![]() ![]()
|
![]() Title: お日様のせいにして。
2008.06.27 今日は朝からブルーハーツの「休日」が頭の中でずっと流れてる。マーシーの声にはなにかいろんなことがどうでもいいやと思えるようななんとなく気の抜けた空気がある。 穏やかな日に風が吹いて。穏やか日に列車に乗る。 あぶないあぶない。 ほしがりません夏までは。 ■ どうも一昨日から下の歯の前歯が二本だけむずむずする。ムズムズする以外の表現が思いつかないんだけどやたらムズムズする。大人の歯でも生えてくるんだろうか。。。 ■ 今日は朝からお寺の境内も刈り込みをしてたけど、この時期造園業者ってのはきっと書き入れ時なんだろうな。 ■ つい先週聖火はラサに到着した。粛々と続けられる聖火リレーに対してなんの報道もなければ、一気にフリーチベットの熱が冷めてしまったかのようにそんな話題ものぼらない。報道ってのは力あるなぁ。こわいなぁ。そしてそれに煽られるたくさんの人たち。 ■ 頭のチャンネルの切り替えが最近ものすごくスムーズにいくようになったとおもうというよりもきっとコツがわかったんだろうな。ここんとこ幼稚園の研修や話し合いばっかりで読んでる本や考えてることも保育や幼稚園のことばっかりだったけど、そんなこんなしてるまにお盆が目の前に迫ってきて原稿書くための準備を始めたら面白いくらいきれいに頭が切りかわる。自分にしかわからない変化だけどほんとこの1年でそういう変化に対応するのがものすごくうまくなったと自画自賛。 ■ とりあえずビールがのみたい。 ■ 緑化計画で植えた芝生を子どもたちに開放したら、イメージどおりの遊びと予想通りの顔をみせてくれて大満足。やっぱ環境設定は重要だな。芝生をロープで囲うのと囲わないのだけでこんなに遊びの種類が変化するとは思わなかったしウッドデッキをひとつ置くだけでも遊びががらりとかわる。ある程度予想はしてたけどあからさまに予想外の遊びをしてる子もいて、やっぱすごいなぁ子どもは。この想像力や発想力をいつまでも忘れないでいれたらいいのにな。 大人になる中で社会とか常識とか、普通とか。そういう言葉の中に生きていく中で真っ先に鈍っていってしまうんだろうな。 すくなくともうちの幼稚園をでた子どもたちにはそれを忘れてほしくないなぁ。 読み書きや計算なんかに費やす時間があったらどんどん遊ぶべきだ。遊びこそが生きる勉強だと思う。ぜんぶ詰まってるよ遊びの中には。 ■ 世の中にはタイミングがある。 ■ 宗教でも保育でも。そうじゃなくてもなんでもだけど。少しでも深く、少しでも広く知識を深めようとおもったらまず何かを得ようと思うのではなくてまずは疑問をもつことなんだと思う。素朴なものでもいい。なんでこの人はこういうのだろうか。その背景には何があったんだろうか。これはどういうことだろうか。疑問はさらに高度な疑問を生む。その繰り返し。 日蓮が念仏をしてると無間地獄に堕ちるといったのを取り上げてよく真宗の人間と日蓮宗の人間は相反するというけど。日蓮の時代にたしかに真宗の中に念仏を間違った解釈をしていた人がたくさんいたことは事実で、「本願ぼこり」という言葉もあるが、まさに歎異抄が書かれたのもこの時代なわけだし、その言葉尻だけをとらえていがみ合っているうちは本当の姿はみえてないんだと思う。 なぜこの人はそういうことを言ったのか。行ったのか。 これは時代に関係なく。 秋葉原の事件の犯人だってそうだけど。 かならず。そこにはかならず理由がある。 おれはその理由はつきつめていけばきっと最後の最後には自分の中でもきっと理解できるものなんじゃないかと信じてる。 他人事なんて事実は一つもない。 ■ なんとなくウマがあう。 そういうのって幸せだと思う。 なんとなくウマがあうは。 きっとなくならないんだとおもう。 ■ 感性というのは時間という概念のないところで育まれるんじゃないかと思う。わびもさびも。茶の心も。絵もそうだしなんでもそうだけど。感性を磨くということは時間の縛りをどれだけ取り払っていきるかということに直結するんじゃないかと思う。 そういう意味じゃお寺の生活というのは理にかなってるんだろうな。 子どもの感性が大人よりも豊かなのはきっとそれだけ時間に追われてないからなんじゃないかと思う。 ■ さて庭に芝刈りにいこう。 | コメントを書く (0) | Trackback (0)Title: 雑文
2008.06.22
「はじまりはいつも雨」をききながらどっぷりと梅雨気分にひたろうとおもっていたのに気づいたらさだまさしを熱唱してました。だいぶ疲れてます。まさしかあややが自然に出てきたときは要注意です。 最近あった一番嬉しかったことはクシャルダオラをやっと倒したことです。なんのこっちゃとお思いでしょうがなんのこっちゃでいいです。風を纏っているんですよ。 さて。 ここ数年ではじめて天一のラーメンをしばらく食べたくないと思いました。 ワークアウトのし過ぎで腰が痛くて整体にいったら運動不足じゃないですか?といわれました。 さっきサザエさんを見ていたらなんか涙が出そうになりました。 こないだな久々にプリプリのMを聞いたら妙に心に響きました。 いま心に響きましたと変換しようとしたら。 ここエロに響きましたとなりました。 最近身近で事故が相次いでいます。みなさん事故には気をつけましょう。恋の交通事故は大歓迎ですが。出合いがしらにゴツンというよりも出会いがしらにゴツンということもあるかもしれないし見通しの悪い路地だけを選んで走ってみようか。 井上雄彦最後のまんが展みにいきたい。 目覚ましをかけないでねたい。 おいしいビールがのみたい。 いやぁびっくりするほど書くことないわ。 あ。 | コメントを書く (0) | Trackback (0)Title: 梅雨はどこいった。
2008.06.17
原付にのんびりのって火照った身体を冷ましながら月を眺める。風がものすごく心地よくていつまでも走っていたくなるくらい気持ちいい。 なんかお腹のそこからわいてくるこのなんだろうねこの開放感というか自由感というか。胃の奥のほうからこみ上げてくる感覚、すきだなぁこの感覚。 ほんと月ってきれいだわ。妖艶っていう表現がぴったり。 しかしジムにあるシャワーをあびていると高校時代を思い出しこっそり上からシャンプーをかけられるんじゃないだろうかとかカンチョウされるような気がしてしまうのはもうどうしょうもないな。 ■ 今年は緑化計画と題して微力ながらECOの波にのっているわが幼稚園ですが。 天然芝・どんぐりの木に続いて、ナスとトマトと稲を栽培してるのですが、さらにこんど滑り台の下にクローバーを植えることにしました。クローバーなにげにクッション性もあるから遊具の下には安全だし、遊びの幅も広がるし、花が咲いたらきれいだし。鳥のえさにもなるし。強いし。ってなわけで早速種を注文。 だいぶ緑化計画進行してきました。でも今はいいけど冬場とかどうなんだろうか。 ■ 情報の共有ってのは大事だと最近感じる。 よく「ほうれんそう」報告・連絡・相談は職場では一番大切だという話があるけど、やっぱそれができないとどうしてもうまく回らないことがある。先日幼稚園でも怪我をした子どもの報告が全職員に伝わらずに知らない職員が十分な対応が父母にできないということがあった。やっぱ同じ旗印の下で仕事をするのであれば「知らない」は通用しないし「知らなかった」じゃすまされないことがたくさんある。と改めて反省。 ■ しかし梅雨はどこいった。 ■ | コメントを書く (0) | Trackback (0)Title: 雑感
2008.06.10
たまにはつばはいてゴミ箱でも蹴飛ばしたらいいんだ。そんでそのままふてらずに次の日には何食わぬ顔で花に水でもあげればいい。 なんだい昨日はあんなことしたのにしらじらしい。今日はお花に水あげて帳消しですか。忘れませんよ昨日の事を。なんて思う心こそがくそくらえだ。 たくさんの二面性と矛盾を抱えてるのが人間ですよ。 どこぞの事件をみて思うわけじゃないけど、元気出して顔上げて、さぁいこうぜ太陽の下を。なんて時代の限界ですよ。ひずみだらけでつぎはぎだらけで。隠し切れないしおおいきれるとおもうことが大間違いで。 自分をたなにあげないで考えたらいいのに。 ひどい事件だ悲惨な事件だと感想いって終わりですか。 ひどいも悲惨も主観でしかないのに。そう感じる自分の中にも間違いなくあるものがどこかで誰かをおいつめてるのかもしれないのに。そんなことより犯人の文集の中身と勤務態度のほうが知りたいんですか。 くさいものには蓋をしてもくさいんで、くさくていいじゃんといえるひとになれたらいい。 おいつめない。おいつまらない。 なんだろうねほんと。 窮鼠猫を噛んだら鼠だけが悪ですか。 Title: かわらないところ。
2008.06.09
最後に人が還るところは。手を差し伸べてくれたり甲斐甲斐しく世話を焼いてくれるところでも、信念をもって突き進む力強いところでも、誰かや何かのために心血を注ぐところでもないんじゃないかと思う。 なにもしてくれないところ。なにもしないけど突き放すわけじゃなく。いつまでもそこにいさせてくれるところ。ただそれだけなんじゃないかと思う。 最後の最後に安心できたり癒されたりするのは。 なにかをしてくれるよりも、なにもしないで横にいてくれるだけいいんだと思う。まるごとそれでいいよって言ってくれる所なんだと思う。 南無阿弥陀仏をとなえればなんか救われたり、楽になったり、ときには成仏できるとか思ってる人がいる。そんな便利な呪文みたいに感じてる人がいるかもしれないけど。誤解をおそれずにいうなら、阿弥陀さんはなんにもしてくれない。いくら念仏を唱えたところで目の前に現れてなにか苦しみを取り除いてくれる方法なんて教えてくれない。そもそもそんな非現実的なものじゃない。 ただ阿弥陀さんはそこにいるだけ。それが存在するかしないかの問題じゃなく。いつでもぶれずにいたいときにいたいだけ、いさせてくれる場所みたいなもんなんだと思う。 そんなの意味ないじゃんともうかもしれないけど。 南無阿弥陀佛っていうのは。 言い換えれば。 現実よど~んとこいと。だめなら泣きましょう。よければ笑いましょう。必要なときはここにいるよ。なんにもできないけど一緒にいますよ。いたいだけここにいたらいいよ。それだけしかできないけどね。 ってことなんじゃないかと思う。 さらにいえば。 お寺って場所はそういうところなんだろうな。中道っていうのはどこにもよらないところ。真宗でいえば俗でも僧でもないところ。 どこにも片足つっこまずにのらりくらりとある場所。世間とは時間の流れがすこしずれてるところ。 正直いままではなんとなくそれが嫌で。なんかそんな時間の流れや自分のおかれた環境がぬるくて、なんか宙ぶらりんのような気がしてたし、そうじゃないほうへばかり進んでたような気がするけど。 最近思うのは、お寺というのは、甲斐甲斐しくなにかしたり、誰かや何かや社会のためでもなく、ただ価値観を振り回さずにそこにいつづけるだけでよくて、さらにいえばそうやっていつづけなきゃいけないんだろうな。そんでそこに足を運ぶ人に変わらずにいられたらそれだけでいいのかもしれない。 きっと今の時代に生きている人は、いろんな価値観に振り回されてて、こういう生き方は理想。こういう活動はすばらしい。根暗はだめだ。ひきこもっちゃだめだ。納豆は体にいいぜ。ポテトは体に良くないぜ!耳をふさぎたくてもたくさんの情報にさらされて。さらされ続けて麻痺してるのかもしれないけど、絶対こころのどっかが疲れてる人がたくさんいると思う。 こうかくと誤解されそうだけどお寺は胸をはってなにもしないことをしなくちゃいけないのかもしれない。 最後に還るところ。最後に人が安心するのは。 きっとなにかを変えられる力ではなくて、なににも変えられない力なのかもしれない。 | コメントを書く (0) | Trackback (0)Title: 入梅。
2008.06.02 梅雨にはいったらしい。そう聞いていやな気持ちのしない自分がいて、ああこの1年で自分のなかでなにかが変わったなと思った。小さなことだけど大きな変化だと思う。 でも早く梅雨に入った分はやくあければいいのにって思う自分はまだいる。 そんなことを考えながらタクシーにのったら運転手さんが話しかけてきた。ガソリンの値上がりのことから政治のこと、あとは運転手さんの家族のこと。なんとなく話しをさせたくなるような話口だったので、ついこんなこといわんでもいいのにっていうことまで話した。 そしたら降りるときにお金を払い終わった後。運転手さんがおれに120円渡した。 おどろいた顔してたら、運転手さんはコーヒーでも飲んでください。楽しい話でしたといった。 なんかその一言ですごく気持ちがあたたかくなったのに。不意なことで気の利いた言葉も返せずこちらこそありがとうとだけで精一杯だった。 その120円をにぎってタクシーをおりた。 言葉というもの。ちゃんと話をすること、これは軽んじたら絶対にだめだなぁと思った。 まぁコーヒーは飲めないんだけどね。 そんな入梅の今日。
|
![]()
![]() ![]()
|