Title: よんじゅうろく。
その疑問は、もうずっと自分の中にあって。
自分がなにをしても、結果の如何には左右しないのだとしたら。
なんで自分はがんばっているんだろう。
なんで自分はがんばんなきゃいけないんだろう。
とか思って。
がんばんなくてもいいか・・・とか思うけど。それって努力しないみたいだし、成長できないじゃんとかいうところにぶつかって・・・
じゃあどうしろっていうんだ。ってところの壁が厚くて、そこでずっと躓いてたわけで。
なんもしないで、のらりくらりしてるのが、本当にいいわけない。そんなの、結局独りよがりの自己満足にすぎないし、そんなんじゃちょっと違うんじゃないかと思って。
自分の行動が結果に左右しなくても、自分は最後の最後までもがいていたいんだ。とか言ってみたりしながら。プリウスだのランボルギーニだの理屈こねたりして。
同じようなことを、ここ何年も考えては書いて、書いては考えて。
尻尾をつかみそうになると、また振り出しで。
そんなことを繰り返し繰り返し、ぐるぐるぐる考えてたら。
なんか今日。突然ぽかっと。
喉にささった小骨がとれたような気がした。
きっかけなんかなんもないんだ。
ほんとに、すとんと。
1つの事実が勘違いかもっておもったら、そこからいろんなものが一直線にならんだ気がした。
勘違いしてたのは、頑張ってる時に、それは自分が意識的に頑張ってると思ってたんだけど。きっとそれは違うのかもしれないってことで。
きっと頑張ってる時っていうのは、いうなれば自分では手が抜けない時であって。
正確には頑張ってるのではなくて、性格上頑張らざるを得ないというか、頑張るという言葉で本質を隠してしまってるけど、それは、結局、無意識になにかを補うためや、覆い隠すためでもあって、だから結局は、手を抜こうと、堅く心に決めても、結局そういう場面では、自分は頑張ってしまわざるをえないんだろうと思う。
だから、いうなれば、意識的に頑張ってるのではなくて、頑張っているという行為自体が、もう自己の中から無意識におきるものかもと思ったわけで。
そう考えると、たしかに、自分が頑張るときは、そこに理由がある。
その理由は、様々だけど、大抵は自分の中の小さな決まり事みたいなものに、触れていたりして、譲れなかったり、我慢できなかったり、認められたかったり、自己を誇示したいときだったり、貪欲に楽しみたかったりってことが多くて。
結局は、その理由があるから頑張ってるということは、
頑張ってるんじゃない。
自分が頑張らざるを得ないだけなんだ。
だから、きっと頑張らないと思っても頑張っちゃうから、そもそも頑張らなくてもいいのか?なんて疑問、それ自体にとらわれてて、ホントは意味なんてなかったのかもしれない。
頑張るは自己防衛的に湧いてくる止めようのない欲求なんだ。だから止めようとしても止まらなくて、それに、いいも悪いもない。
そう思ったら。
頑張ろうと、頑張らなかろうと、結果の如何に左右することはない。
これは事実だと思う。
でもじゃあ、がんばんなくてもいいかといえば。
人はほっといても頑張る生き物で、頑張らないというのは、意識的にすることではないから。
いうなれば、その頑張ったという行為が、結果を招くためのものではなく、自分の中の理由を納得させるための行為にすぎないということを知っておくことが大事なんじゃないかと思った。
どうしても人は事実から目をそむけて、頑張る自分を肯定したくて、肯定した自分を認めるために結果がついてこないと許せないけど。そうじゃない。
それを知ってるか、知らないかで全然違うと思うんだ。いろんなことが。
仏教は事実だと、最近何の迷いもなくそう思う。あまりにもオブラートにつつまなすぎて、時に怖いくらい。
その事実が怖いから、それを真実だと認識させないものが、我であって煩悩であって、いうなれば、自分がかわいくて仕方のない生き物の宿命なんだろう。
言葉にすると簡単なことなんだけど、ここ数年ずっと喉につかえたものがすっと落ちた気がした。
こういうときの気持ちというか、ぱああっといろんなものがつながってすかっとする体感は、いままでに2度くらいあって、次にいつ来るかわかんないけど、なんか目が悪くなって、知らず知らずに過してて、はじめてメガネをかけた時のような感じの何十倍もすかっとしたような気分。
POSTED @ 2010.02.15 |
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