Title: いんぷるーぶ。
もともとメモリーの少ない頭なので、同時に何個ものタスクを開くとあっぷあっぷなのです。
一体自分はなに屋なんだろうかと思いながらも、そんな状況にも笑えてる自分にちょっとはバージョンアップできたんじゃなかろうかと自画自賛。
こないだ、2003年に自分の書いたメールがでてきたので読み返したという人から、我々の書いていることは、間違いなくいんぷるーぶしているよ(笑)というメールがきて。
お互いの成長をこうやって赤裸々に見つめあえる人がいるのはありがたいと思った。
いやしかし、いんぷるーぶしていてよかった。
あの頃のほうがまぶかった。なんて言われなくて。
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最近、つくづくコミュニケーションは大事だなと思うし、コミュニケーションと一言でいうものの、その行動の深さは計り知れない。意思疎通の中で言葉の意味の占める割合のなんて微々たることかとも思う。
言葉で理解できることなんて、所詮言葉で理解程度できる程度ってことさね。
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さて。
こないだ友人の恋愛話(エジプト君と、いと君の話)をきいて。
恋人に求めるものは、自分のマイナスの補完材料だとしたら、結婚相手に求めるものは、プラスαなんだと思う。ようは恋人は自分を0に近づけてくれるものであり、結婚相手は0から先をくれるものなんじゃないだろうか理論
というものが頭の中でぐるぐるとまわっている。
一人で生きていても全然生きていけるし、無問題。でもその先に、パートナー的な要素であったり、いまある自分にその人がいることで、なにかが余剰にプラスされるということが結婚だとして、
たとえば、この居心地の良さがなくなったら一人は辛すぎるとか、この人といなくなったら、交友関係が減っちゃうとか、見えなくなっちゃう世界があるとか。自分の中のなにかを補完するために相手がいる場合は、それは結婚には至らないんじゃないかと思う。
自分は大丈夫と思っても、少なからず男は補完しあう関係に安住はできないような気がする。
結局男なんて言うのは、のほほんと自分のペースで生きていくことしかできなくて、恋人の時は、相手の力になりたいとか、補完したいとかそういうことには、雄的な本能で力を発揮するけど、その雄的な本能は、結局最後は自己実現に向けられるんだろうと思うのです。
もう少し実証と考察をしようと思います。
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たとえばあの頃、世界のどこまでもいけると思っていたり、世界には希望があふれているんだと目をキラキラさせていたまぶしい想いは、思えば一種の現状否定でもあったんだろうと思う。
人は現状を否定するときに、図らずも大きな夢を描く。
でも大きな夢を描く時に人は力を発揮できるってなもんで、自分で自分の目の前にニンジンをぶら下げながら走り続けるようなものなのかもしれない。
大事なのは、そのニンジンには手が届かないという事実に直面した時に、次にどうするかってことなんだろうと思う。
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戦争と平和を考えるときに、やっぱ無条件に戦争はよくない!平和が一番!仏教徒なら当然そうでしょう。戦争反対に断固として意思表明すべきだ!
なんていうけどさ。
そういう話をきくといつも思いだす逸話がある。
コーサラー国の軍隊が、カピラ城(ブッダの祖国)を攻め落とそうとしたときにブッダは、行軍する途中の道で座して軍隊を止めたという。
そして2度目の行軍の時にも、3度目の行軍の時にも、ブッダは、行軍する間の道に座していたという。さすがにブッダ゙を無視して行軍するわけもできず、コーサラー国は何度もその道を引き返すわけだけど。
でも4度目の行軍の時にはブッダはそこにはいなかった。そして軍をすすめたコーサラー国はしシャカ族(ブッダの祖国)を滅ぼしたわけです。
この時弟子の目連さんが、神通力で行軍を止めようとしたら、ブッダはそれを制して、もういいのだ。といったという。
この3度しか座っていなかったことから、仏の顔も3度までということわざがあるわけだけれど、この逸話の真意は、すべての物事には因果があるということであり、因果といういうのは、人間の手におえるほど単純なものではないということなんだろうと思う。
ブッダが無条件に戦争は反対!仏教は平和が一番!だと思っていたのなら、神通力だろうとなんだろうとつかってでも、行軍を止めたんだろうと思う。
戦争とか平和を考えていると、本当の意味での仏教徒のとるべき姿勢とはどうあるべきなのか悩むし、その時に、この話はいつも自分の中でひっかかる。この話は現代でもそのまま通用する教えじゃないかと思う。
仏教は時に厳しい。そして優しい。
この3度だけブッダが座っていたというのが、なんていうか自分が仏教を好きな大きな理由なんだろうとも思う。
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悟りとは、悲しみや怒りがなくなったり、苦しくなくなることじゃなくて。
そういう感情に飲み込まれて、我を忘れたり、自分を見失ったり、押しつぶされたりしなくなる要素みたいなものが自分の中にできるってことなんだろうと思う。
その湧き上がる感情を制御するでも目を背けるでもなく、感情自体に対する感覚が変わるんだろうと思う。いうなれば一種のパラダイムシフトみたいなものなのかもしれない。
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阿弥陀には誠の慈悲はなかりけり 頼む衆生をのみぞ助くる。
と一休さんが詠んで。
阿弥陀には隔つる心なけれども 蓋ある水に月は宿らじ
と蓮如さんが返す。
この二人の間に流れているものは本当にぐっとくる。
POSTED @ 2010.09.07 |
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