• PHOTO最終更新日2010年10月11日



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Title: エスペランサ

少し湿気を含んだ町を徘徊する心地よさは何にも代え難い。

今この瞬間に自分がここにいることを誰も知らないんだと思うことに、妙な安心感と開放感を感じる動機付けがなんなのかわかんないけど、それはわからなくてもいいと思っていて、わかんないけど心地いいこの時間のためなら、大抵のことはがんばっていけるなと思う。

例えば、脳死について考えたり、平和について考えたり、正義について考えたり、幸せについて考えたり、欲望と煩悩について考えたりして、堂々巡りしたり、思考が広がったり、新しい考えが思いついたり、説得力のある答えをみつけたりして、そんなことを一人遊びのように繰り返していていると、ふとこんなことは一文にもならないかもしれないし、そんなことを考えたところで結局は自慰みたいなものなのかもしれないと思うことがある。

でも最近思うのは、そういうことに脳みそを使った後には、間違いなく脳に血が巡ってるような気がして、それこそ走って体中の血行がよくなるみたいに、脳の中に心地よい疲労が残って、その感覚が好きだから、そういうことに頭を使うのがいやじゃないのかもしれない思った。

人のことには、冷静な分析をしたり、責任のないことには、一歩引いて物事が見えたりするくせに、そんな人の中になかにも、自分でも訳のわからないような感情があるんだというところが垣間見えたりすると、たまらなくうれしくもあり、わくわくもするのです、事実は小説よりも奇なりというけど、人が想像を超えた答えを出してきたり、とても意味不明なところに着地をしたりしているのが、すごく安心して、すごく暖かくて、そういうのをみたり聞いたり目の当たりにしたり、そして自分の中に沸いてきたときに、ああ生きてるなあ、人間っていいなあって、漠然と思ったりします。だからそういうものが簡単に垣間見える恋の話は大好物なのです。

必死にもがいている時っていうのは、もしかしたら本当はもうあきらめている時なのかもしれない。あきらめればあきらめるほど人間は必死にもがくのかもしれない。あきらめているからこそ希望を見いだそうとして、そうあるまい、そうなるまいってもがくのかもしれない。

あきらめるとあきらめないの二者択一を超えたところに、世界の希望がどういうものであって、世界の安穏がどういうもので、平和とか幸せがどういうものであるかというものの答えがあるんじゃないかと思う。

愛とか恋とか、好きとか愛してるとか、そんなものは道徳みたいなもので、いうなれば生命至上主義の妄想みたいなもので、その価値観を鵜呑みにしないようにしなきゃ、本当の意味での愛も恋も命の意味もわかんないんじゃないかと思う。

いいたいことが次から次に沸いていて、話しているうちに自分の中の点と点が線になっていって、なんで自分の脳みそと口からこんな言葉が生み出されたんだろうとか、意識が後からついてくるような感覚を味わうのは、やはり大抵誰かと話をしているときで、やっぱり、人と関わって、その時にはっきりと口にできる自分の想いを自分の中に蓄積させながら、出してはたたき、たたいては反芻して、そうやって練り込まれた自分理論は宝だなと思う。それはもうアイデンティティであって自分自身であって、いうなればただの臓器の塊が自分である唯一の証明なんだろうと思う。

自分がいま間違いないと思っていることは、一度ぶっ壊されないとそれより先には進めなくて、ぶっ壊されるためには、表に出さないとたたかれもしてくれなくて、表にだせるには、ある程度の説得力が必要になって、その説得力をつけるために今自分ができることをすればいいのだと思う。

自分が流動していく中で、思考だけが取り残されてはだめなんだろうと思う。変化しないものは死んだものだけだ。

そこにどんな意図があろうとも、自分の中にわいた感情は事実であり真実なんだと思う。時に人の感情は、意図した想像を遙かに超える。そもそも意図なんて思惑は、うまくいくこともいかないこともある。うまくいえば意図の通りだけど、うまくいかなければ読み違えたわけで、その間を隔てるものは、それを意図だと感じる自分の心の問題なんだと思う。そう考えればそこに意図があろうとなかろうと、自分の真実は自分の中にしかない。

意図なんてその程度にすぎなんだと思う。

人間のやることには必ずしも「ほころび」はあって、その「ほころび」を時に幸せと呼んで時に苦しみと呼ぶんだろうと思う。


POSTED @ 2010.10.16 | Comment (0) | Trackback (0)

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  • 自己紹介:1980年1月9日生まれ。どこからを趣味と呼んでいいのかは模索中。好奇心は旺盛。