと思った。最後に思い描いたところが枯野だというところに芭蕉のすごさがあるなとその感性に1人でぞくぞくしたわけです。


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Title: ハトマメ
2010.01.19

パソコンから変な音がする。

少し前から気になってはいたものの、ちょっと長時間連続使用をして、知恵熱がではじめると、カリカリなんてかわいいものではなく、ごりごりと音がする。そんでファンが頑張ってパソコンを冷やそうとするものの、それでも音は鳴りやまない。

変な音がして困ったものってのはいままであったけど、例えば、高速を走ってる時のエンジンとか、法要の最中のお腹とか、静かな会議で椅子をひいたら鳴り響いたおならみたいな音とか。

このごろごり音はそれに匹敵するくらいに困った音だ・・・作業に集中できないし・・・もうそろそろ限界なんだろうか・・・

たしかに24時間のうちパソコンの電源の落ちてる時間なんてほとんどないぐらいに酷使してるし、使い方もたまに無茶な使い方してるけど、でももうすこしもってくれないと。

しかしせめて原因がわかれば対処のしようもあるのに。

昨晩、ヨイトマケの唄をリピートにしたまま寝てしまったから機嫌を損ねたのだろうか。それなら、今日はファイトをリピートで流したまま寝てみようか。

しかし、いよいよwindous7デビューしなきゃなのだろうか。

とにかく色々とバックアップをとりはじめておこう。

ちょっとしばらくおだてて、やさしく接しても機嫌がなおらなかったら、今後どうするか考えなきゃな・・・

最後だけ読んだらひどい男みたい。

もしかして、昨日Macがいいみたいなこといったから、拗ねてるのか。

かわいいやつめ。

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Title: シンプルな世界。
2010.01.18

Airmac Expressを買ったんで、早速家で、設定をしたわけです。

まずモデムとAirmac Expressをつなげたわけです。そしたら、ワイヤレスで拾う電波が、無線ルータとAirmac Expressの電波をわけてしまうために、無線でネットをしたまんま、AirTuneでリビングのスピーカに音楽を飛ばすことができないわけです。これは不便なんですね、そもそもリビングでパソコンをしながら、パソコンの音楽を、スピーカで高音質で流しながらネットするために買ったわけで、同時に使えないと意味がない。

そんで悶々と考えて考えて、いろいろ試行錯誤して、Airmac Expressを、既存のワイヤレス設定に接続できる機能があることを発見し、線をつなぎ直して、既存のワイヤレスLANにつなげたわけです。そしたら見事に、ネットしながら音楽を飛ばすことに成功したわけです。

しかも、知らなかったんだけど、副産物として、各家族、みんなHDDの中にある音楽は別々で、それぞれの好きな音楽をそれぞれのパソコンで楽しんでいたわけですが、Airmac Expressの電波上にあるワイヤレス内臓のパソコンでは、それをすべて共有できるという機能があるわけです。

しかもそれをそれぞれAirTuneでリビングに飛ばせる。

いうなれば、自分のパソコンから、離れた部屋のHDDの中にある、曲をリビングに飛ばすという芸当が可能なわけです。

それの設定に四苦八苦して、でもつながった時の感動といったら半端じゃないです。

やっぱ自分てば、根がおたくなんで、こういうの大好きとか思って、うきうきしながら。

それを今度別のところでも設定をしようと思ったら。

今度は、モデムとステレオの場所が遠い・・・ってことは、モデムから有線で、AirMacつながらないから、ステレオとに飛ばす電波に、既存のワイヤレス電波を使えないわけです。ってことは、音楽を飛ばしながらネットができないということです。

これには、そうとう頭を悩ませました。

PS3やテレビや、ディスカバリーチャンネルやナショナルジオグラフィックTVをみるのにももネットは使うので、その場所からモデムは動かせない、かといってステレオも動かせない。

この場合どうしても、どこかを有線にしなければならないのだろうか・・・中継器をおけば、なんとか回避できないだろうか、バッファローからたしかそんな中継器がでてたはずだ・・・でもチャンネルを変えないと、Airmacと、無線ルーター(NEC)とバッファローが干渉してしまうかもしれない・・・買ってしまってからでは遅いし・・・なにかいい案は・・・

AirMacのベースステーションを買うなら、その問題は回避できるが、でもわざわざ、そのためだけに買うのも・・・

そして、ご飯を食べる時も、お風呂に入るときも、頭の中で、電波をなんとか、中継して分けて飛ばすことができないか考えまくって、調べまくった結果。

Airmac Expressをもう1つ買って、それを既存の無線LANにつなげてその下に、1つぶら下げる形でクライアントモードにすれば、回線をわけることなく、AirTuneとネットを使えることが判明。

スッキリ。

まだ試してないから安心はできないけど。

そんなここ数日を過ごしてみて。

昔から、音響やテレビやビデオの配線や、変換とか中継とか、分岐とか、配線コードを買ってきてそういうことをするのが好きで。

たまに幼稚園で音響の配線や、電気関係のことを当たり前のように任されて、ちゃちゃっとこなしますけど、でも、これそうとうハイレベルな配線だな、とかすげえ中継だぜとか、自画自賛をして、だれかわかるひとに見せたい、この発想・・・とか思いながら自己満足してることがあるんですね。

まあそこにくるまでは、数々の失敗と、破壊を繰り返してるわけですけど

そんで思うのは、配線とかって、技術的なベースはあるんだけど、最後は発想なんだと思うんです。

発想といえば、AirMacいじってても思ったんだけど、根本的な原理はきっとFAXとかと同じなんじゃないかと思うんだ。完全に想像だから間違ってるかもしれないけど、ようは、データを、1回デジタルにして、専用回線で、飛ばしてそれを変換し直してるんようなもんで。

でもその技術をこんな使い方したら楽しいだろうだろうな、とか、こんな使い方したらわくわくするぜとか。

原理はシンプルなものでも、使い方次第で無限の楽しさにもなるわけで、いつだって楽しいとか便利の根底には、シンプルな発想があるんだろうと思う。

発想で次第で世界はどんどん楽しくなるんだ。

すこし前に、SONYが技術発表で電気を数メートル飛ばすことに成功したといってたけど、こういう技術がどんどん進化して、生活の中に、うおおすげぇっていうような発想がたくさんできてくるのが本当に楽しみ。

しかしこれからの家電は、無線で一括操作したり、一括でその機能を管理したり、一元化というのが加速していくだろうな。各メーカも互換性を重要視してきてるし、まぁでも間違いなく自分はまよわずSONYを使うだろうけど。

きっと使わず嫌いだけど、MACとか使ったら自分はきっと好きなんだろうな。いまから乗り換える気はないけど、AppleってどことなくSONYに似てるとこあると思うのは自分だけだろうか。

こんなマニアックな日記だれも最後まで読んでないと思うけど。

なにがいいたいって、自分の発想で、なにかが打破できた時は最高に快感だという話で、発想こそが楽しさを生みだす源になりうるんじゃないかということで。

そんでその感覚は、サイトを創るのにもすこし似てると思うし、突き詰めていくと文章を書くのにもすこし似てるような気もするわけです。

なにはともあれそういうことがいいたかったわけです。

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Title: ほっつきあるく。
2010.01.15


弱いとか、なにかができないとか、ギャップとか、首をもたげてくる雑多な感情や、そんなことは本当はそんなに大きな問題じゃないのかもしれない。

自分の中にあるものを問題視してもそれはあるところまでくれば受け入れるしかないわけで。

厄介な方は、それを隠そうとしたり、それをさとられないために、自己防衛的に沸き起こってくるほうの感情や行動の方で。

それをわけて考えないと、自分が怒り、悲しみ、苦しむのは、弱いからだと思ってしまうけど、そうじゃなくて、それは弱いのを隠したり、さとられないようにするからなんだってことで。

まえに、ネガティブなことをいつも考えているのは究極ポジティブなんじゃないかと思ったことがある。

つまりは、強いも弱いも、だれとくらべてんだってはなしだ。

自分は自分でしかなくて。

人と違うそういう禍々しいものや弱さがあるから、自分だって胸張れるんじゃないかと思う。

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Title: 灯す。
2010.01.14

顔をあげると前向きになるんじゃなくて、
前向きになると顔があがるんじゃないかと思うのだけど。

この2つはどっちが先でも作用しあうんだろうか。

*

手にしたら。

あとはどう使いこなすか。

*

年齢を問わずにいろんな人と話をしてると、ふと、ああその年になってもそこに悩んむんだとか、ああその年になっても、そこにひっかかるんだとか思うことがあって。

語彙や経験が違うから、直接的には見えにくくなっているけど、突き詰めていくと、しゃべりばに出てくる子たちの悩みや問題意識と対して根っこは変わんないんじゃないかと思うことがある。

そう思うと人間の根底にある悩みや苦しみに年齢は関係なくて、まるっと同じ方法で解決できるんじゃないかと思うことがある。

唯心論とか、唯物論の話じゃないけど。年齢はつまりは、体の使用年月を表すだけであって、悩みや感性や感覚に、それは比例して適応しているかというとそうじゃないなと思う。

*

仕事をだれかに頼むときに、相手の仕事のペースや心持ちや、どういう時にその人が力を発揮できて、どういうときにモチベーションがあがらなくて、どういうタイミングで頼めばいいか、相手の独自性をよく配慮しなけりゃうまく仕事なんてふれないわけで、独りよがりに仕事をふっても効率よく、前にはすすまないわけで、過大評価も過小評価もせずに、タイミングと機を見逃さないことって大事だなと思う。

微妙なニュアンスのタイミング、これが前後にずれることを摩擦というわけで、いかにそれを少なくするか。

そういう観察力にものすごくたけてる人っているんだよなぁ。どうやったらあんな観察眼をもてるのだろうか。

観察力って生きていくうえで、ものすごい必要な能力だと最近つくづく思う。自分ももっとそれを育みたい。

*


すこし先にものすごく楽しみなことがあるときに。

そこに向かう間の日々は、うっかり意識を先に飛ばしたまま過してしまうことがあるけど。

その1日1日も丁寧にしたいなと思うのにできない自分。

*


誰かを頼った瞬間に、万が一のフォローの為に動きはじめるということは、本当の意味でその人を頼っているのだろうか、むしろ共倒れするくらいの気持ちで誰かを頼ることで初めて打破できるケースというものもあるのだろうか。

わからなくなることがある。

*

精神的なストッパーとか、思い込みとか、自分の思う自分とか、そんなもんはきっかけ次第で簡単にガラガラおとたてて崩れるようなものでしかないでしょう。

*

我じゃないものない。

*

たまった膿をだすのには切るしかないわけで。

じゃ。だれが切るって話です。

執刀医がびくついてて手術ができるかい。

*

戦うきみのうたを戦わないやつらがわらうだろう。

ファイト。

だって。

*

家でいっぱいのみながら石田さん一家3時間スペシャルを録画してあったのをみた。やっぱおもしろい。いろんな番組がある中で、石田さん一家とビッグダディとはじめてのおつかいは最高の番組だ。光夫が怒られてるところとか、おかあちゃんの子どもに対する想いとか、孝之の結婚式のスピーチとか、何度見てもうるっとくる。大家族万歳。しかしわすれちゃいけない洋子さんもすごい。1人で焼酎のみながら独り言をぶつぶついいながら、見続けてたら気づいたら、飲み過ぎて、1人で家で飲んでるのに二日酔いになったくらいのめりこんでた昨夜。

*

人生を楽しもうと思ったら、まずは今日を楽しむことであって、今日を楽しむっていうのは、今を楽しむということで。

今をいかに楽しくあるか。

そんなマクロな取り組みが生きることを楽しみに変えるのかもしれないとか思って。

雨の日にも晴れの日にも、二日酔いの朝も。わくわくしどころはどこにでも落ちてて、ようはそれを拾えるかどうかなんだろうなとか思ったら。

こないだある人に、

「写真機材は、科学と物理でなりたっているわけで、そこにあるもの以上のものは、写りません。つまり。思ってもみなかった空気が写っているときは、自分の五感が、それを感じる事ができていなかっただけ」

という言葉をもらって、それを反芻しながら、うん。ほんとにそうだ。とうなずく。

そんで、逆に自分の見えてる世界がどれだけシャッターを押しても、その中に写しだすことができない時に、悔しい思いをして、そのたびに写真がうまくなりたいと思うわけです。

*

誰かや何かに楽しませてもらうことに慣れちゃうと、本当の楽しさってなんだっけってなりそうで、しかもそうなってる自分にすら気づけなくなりそうでこわい。

自分の目と頭と、感性で楽しみを拾っていけるような生き方ができればいい。

*

声に張りがあるね、といわれて。

そうか、いまの自分の声には、張りがあるんだと思って。

やっぱ張りのある声が出てる時は、お腹から声が出てるんだろうし、お腹から声が出てるということは、しっかり呼吸ができてるんだろうし、しっかり呼吸ができてるってことは自律神経が安定してる証拠なんだろうと思って。

なんかそんなこともちゃもちゃ考えてたら、腹に一物かかえてとかいうけど、腹に一物抱えてたらお腹から声が出るわけもなく、張りのある声をだせるわけもなくて。

そう思えば、お腹から声がでる。というのは、物理的な呼吸とかの方法論だけの話じゃなくて、精神的な部分もひっくるめていうのかもなと思って、その物理的なものと精神的なものが絶妙にバランスがとれてるとお腹から声が出て、そこに張りというものが生まれるのかもと思った。

*

理由をきかないのって優しいな。

そんな心遣いにぐっときて。

ありがたいと思った。

*

通勤途中に見えるスカイツリーが日に日に大きくなっていく。

きっとこのどきどきはつくりかけの時にしか感じられないものだなと思うと、これから完成までの時間がとても貴重な気がする。

*

単純なんだけど私に五感がある限り、どんなに辛くても生きていけそうな気がしてならない。

この言葉を何度も反芻する。

たくさんのものがこもった言葉というのがあって。
そこにこもったものが自分の中になにかを灯していくことがある。

あたたかさや、せつなさや、強さや弱さや、いろんな感情が凝縮されて、ぽたりと落ちてきた一滴みたいな言葉だと思った。


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Title: ばたふらい。
2010.01.11

やっぱ20代の終わりという節目だからなんだろうか、30才を迎えるにあたって、おもいがけないところや、おぼいがけない人からメッセージをもらって、ぐっときて、よしっておもって、返事は言葉じゃなくていきざまでしたいと思った。

ありがたい。

ほんと、ありがたい。

そんで思ったのは、各分野いろんな人の話をきいてると、本当に可能性は無限なんだなと思う。

したいことはなんでもできる。

そんでなにかを成し遂げようと思った時にまず必要なのは、方法論じゃなく精神論だとも思う。精神論のない方法論では、なにも成し遂げられない。方法論は精神論の中から生まれてくるものであるべきだと思う。

わかっているようで陥りやすいところだと思う。

そんなことを思いながら、

「そのこころは心ではなく情なのだ。浄土は情土なのだ、唯識で心はとけるが、情はときあかすことはできぬ」

という言葉を思い出して。

たしかに、経典を読んで、頭で浄土を思い描いている限り、お念仏は方法論に陥りやすくて、そんなんじゃ一切衆生とはまだほどとおいとか思って、大事なのは浄土なんじゃなくて、浄土を恋う気持ちによりそうことであって、救いを恋う気持ちによりそえなければ理屈ではない浄土というのはわかんないのかもしれないと思って。

その心の中にあるものこそが浄土であり情土だということなんだろうかと思うわけで。

それってやっぱり、最後は一緒に笑えて一緒に泣けることなのかもしれない。

なんてことがぐるぐるとまわりまわって、煮詰まりそうになったので、まっきーをききながらホットサンドをたべてもうひと眠り。こないだホットサンドメーカーを買ってから、朝ごはん革命だと思って、ホットサンドをたべまくりなわけで。

しかし冬は眠くてたまらない。体がカロリーと眠りを欲しているわけで。

気づけばうとうと。

そんでうとうとしながら、そういえば昔バタフライで25mおよげたのに、いまもう泳げないなとか思って、そんで昔できたのにできなかったことを具体的に考え始めたら、結構多いことに気づいて、それをもう一回できるようにするためには、それをはじめて習得したのにかかった時間よりも時間を要するだろうか、それともそれよりも短い時間でできるようになるのだろうか考えたら頭がさえてきた。

やったほうがはやいからさっそくご無沙汰してるジムにいってバタフライでもしてこようか。溺れてるのと間違えられて救助されないといいけど。

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Title: あるくみち。
2010.01.09

20代の終わりを総武線の中で迎えて、久しぶりにそこからみた景色に、いろんなことを思い出しながら、お茶の水で降りて、水道橋まで線路わきの道を歩いて帰る。

20代も終わりなんて、自分で勝手に区切って、感傷にひたりながら、この道を通れば、景色もすこしは変わって見えるもんかとおもってみたが、なんてこたない。15歳の頃見えてた景色と、今自分の見えてる景色はなんらかわんない。

そんなもんさね。んで?って感じ。

そんで、去年1年自分に少し負荷をかけたら成長できるかと思ったけどそうでもなくて、だからもうそういうのやっぱやめたと思って。開き直ったついでに、これからは拍車をかけて人生を楽しもうと思って。

自分の楽しいことなんだっけ。と思ったら。

例えば、こないだ買ったレンズを持って上野に散歩でもしに行くことで。そんで、もう少しあったかくなったら今年こそ少し排気量のあるべすぱでも買って、そこにハオな人のせて、浅草あたりでたべあるきができたら最高だなとか思ったりして。

そんでとった写真をのせるのに、ちまちまと自分のサイトをリニューアルでもしようかなと思って。

そんで時間ができたら、好きな本でもたくさん詰め込んで北斗かカシオペアで北へ、それかサンライズで出雲とかに旅に出れたらなぁとか妄想して。それと今年はみんなでアラスカにいけたら最高で。アラスカと言わずともパスポートにスタンプが1つでも増えたら本望だなとか思って。

そんで、会いたい人とたくさんあって。

神楽坂を夜な夜なふらふらしながら、おいしいご飯とおいしいお酒を、ハオな人たちとハビビしながら楽しめればさいこうで。

好きな雑誌と本と漫画に囲まれて、リプトンのレモンティをのみながら、コンソメパンチのぽてちをたべながら、ウイイレしたりして、むふむふ言ってられたら幸せで。

くだらない下世話な話をしながら、がははと笑ってたまにシリアスな顔なんかできたら言うことない。あ。そうだ今年こそはほんとにフットサルで優勝しなきゃ、いや優勝はむりだから最後までがんばろうくらいにしておこう。

ああこうかくと、これけっこうよくばったな。

まあいいか。

救いがたきわが身だし。

なーもなーも。

ありがとう。

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Title: りゅうじゅ。
2010.01.04

一流の選手になればなるほど、信じる気持ちとか、応援とか、自信とか。

最後の最後で、その記録やプレイや、演技を支える一番大事なものに、そういう抽象的で、理屈じゃない部分を挙げたりする。

でも、それもきっとそこに来るまでに、そういう非合理的なものを否定したり、あらゆるものを否定しつくして、結果を出すために、消去法で、デメリットを消し続けてきたからこそ、最後の最後にそういう、抽象的なものが、なにかを左右するうえで重要な部分を占めるということを体得できたんだろうと思う。

これもぐるっと一周して同じところだけど同じところじゃないところに立っているということなんだろうと思う。

気持ちは大事だ。

だけどそれは気持ちだけじゃないと自ら体得したプロセスの上になりたってる言葉であるという事実も忘れちゃいけなくて、でもそこに行きつきたいときに、同じプロセスというのは存在しなくて、自分は自分の方法でそれを体得しなきゃいけなくて、そうやって体得して、1つ1つの言葉や行動やが一周して同じところにたつ要素になるんだろう。

そんでそうやって、一周して同じところにたった言葉や行動を、自然につかえ、自然にみについた状態とその数というのが、ある種、線引きというか、ラインなんだろうと思う。

時に自分自身の人間性や、築き上げたものまでも否定しながら、ウィークポイントを自覚して、デメリットを消していくということは並大抵のことじゃない、強い精神力と、順応性と、信念を持ち合わせていなければできないことで、それができるからこそ、そのラインを越えた人たちを一流とか天才呼ぶんだろうと思う。

どんな分野でも、スポーツだろうと芸術だろうと、宗教だろうと、なんでもそうだ。

人間自分自身の中に何かを築き上げていくことは、あるラインまでは努力と時間をかければできるんだ、でもあるところから先は、それを破壊しなきゃすすめなくて、それこそがなによりも苦しく、壁を越えられるか否かの瀬戸際なんだろうと思う。

彼らをそこまで駆り立てるものは何だろうということを考えながらも、恐れ多くも自分もいきたいんだ、そのラインの向こう側に。

なにをと笑われても。

最後は自分を信じることだよ。と質感をもって言いたいんだ。

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Title: さかなのめ。
2010.01.03

早速昨日届いたAF DX Fisheye-Nikkor ED 10.5mm F2.8Gを持っていつものことながら、上野へ散歩。画角180°は半端じゃない。慣れるまで時間がかかりそうだけど、慣れたらこれはおもしろい写真が撮れそう。春に桜が咲いて、夏には蓮が咲くのが楽しみ。

いままで魚眼レンズって使ったことなかったけど、これはおもしろい、そうとう遊べそう。カメラはやっぱレンズだ。

しかし上野の神社にかかってた絵馬が、これほんとに日本語で書かれてるものがほとんどなかったことに衝撃を受けた。英語とハングルと中国語、なかにはアラビア語まで。

そんでまだ3日だっていうのに、上野動物園があいてたもんで、動物園の中を抜けてモノレールにのってお山の方へ抜ける。

いろんな動物がいる中で、なんか、これをみると平和だなぁと思うのは、

昔からなぜか象。

国語の教科書の影響を少なからず受けているのだろうか。

白い鳩なんかよりも象の方が平和をかもしだしてるきがしちゃう。

なんかやっぱり平和が一番と、10年前にいった自分と、やっぱ平和が一番だという今の自分は同じ言葉を発していても全然違って。

この10年の中で、いろんな想いや経験をして、平和の意味も、多面性も、10年前よりはすこしくらい見えるようになってきて。

平和というものにのせている意味も想いもぜんぜん別物なんだけど。

言葉にすると10年前となんらかわらない。平和が一番だね。になるわけで。

きっとこれがぐるっと一周して同じところなんだけど、同じところじゃないってことなんだろう。

とにかく、なんか象をみるとほっこりするって話。

そんでいつもツキノワ熊のところにくると、動物園の動物は幸せか否か?という疑問がなんでかいつも思い浮かぶ。

そんでペンギンのあたりまでそれをいつも考えて歩く。

いつも違う答えが浮かんでは消える。
何度この疑問を考えたんだろうか。

でも今日は。

言葉にするのは難しいけど。

檻の中にいる動物は、きっと幸せだとか、不幸せだとかないんだろうと思った。

いうなれば幸せだし、いうなれば不幸せなんだろう。

草原を走り回ってるほうが幸せだよと思うのはあくまで、自分の想いにすぎなくて。幸せっていう基準が考える人間の数だけ存在する以上、その質問に明確な答えはないんだろう。

そんで、そういうことをうっかりにでも、考えてしまうという行為自体が人間が苦しみにいかにとらわれているかというなによりの証拠なんだろうなと。

なんてことを白クマの顔をみながら思って。

またここでもぐる~と一周してそんな思考がいいいみで沈殿してきたなと思った。

そんで、上野にもパンダが帰ってくるってことをきいて、なんか無条件にどきどきしてわくわくして嬉しくなった自分がいて、絶対ひやかしにならびにこようと思った。

それと、上野で「聖地チベット展」というのやるみたいです。なんか、この案内をみて、いろんなものがうわっとこみあげてきた。

チベットの宝を展示するって、なにがあるかは詳しくは知らないだろうけど、中国がチベットから略奪したものも含まれているんだろうし、まともなルートではいってきてるんじゃないものもたくさん入ってるんだろうし。そもそもチベット仏教において、歴史的にも宗教的にも人目にさらすべきでないようなものも、あるんだろうし、それをさらけだすという・・・なんだろう。いうなれば、アメリカが伊勢神宮を襲撃して、そこでずっと人目にさらされることもなく、大切に守られ日本の歴史の中で育まれた神器が、ニューヨークの博物館に並ぶようなものなんじゃないかとか思うと、うへ~すげ~とかいってのうのうと見に行くのもどうかと思ってしまうんだ。

でももっとつっこんで考えれば、これが、日本で見られることで、それを見た何万人の中からもしかしたら、チベットへ深く関心を持った人が、これがきっかけになって、いつかチベットを完全に開放に導く可能性だって0じゃないわけで。

自分の思う、いいとか、悪いだけじゃ計り知れないものがあるんだなと思う。

まさに因果、宿縁の世界。

社会も歴史も人智を超えて流れゆくわけだ。

さぁ。

そんなこんなで、いよいよ2010、始動です。
今年はどんな1年になるんだろうか。

たのしみたおしたい。

でも味付けにこまかいイガイガしたものでチクチクするくらいのものがあるほうがビールがうまいので。

苦しみは味付けに少々ってことで。

全然関係ないけど、さっきテレビでやってた「パルクール」やりたい。まぁ簡単にいえばかっこよく街の中を走り回るっていうのなんだけど。これどこかでスクールとかないかな・・・と書いて。ああ去年もこんなのりでちょうどこの時期にバク転学校に行ったんだということを思い出した。なんだ新年はなにかにチャレンジしたくなるものなのか。

あと6日で30歳の今日この頃。


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Title: ふぃっしゅあい。
2010.01.01

あけましておめでとうございます。

2010年。今年はじゃんじゃんいきますよ。

まっしぐらいきますよ。

でもとりあえず人間ドックなるものをしてみようかと思う。

*

こないだ水族館で、まあるい魚眼の窓から見えた水槽の中に見えた世界に一瞬で心奪われて、あの目で世界をのぞいてみたくなって、年明け早々、新しいレンズを衝動買い。

AF DX Fisheye Nikkor ED 10.5mm F2.8G

Fisheyeなんてかくとちょっとオサレな感じだけど、なんてこたない魚眼レンズ。

はやく試し撮りしたい。

*

なんか、世の中というのは自然発生的に逆説を生みだすんだなぁと、しみじみ思う。

希薄な人間関係の中から育まれるのは、人とのつながりで、宗教とかお寺もきっとそうで、最近では、宗教離れお寺離れが進んでるというけど、そこで本当に、やばいぜ。みんなお寺離れしちゃうぜ。ってわてふためいたところで、たぶんそれはきっと自分の力で変えられるような程度の流れじゃない。むしろ本当にそうなったら、次には自然発生的に、こんどは宗教やお寺が求められるようになるんじゃないかとたかくくっちゃう。栄枯盛衰、盛者必衰。

いつの時代もそんなもんで。世の中や社会の流れなんて、いまとは逆の方向へ進んでいくようになっていて、それを止めようとして止められた人なんていままで1人もいないんだと思う。

だからそれはそれでいいんだ。

人生の長くて80年の中で、その移ろいを味わいながら生きてりゃそれでいいじゃん。とか思う。

なにかを変えられると思って何かをしてる行動の多くは、それは自分の中のなにかを満たすためである現実の中で、それがたまたまなにかを動かすことはあるかもしれないけど、それは、あくまで逆接の中にあった自然発生的な流れの中にのっただけなんじゃないかと思う。

じんせいあまのじゃく。

*

こぶしぐっとにぎってど~んとよっしゃ。

*

31日が1日になるだけで、こんなにいろんなものがまっさらになるなら、毎日今日が31日で毎日明日が1日だったらいいのにとか思っちゃう。

*

亜鉛不足。

*

あいたい人がいる。

いつあえるんだろうか。

*

無重力体験が58万円でできるんだって。

*

きっとツイッターにはこういう、どうでもいい一言を刹那的に吐露していけばいいわけか。

たしかに気持ちいいかもしれない。

ついったーはじめました。
http://twitter.com/RYOMONK

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  • 自己紹介:1980年1月9日生まれ。どこからを趣味と呼んでいいのかは模索中。好奇心は旺盛。