Title: 間違いだらけの道順。
なんだろう、自分に影響力があるとかそういうんではなく、こういう仕事をしていると、やっぱり自分の言葉や、自分の話が、誰かの中で、少なくともなにかの動機付けになったりする可能性があって、むしろ布教という観点から考えれば、仏教というエッセンスが、だれかの中に流れ込んで、なにかが変化したり、影響をすることが大切だと思う。
でも、例えば法話や直接、誰かと話をしたときに、相手の中で自分の発信したものが、なにかに影響したのかもしれないと実感できるたびに、ああほんとにこれでよかったんだろうかと思うことが多くなった。
今年の新盆の時に、話を聞きながら涙を流している人が何人かいるのを見て、このタイミングで、こういう話をしてよかったのだろうかと思ったら、なんか話すことにはすごく責任が伴うんだなと思って、責任が伴うんだと思ったら、なにを話していいのかわからなくなった。
いままで人に何かを伝えることとはどういうことなのかとか、どうやったら人になにかを伝えられるのかとか、言葉とは何かとか、声とは何かとか、間とか空気とか、そういうものはなんなのかとか、ことあるごとに頭でぐるぐると考えたりしてきて、
自分の中でそうやって形作られてきた、技術的な部分と、方法論と、少しづつ固まってきた持論とを、武器として使えるようになってみて、それが、それなりに通用するようになってくると、そこから先に身につけなくてはいけないのは、その武器を使うときの心構えというか、精神的な部分の方も同時に磨かなきゃいけないんだろうなとか思う。
どうやってそれが身につくのかと思って考える。
なにかを身につけたいと思ったり、なにかを生業として、それを誰かの為ではなく、自分の道として進んでいこうと思ったり、研ぎ澄ましていきたいと思ったら。
やっぱりあるラインまで来たら影響に関して、無責任でいることも大切なのかもしれない。
自分が影響を与えるから、なんてことをもちゃもちゃ考えているうちはまだまだ、小手先で、影響なんて与えても与えなくてもいい、自分は自分の思う道をまっすぐにあるいていけばいいのだと思う。
影響とは結果であって、手段ではないんだろうと思う。
それがなんか人に影響あたえてるのかななんて思って話をし始めると、法話は影響を与えるための手段になってしまう。でもそれじゃちがって、法話をするというのは、自分の中にある仏教をはなさずにはいられないことであり、自分の経験や体感を言葉にこぼしていていくことで、その姿勢が結果として、だれかに影響を与えるようなものなんだろうと思う。
なんでもそうなんだけど。
手段と目的はたまに確認しないとごっちゃごちゃになることが多い。
自分は一体どこにいきたいんだと、足元を確認して、
前に前に。
POSTED @ 2010.07.26 |
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