• PHOTO最終更新日2010年10月11日



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Title: きくらげ。
2008.09.24


今日の朝、足につけていたミサンガが切れた。

大学にはいってはじめてのGWにアメ村で買ったもの。それからいままで一度も外れたことなくもう10年近く身近にあったもの。

たまになに願ってるの?と聞かれるたびに適当にごまかしてきたけどもちろんそこにかけた願いはしっかりと覚えてるし忘れたことはない。

きれた瞬間にああこれが答えかと思った。間違いない。
いろんな意味ですっきりした。

物に思い入れを持ちすぎるというのはよくないとは思うけど。これだけはものすごく思い入れが強い。ここ10年の自分の歴史には必ず立ち会っているわけだし、ヒマラヤを越えた時も、アンコールワットで夕陽を見たときも、ベトナムでドリアンに頭突きした時も、チベットで白目向いてる時にも、ネパールで腑抜けてる時も、中国でメイヨーされてる時も。笑ってる時も泣いてる時も怒ってる時も、ずっと身につけてたかと思うとこの真黒になったミサンガにはいろんなものが詰め込まれてる気がする。

でも切れてみて1日を過ごしてみたら。

なんかいろんな意味ですっきりしてなんとなく次の1ページが開かれたような気がした。前に進むということは時に荷物をおろすことでもある。

いままでの自分卒業みたいな気分だ。

そんな日に。

きくらげがくらげじゃないと知ることができて幸せだ。

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Title: いわんや悪人をや。
2008.09.19


人間というものは意識的でも無意識にでもかならずどこかでバランスをとっているんだと思う。その自分だけのバランスが崩れるとどこかに支障がでるんだと思う。

自分の中のバランスというのは、気づかないうちに年々自分でもつかめてくるものだし、この年になれば自分でどこががんばりすぎで、どこが手を抜いてるかくらいわかるようになってくる。

最近はそういう自分のバランス感覚を冷静に観察するのが面白い。

お彼岸に向けてたくさんの真宗の本を読み漁っていると、自然と頭をつかわなくても感覚的によめる本が読みたくなる。ちなみに今回一倉宏さんという人の「ことばになりたい」という本を読んだ。すごく自分のすきな感覚で書かれていることばがたくさんあった。それに江國香織さんの「すみれの花の砂糖づけ」と「すいかの匂い」も短編でかなり読みやすかった。

今回歎異抄の13条を何度も読み返して、いままで自分がそこにあったものを読み違えていたことに気付かされ衝撃をうけるとともに、また真宗の奥深さをしった。

今回、「悪人正機」をテーマに話をさせていただくにあたって、いろんなことを考えてわかったこと気付かされたことがたくさんあったと同時に、おんなじくらいの疑問にぶつかって、でもそういう本気で頭や心や体や五感をフルにつかって考えていけるような疑問にぶつかれるということは幸せなことだと感じる。

悪人を思い浮かべてください。といったときに自分の顔を思い浮かべる人がいないということがまさに「いわんや悪人をや」なんだろうな。

三笠フーズの社長をみてやんややんやいうけど。ずるしてもお金を稼ぎたいと思う気持ちや、だまってりゃわかんないだろう。という気持ち、いままで生きてきて一度も感じたことない人はいるんだろうか。

そりゃやったかやってないかは別ですけど。あの人が悪人で自分は善人ですか。

なむなむ。


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Title: 総括・ここ数日
2008.09.15


9月10月11月というのはきっと私立の学校にとっては来年度の募集にかかわる時期で正直人数は直に経営にかかわってくる部分なので多少なりみんなピリピリする時期です。

例にたがわずうちの幼稚園でもまずは募集説明会に来る人の人数で大体の来年の見通しはたつわけです。毎年この3ヶ月間は11月の募集の日に何人くるのだろうとそればっかり考えて不安にもなったりするのですが、今年はここ数年で一番の人だった。

間違いない手ごたえです。

でもその反面人数が少ない不安はないものの、これだけたくさんの人に期待をされて、これだけたくさんの人が思ってくれる中でその期待にこたえなければいけない責任感と、これだけの人の子どもの命を預かるんだとしみじみ思うと、改めて気持ちを引き締めていかないといけないなと強く思った。戦う前に兜の緒を絞めたような気分です。

さていよいよ動き出します。早いですが来年度へ向けていろんなことが回り始めます。

このときの感覚とうかわくわく感はきらいじゃない。

なんてことない一言でいえば二次会の幹事ですが。

この年になって、いままで交わらないところにいた人たちが一つの目的にために集まって何かを成し遂げるということはものすごく楽しいし、自分のできることをフルに使って本気でなにかをやるという経験は自分をものすごく成長させてくれると改めて感じた。

全部終わった時にはものすごい達成感と充実感とおんなじくらいの寂しさがこみ上げてくるというのはそれだけみんなが本気だったからじゃないかと思う。

まえに友だちが、3年間同じクラスでも友だちになれない奴がいる。でも1日でも一緒にいるだけで一生の友だちになれる奴がいる。という言葉を言っていたのを思い出した。

やっぱり人間はどれだけ長くいたかということよりも、どれだけ同じ感情を共有できるかということは大切だなと思った。うれしいや悲しいや腹だたしいや同じ時に同じ気持ちをしっかりと共有できてはじめて友達になっていくんだろうな。そういう感情はいくら時間がたってもちゃんと体が覚えてるんだと思う。

ここ数か月ほんともうはやく終わってほしかったし、もう幹事はしばらくいいやと思うくらい燃え尽きたけどほんとに楽しかった。

こういう機会をくれた友だちに感謝したい。

しかしどうしても中学高校の友達が結婚するというのはどうも変な感じする。今回は特にいままでに感じたことのない違和感というかなんというか、こみあげてくるものがあったけどそれがなんなのかは最後までわからなかった。まぁいつものことながら友だちというのはいいもんだ。

上記2件だけでも大きな肩に乗ってたものが下りたし、ひさびさに心からゆっくりできそうだ。と言いたいところだけどもう来週にはお彼岸が始まります、怒涛のよな1週間がまたきます。法話の原稿ももう収拾付かないくらい混乱してます。ちょっとすこし落ち着いて仕切り直さねば。

そんなだいじな時なのに、メタルギアソリッド4がおもしろくてたまりません。いままでの作品を全部やってるものとしては所々の伏線がたまりません。おもしろいなこのゲーム。

メタルギアシリーズは今回が最後になるみたいだけどそうおもうとなんか終わってしまうのがものすごくもったいないような気がする反面、はやく結末がしりたくてしょうがない。

ああまずいなぁ。

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Title: ロポッサ
2008.09.12


今日は今年最後の夏日になると聞いて。最後の夏を満喫しようとむだに原付にのってジリジリと照りつける太陽を満喫して今年の夏納めをした。

一仕事おえたころにはもう日も落ちて涼しくなってきて秋の月がのぼってた。

そんな月を眺めながら原付でふらふらとはしってるとおなかがすいてきたので何を食べようかと思った時に、ここ最近自分の食の幅が広がっていないことに気づいた。

でっかいローテーションの中で、同じ店に行きつづけてるし、食材だってうまいものといって思い浮かぶものや実際足を運ぶ店が年々固まりつつあり、むしろ狭まってきてるような気がする。

このままじゃ頭の固い頑固おやじになってしまう。となんとなく漠然と思いこんでこれは食の視野を広げるために不屈のチャレンジ精神で普段絶対にはいらないような店に挑戦しよう。となぜか固く心に近い、普段は知らないような道をふらふらと走りラーメン屋をさがした。

するとむこうに一軒の小さなラーメン屋。

ちいさく看板にラーメン居酒屋と書いてある。

ラーメン屋なのにラーメンがメインじゃないような趣。しかもつけ麺を押してる。

いうまでもないですがつけ麺はあんまり好きではありません。なんとなく中途半端な感じがしてしまうので。でも今日の自分は違った。迷わずのれんを勢いよく跳ねあげて肩で風をきってみせにはいって、おもむろに水を一気飲み。

そしてなめまわすようにメニューを吟味する。

そして一言。

醤油つけ麺。しかも太麺。

ここがミソです。「しかも太麺」

なぜなら太麺はだいきらいだからです。うどんみたいで。

なんか今日の自分はことごとくチャレンジをしたいようでこれでもかというくらい自分への限界に挑戦をします。

ちょっとそんな自分がかっこいいと思いました。

運ばれてくるまでの間、もしこれでこのつけ麺との出会いが忘れられないものになったらどうしよう。心のレパートリーに刻み込まれる逸品だったらどうしようとドキドキとわくわくを楽しみながら待ちました。

ふと顔をあけると壁に「ルービロポッサ」と汚い字で書いてありました。ロポッサとは一体何なんだと頭の中でぐるぐるまわりました。

ぐるぐると考えてるうちにつけ麺が運ばれてきました。

湯気ののぼるつけだれからはおいしそうな醤油のにおいがしました。

そしてネギと煮卵とチャーシューをつけだれのなかにいれると、うどんのような麺をよくつけだれと絡めて一気にすすりこみました。

見事に食の幅は広がりませんでした。

一口ですべてが点が線でつながりました。

涙がこみ上げそうになりましたがなんとか最後まで食べ切りました。大嫌いなふと麺を。

残念なものでおなかがいっぱいになるとなんかとても悲しい気持ちがします。

しかもお会計をしようと立ち上がった時にさっきの「ルービロポッサ」が目に入りました。その瞬間さとりました。さとった瞬間ロポッサを頭の中でいろいろと想像していた自分に恥ずかしくなりました。

ルービロポッサは、どうやら右からよむみたいでした。

今年の夏はこんな悲しい思い出でしめくくります。

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Title: 草露白
2008.09.11


夕焼けの色・匂い・月・空の高さ。ゆっくりだけど着実に秋がきてるなぁとしみじみ感じる瞬間が増えてきた。

少しづつ日が落ちるのも早くなってきたみたいだし。でもなんか秋もいい。いままであまりにも夏に固執して執着してきたけど、それぞれの季節をそれぞれの楽しみ方で楽しめるようになってきたみたいです。

先日お寺に来た人がもってきた栗をゆでてスプーンでほじくりながらきれいな月を眺めながら三岳をいっぱいやってたらなんとなくしんみりとしましたが、それもつかのまテレビでめずらしくドッキリの特番がやってたのでテレビにかじりついて笑い転げましたとさ。

でも最近のドッキリは企画がいまいちです。もっとおもいっきりやればいいのに、昔のような一般人も巻き込んだ激しいどっきりがみたいです。そしていつか激しいころっとドッキリにひっかかりたいです。

さてお彼岸の原稿ではかなりつまづいている今日この頃。

感覚を言葉にすること、感じたことをそのままストレートに言葉にすることは本当に難しい、難しすぎておなかの底がむずむずともどかしい。とりあげたテーマのでかさにいまさらながら気づく。

ひとつひっかかるとまさに数珠つなぎに矛盾がでてきたり、さっきまで書いていたことが一瞬で疑問符だらけになる。

それを書き直してはまたぶつかる。その繰り返し。毎日毎日。

そういうときはいっぱいのむにかぎる。

最近プレミアムモルツがうまいです。

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Title: もうすぐお彼岸。
2008.09.08

自分の追い込み方というのをここ数年で十二分に学んできて、ピークをもってくるところまで意識を持続させるということがだいぶうまくなった。いま頭がやっといい感じに熟成してきてCPUがカリカリと音をたててフル回転しているのがものすごく心地いい。

こういうときは自分の身に周りに起きることが面白いくらい自分の考えているものにつながる。昼にたべたレストランのウェイトレスの蝶ネクタイのおじさんをみていても、テレビをみていても、DVDみてても、友達のブログを読んでてもぜんぶつながる。おもしろいぐらいに。

真宗関係者の人もなんにんかみてるだろうから専門的ですが、今回のお彼岸は悪人正機について歎異抄の3章と13章を引用して話そうとおもいます。

一言でものすごく簡単にいえば。他人事でない事実なんてこの世の中に存在しないということで、あのテロリストも犯罪者も自分とは切り離されたものではなくて、一歩間違えば自分だってそういう行為を犯してしまう危うさであり弱さをかかえている人間だということを自覚することが大切なんじゃないかと。

自分がよかれとおもったことがどこかで誰かを苦しめているかもしれないということは、往々にしてありえることで。そんなの気にしてたら生きていけないというかもしれないけど、悪人ときいたときに自分を思い浮かべる人がいないけど、自分の中にそういう要素はないと思い込んでるけどそれは気づいてないだけかもしれないわけで。

世の中に絶対善も絶対悪もなくて、人間はいつだってもろくてあやうい生き物で。一瞬で価値観もかわっちゃうような生き物なんじゃないですかね。戦争の中に一番醜いのも人間で一番尊いのも人間で。自分の中には間違いなくその両極端があるのは事実で。そんな矛盾をかかえたのが人間なんじゃないですかね。

というような内容を踏まえて最後は本願はそういうわが身に向けられた大慈悲心であるということと、その中にある「悲」とはどういうことかということを悪人正機に結びつけて論じていこうとおもいます。感覚を文字や言葉にするのははげしくもやもやするしもどかしいです。

こんな話でいっぱい飲みながらだれか語りませんかね。誰かに話すと一気に考えがまとまったり、自分でもびっくりするような発見や言葉が自分の口からとびだすことがあるんですよ。ほんとに。

これを読んでるほとんどの友達は、宗教とかお墓とかお寺とか、そういうものにはまだまだ縁のないひとばかりだろうけど、数十年以内にはかならず身近な人間は何人か死ぬだろうし。さらには自分だっていつか、癌にもなるかもしれないし、糖尿病にもなるだろうし、どんなにがんばってもしわしわでよぼよぼになって繕いきれなくなるときがくるのは事実で、さらにいえば結婚して子どもができて幸せでもいつかかならずその人たちと別れるときはくるわけで。

ビールのんでもぬぐいきれない苦しみにぶつかるときが人生にはある。

きっと長男ならこれからお墓を継承していく機会もこれからあるだろうし、次男や女の子で嫁にいってれば特別な事情がないかぎり自分の親と同じお墓にははいれないし、いつか必ずお墓を買うときがくるだろうし、これからいやでもお寺というものや、宗教というものにかかわりをもっていかなければならない場面はたくさんあるんだろうし、その時はじめて宗教というものに触れる人がほとんどなんだろうな。

ほんといまこうやって真宗を勉強するようになって生きててほしかったなと思う人がたくさんいる。気づいたときにはもうその人はいない。とはよくいいますが、もっと話を聞いておくべくべきだった人が次々に浮かんでくるのにみんな死んでて悲しいです。だからこれからはもっと一つ一つの縁を大事にしていこうと思いました。

ちょっと頭休めになにか新しい曲でも仕入れようとiTuneStoreを物色するとことごとくJUSTFORYOUのすすめる曲にやられてまとめ買い。でもたまにわけのわかんないものをすすめるItuneStore、今日は小林旭をすすめられました。「熱き心に」という曲です。まぁ買いましたけど。けっこうこれ沁みます。

こうやってなにも考えずだらだらと文章をかくのはものすごくいやされるきがします。

さて続きでもやります。

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Title: 酒食
2008.09.08


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タイのSINGHA、ベトナムの333、カンボジアのANGKOR、中国の青島、ネパールのEVEREST、いままでいろんなアジアのビールを飲んできたけどその中でも今回はじめてのんだミャンマービール。

普通にうまいです。アジアのビールという枠をこえて国産のものともいい勝負できるほどうまいです。ミャンマーでは国をあげてビールの生産に力を入れてるだけあって調べてみれば世界的にも名高いベルギー・モンドセレクションで、1999年度、2000年度、2001年度の3年連続、金賞を受賞したそうです。世界で認められたアジアのビールです。

ビール好きならぜひ一度飲むべきですよ。

はじめて食べたミャンマー料理も絶品でした。

アジア料理好きかどうかといわれればそうでない自分ですが。普通にミャンマー料理うまいです。一緒にいったメンバーはミャンマー料理はご飯にあう!!を連呼しながら信じられない量をたべていました。4人で20品くらいいったんじゃないでしょうか。

酒つながりということで。

今回屋久島いった友人に購入してきてもらった「三岳」これはやっぱ絶品です。いやぁ毎日暗くなるのが楽しみになるくらいです。芋焼酎好きならこれは絶対に外せないでしょう。一升瓶があるので飲みたい人はいつでもどうぞ。おすそわけしますよ。

食べ物つながりということで。

最近某有名寿司店にいってきたんですが、日本の食のレベルの高さを痛感しました。見えないところにはいっている包丁や色どりや盛り付け。もちろん味も。どれをとっても最高でした。

そこで感じたのは。

前にも書いたけど、日本人の美学はありのままをありのままに感じる心であり、料理にもそういう心意気は根付いてるし、装飾創作ではなく、ありのままをいかに表現していかに素材の味を引き出すかというところになにか日本人の誇りのようなものを感じました。

ホットドック大国にはわかんないだろうな。とかるく半分アメリカ人の彼にちょっかいをだしておきます。

料理というものには本当に国民性や風土の違いというものがよくでるなぁと思います。もちろん同じ日本の中でも。

ソウルフードとはうまいこというもんです。

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Title: 九へえ。
2008.09.06


悪人という言葉を聞いて、まず自分を思い浮かべる人がいないということが人間の抱えるエゴであり弱さであり救いようのないところなんだよな。

ぜんぶここにつながる。

ああのみすぎた。おやすみなさい。

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Title: POSO
2008.09.04

「POSO」をみた。

それがどんな動画かは検索すればいくらでもでてくるので説明は省くけど、ああいう動画をみて何を感じるかということは人としてものすごく大切なことだと思う。自分は現実から目をそむけてなにも得ないよりもそれを直視して何かを得るような生き方をしたい。

POSOをみてからしばらくものすごいへこんだし、なんか胃の中がもやもやといやな感じがして、頭の中で宗教ってなんだろうとか、ぐるぐるぐるぐると一晩中まわってた。でも自分がなにかそういう壁にぶつかったときにやっぱり戻ってくるのは真宗なんだなということも改めて再認識した。

POSOをみて感じた一番の感情の感情は悲しさだった。悲しさと同時に浮かんだ言葉は「悪人正機」だった。

まず思ったのは、首をつかんで叫んでる男や、小さな子どもの頭をきりつけた人も、老人の腕を切り落とした人も、悪人正機の教えからいけば救われるわけで、あの動画をみた直後に頭の中でその事実をどう処理しようか、そこにはどういう意味が込められているんだろうかとか、自分のなかで納得できない気持ちでささくれだったままもやもやとした。

言葉でいうのと心で感じるのとでは全く違うし、自分の中でまだうまく処理できていないのでうまく伝えられるかわからないけど。

でも思うに、自分の中でその殺したほうの人間に対してやはり悪人だというレッテルをはっているけど、もしかしたら自分は絶対に理解できないと思っていたとしても、もしかしたらどこかでなにかが一歩間違ったら自分がいつその加害者になるかなんてわからないということは極論事実だし。

悪人正機の指す悪人は法律を犯した人間を指すわけではなく、あくまで自分自身、または人間自身の中にある不確かな価値観をさすという前提にたって、頭で考える善悪ではなく、むしろ頭で善悪を判断してしまう人間自身を指すわけだ。

言葉にすると本当に難しいけど。あの加害者が悪であるということではなくて、あの加害者にあの行為をさせてしまったのはなにかの因果があってのことで、人間は因果がそろえばそういう行為に至ってしまう弱さをかかえて生きているということのなによりの証拠で、それは決して他人事ではなく、因果がそろっていないだけで、あくまでそうなりうるものは間違いなく自分の中にあるという根源的な事実をしっかりと認識する必要があるんだと思う。

さらに、POSOをみて初めに感じた感情は悲しさだった。その時にふと思った。

観無量寿経に仏の御心は人々を救わずにはいられない大慈悲心であると書かれている。慈悲心。この中にも「悲」という文字がある。この「悲」という文字がなにを指すのか、なんで仏の心の中にも「悲」があるのかを考えた。

思うに、あくまでこれは自分の思う解釈だけど。

この「悲」はきっと一つの事実に対して他人事ではないという感覚からくるものなんじゃないかと思う。自分と他人という感覚ではなくて。おなじ人間として。

さっき因果という言葉を使ったけど、あくまで自分には因果がないだけで、いまここに平和にいきているけど、なにかがそろえば今の自分には考えられないようなことをするかもしれない。戦争だっておんなじだ。戦争の中で一番醜いのは人間で一番尊いのも人間で。その二面性は間違いなく自分の中にある。

仏の慈悲心というもの、そこにある「悲」というのはその二面性をかかえて弱くもろく、いろんなものになびき生きていかなければいけない人間そのものに向けられたものであって、その前では先に述べた、法律のどうこうであったり、善悪の区別ということを超越したところにあるものなんじゃないかと思う。だとしたら本当に懐が深くてものすごいことだと思う。


さらにこの感覚は、親鸞の弥陀の本願はひとへに親鸞1人がためなりけり。と述べた一文にもつながってくるような気がする。

あくまで弥陀の本願は人間そのものにむけられたものであって、悪人とか善人とかそういうものではなく誰かを限定にしたものではなくて、あくまで人間自身、自分自身のためにあるわけで、つまりは自分が救われるということは同時にすべてが救われるということにつながってくるわけだ。

さらにいえば。

自灯明・法灯明という言葉はまさにその心を表わしているわけで、あくまで宗教は自分のためにあるもので、自らを灯として法を灯とする。ここで阿弥陀を灯として仏を灯としなさい。ではないところがものすごく自分の中で素直に了解で来たような気がした。

宗教とか自分の中で感じたことを言葉や文字で表現するということはものすごくむずかしい。感応道交やっぱり宗教は感覚の世界なんだろうな。きっと伝わる人には伝わるけど伝わらない人には伝わらない。

でもある記事の中に、口がうまいとか、表現がうまいとかそれだけで物事が伝わるかといったらそうではない。口がうまくなくても、表現が下手でも真実は必ず伝わる。でなければ宗教がここまで根強くのこってこれたわけはない。というのを読んでほんとうにそうだと思った。

ほんと全部ひとことに凝縮すると、なまんだぶつ。これしかないんだよな。ほんとに。この5文字だけで何かを伝えられるようにならなくちゃいけない。

宗教は自覚だ。


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Title: 足元を確認。
2008.09.01

自分がおもしろいなとおもった記事や逸話や文章や出来事や思いついた考えなどはできるかぎりメモるようにしている。

メモっておくことであとから考えたりもできるし、ひょんなことでつながったりすることが楽しいし、なによりも知りたい欲というものが自分の中ではものすごく大きいので、わからないことをそのままにしておくともやもやするしそれがストレスにもなる。

それでも運転中に思いついたことやもう眠くてしょうがないときに思いついたことは脳みそに忘れないように深く刻んだつもりでもあとからどうしても思い出せなかったり。

記事や話も、あああとで自分なりに考えてみようとおもってたのに、思い出せなかったり、もう一度詳細を調べようとおもったおきに、それが雑誌だっかそれともどこかのサイトだったか新聞だったかラジオかテレビか思い出せずに悶々とすることがしばしばある。

そういうときはきまって逃がした魚はものすごく大きかったような気になる。

あああれは絶対すごい考えだったのに。ものすごいつながりかたしたのに。いい話だったのに、という気持ちになる。

長い文章を書いててうっかり消えてしまったときにも同じような気持ちになるけど、書く前の段階だとなおさらたちが悪い。

しかも自分の中にあるそういう種みたいなものは一つの財産みたいなものでそこから芽が出るものもあればそうじゃないものもあるけど、これから先何年も思考の中の主軸になるものもある。

すごい発見やすごいつながりをみつけることもある。

種がぼこぼこ湧いてくるときはいいんだけど、ただでさえ最近そういう種がわいてこなくてあせるのに、そのせっかく湧いた種を忘れてしまくことがおおくて、せっかくの機会をミスミスのがしている自分に損したような気持にもなるし悔しくもなる。

なにをあせっているのかわかんないけど、最近は自分の中にすこしあせりがあるのを感じる。

きっと29歳までの時間が残り少なくなってきたことと、自分のやるべきことが定まってきたのに、そこに追いつかない自分の器と知識と感性にいらだっているのかもしれない。

このへんで足元を確認。

前にでるということは足を進めるだけがすべてじゃない。

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  • 自己紹介:1980年1月9日生まれ。どこからを趣味と呼んでいいのかは模索中。好奇心は旺盛。