Title: 世間の代名詞を捨てること
いまこの社会で宗教を扱うということは本当に難しい。
末法とはよくいったもので、社会というものの中で生きる上で、内面に目を向けることや宗教というものに触れる機会というのは優先順位ではかなり下のほうに位置せざるをえない。
どうしても生活であったり、仕事であったり、それこそ娯楽であったり。よくみてみればいくらでも選択肢のある中で選ぶこと自体が大きなカテゴリーの枠の中だけにあることで、そこの枠からはずれた選択をするということは極めて少ない。
豊かになることはすばらしいことだと思う。豊かになるというのは言い換えれば選択肢が増えること。
でも選択肢が増えるということはそこから何を選ぶかということが選ぶ側に委ねられる。そんなたくさんの選択肢の中で、あれはいい。こういう生き方は理想。あれは負け組。これは勝ち組。なんて見出しがおどり特集を組まれる。
こないだまでよかったものがすぐにダメになる。それに振り回されて、価値観におどらされて、追われるようにそれについていこうとする。選択肢が増えた分、迷いが増えて、そこから生まれる苦しみは年々増えていくんじゃないかと思う。
犯罪の低年齢化だってその弊害のひとつだと思う。
自分が幼稚園や小学校やだった時にくらべて今の子どもたちに課せられた選択肢ははるかに多いんじゃないかと思う。
そこにかかる重圧や期待にこたえようとする想いは大人にかかるものなんかよりも何十倍も重い。本来は社会からかかるそういう重圧を取り除いてあげるはずだった親はそれに輪をかけるように家でもプレッシャーをかける。
最近でも犯罪をおこした人が口々に言う。親から勉強しろといわれて。親に就職をしないのを馬鹿にされた。親を困らせてやろうとおもった。
親もふりまわされてる。価値観に。子どもはこうあるべき。世間に顔向けできない。そんな言葉の1つ1つがこの世界を少しづつゆがめていく。
職業だってそうだ。
こういう職業がかっこいい。ああいう仕事がしたい。自分に合う仕事はこれ。転職して自分に合う仕事を。そんなたくさんの選択肢と職業選択の自由がもたらしたのは、ニートという言葉とネットカフェ難民ですか。
みんな疲れてるし迷ってるのに。そんな姿にすぐにまた世間は見出しをつける。
GDPに比例して増えていくのは自殺者の数をみて、本当に必要なものはなんだろうと考えることが大事なんじゃないかと思う。
あれがいい。これはわるい。そう判断する自分の感覚がほんとうに正しいなんてことは絶対にない。
くさいものに蓋という言葉がだいきらいです。
くさいものなんだ生きるということは。
そういう価値観の連鎖の中にいるということが社会であり世間であり。さらには世俗であり衆生。そしてくさいものに蓋をするということが人間のものさし。
そんなものを手放していきるということが出家。
でもそんなことできるはずもない。出家しました、はい価値観にふりまわされませんよ。なんてことあるはずもない。むしろ出家をすれば出家をしたのに。出家者だからという新しい枠にとらわれそこにまた1つの苦しみが生まれる。
親鸞はそんな自分をみて僧をやめようとした。自分は僧なのに人を好きになるし。同じようなところで苦しむしという思いが強かったのかもしれない。そこで長いこと仏教にかかわっていながらもまだ自分の中にも僧はこうあるべきで、これなら世俗だという人間の価値観に振り回されていたことに気づく。
僧をやめるとか続けるとか。僧であることとか俗であることとか。そういうものにとらわれていてはだめだと。
そこで非僧非俗という立ち位置を打ち出す。
僧に非ず俗に非ず。じゃぁなんなんだと。
自分はいままでそう思ってた。
でもこれはじゃあなに。じゃなくて。
ない。なんもない。ってことなんじゃないかと思った。
僧でも俗でも、なんでもない。
愚禿釈親鸞
これだけ。
親鸞なりにすべてを手放した結果が「愚禿釈親鸞」にいきついたんだと思う。世間の代名詞の中で生きることを捨てるということが真宗の中ではものすごく大切なことのような気がした。
そうおもえば「ひとへに親鸞1人がためなりけり」という言葉の意味もなんとなく了解できるようなきがする。
POSTED @ 2008.08.27 |
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