Title: ネジ
日に日に起きる時間がはやくなってくる。
体が夏モードになってきた証拠で、だいたい朝焼けの時間に目が覚めるようになる。そんでカメラをもって蓮の花でもとりにいこうかなんて気になるわけです。
6月から探している90ccのカブの中古はまだ見つからず、時間切れなので、新車で買おうかと思う。あと7日待っても連絡がなければそうしよう。どうしても8月には間に合わせたい。
ここ3日、浸かるように、買ったままになっていた漫画と読みかけの本を読みあさる。
浅野いにお、の漫画おもしろい。なんか山田祐輔の書く文章みたいだと思った。
でも思うに。
形式ばかりで、嘘ばっかりの世の中に慣れ過ぎて、素直でまっすぐに自分のきたないことをさらけ出すことは1つの美学であると思うけど、包み隠して忍ぶことの中にも美学はある。
子どもから大人になる段階で、まっすぐに青臭いことが通用しないことを知って、そこに自分を適応させて、そこに体が適応すると、今度はまっすぐに青臭くないと通用しないことがあることを知って、そこにまた自分を適応させようとして年をとる。
いままで使ってたパソコンが、すごい音を立て始めてからはや3ヶ月くらいが過ぎて、万が一を考えて、新しいパソコンを買ったもんで、せっせと移管作業をするわけです。
移管作業をするたびに、余計なものがこそげ落とされて、角が取れていくような気がして、最近、少しづつシンプルになっていく感覚が心地いいなと感じるのです。
本当に大切なものは、きっとポケットに入るくらいの数なんだろうと思う。
えっと。
自分が好きになる人の多くは、本当はさみしがりやで、こころの底でなにかに渇望しているのに、その渇望する自分に一歩引いて冷めたような顔して生きているような人で、その渇望しているものが生み出す感情や嘘に、たまらなく惹かれるのです。その腹の奥底にあるぐつぐつしたものが、ちらりとでも顔を出す瞬間にたまらなく感情移入したり、愛おしく思ったりするのです。
でもその感情は同時に自分に対する安心でもあるんだろうと思う。
だから、まっすぐに自分の思いの丈や感情をむき出しにする人を、眩しく羨ましいなと思っても、そうはなれない自分は、そんな人をみて、ああはなりたくないなと思ったりする。
でもそれは、負け惜しみで、悔しさの裏返しなんだと思う。
誰だって本当は、とりこぼすのは苦手だし、とりこぼさなくていいなら、とりこぼさないに越したことはない。でも本当に大切なものは、ポケットにはいるくらいの数でいいんだ。それくらいが、いつでも走りだせる為にはちょうどいい。
もうなんでもいいなと思うときがある。
なげやりなわけじゃなく。
世界で何が起きても、どこかで誰かが泣いていても、笑っていても、
だれが政権をとろうと。
明日が晴れても雨でも。
自分が何かを変えられても変えられなくても。
もうなんでもいい。
なんでもいいと思えば思うほどに。
それはそのまんまで。
この素晴らしき世界かなと。
夏になるとどうも頭のねじが緩い。
ねじだけじゃない。いろんなものが緩すぎて、きっと大成功もするだろうけど、大失敗もするのも、こういう時なんだろうなと思う。
でも年を追うごとに、ねじを緩めるということに意識的になっている気がして、いつか意識しても緩まなくなってしまうんじゃないかと怖くもなったりする。
POSTED @ 2010.07.19 |
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