• PHOTO最終更新日2010年10月11日



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Title: すいかわり。
2010.08.26

たとえば。

溺れそうになって、必死に手足をばたつかせているのに、どんどん沈んじゃって、ああもうだめかもなって思って腹くくって、力を抜いた瞬間に身体が浮かび上がるみたいに。

ああなりたいとか、こうなりたいとか、自分がこうあるべきなんだとか、自分のキャラじゃないとか。

頭でじたばたしているときには、ほんとは前になんか進んでなくて、

もう白旗だって。

思ったら。

身体は自然と自分の立ち位置を教えてくれるんじゃないかと思う。

その場所がきっと自分の無理のない場所で、そこで出会う人が自分にとって本当に大切な人で、自分がむきだしでいられる場所なんだろうと思う。

でも人間はよくばりで、手を放すのが苦手だから、もがいているときに、自分の身についたものや、できた人間関係や、経験というものを、意固地になって保持しようとしたりして、また身体に力をいれて、こわばっていることすら気づかないで、日常を過ごす。

それが習慣化するうちに、いろんなことに鈍感になっていって、簡単に人を傷つけようとしたりもする。

やっぱり、

大事なのは、湧いてくる感情を否定することじゃない。湧いてくる感情にのみこまれないことなんだと思う。

感情にのまれて、どうしょうもなくなるときに、そこでふとそれを断ち切ってくれる要素が、生きていくうえでなによりも大事なんだと思う。

浮かびたくてもがいても浮かべないのに、脱力したら、人間の身体は簡単に浮かぶんだ。

本当に人間はおもしろい、

真実は逆説の中に。

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Title: 行間。
2010.08.22


真っ暗な部屋で黙って座って、じっとしてると30分ってながいなぁと思う。一日のうちのほんの少しの時間だけど、時間の流れを肌で感じる瞬間って大事なんだなと思う。

これから先の人生がどんな風になるのか全然わかんないし、5年後の自分はどうなってるかなんて全然わかんない。

けどなんか漠然と思ったのは、いまの自分の経験や想いを記憶として持ったまま、10年前に戻れたら、きっと今の人生も変わっていただろうと思うことがあって、そう思ったら、今の経験や想いを持ったまま戻ったらやりたいと思うことをいまからやればいいんだと思った。

言葉にしなければわからないことの中には、言葉にしたら終わりだということがたくさん含まれているんだなと思う。


さて。

この微妙にあけた行間に。


なにがのってて。


なにが込められてるか。

結局その問いに自分の中で生じることが人間の多くの問題の根本にあるんだろうと思う。

うまじゃげな。

そうじゃげな。

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Title: おりかえし。
2010.08.21


夏がどこで終わるかっていうのは、きっと自分の心が折れたときなんだろうと思う。

昨日ほろ酔いの帰り道で、顔にあたる風に、夏の匂いが少し薄れている気がして、不本意ながらふと、ああなんか夏ももう終わりに近づいてるななんて思ってしまった。

でもまだ気持ちは折れてないので、きっと昨日で折り返したってことで納得することにした。

しかし昨日は、まっすぐにぶつけられる想いとか、疑問に、なんか久々に、熱くなって話をした気がする。帰り道で、話したことを何度も反芻して、あんなこといわなきゃよかったとか、もっと話を聞くべきだった、しゃべりすぎた・・・とか、ちょっと反省もしたけど、でもなんか、ああやって実感を持って、話をできる場はほんとうにありがたい。

やっぱり会話というのは大事なんだと思う。何をするにも、会話の中から相手を見つけるし、自分をさらけだせるし、会話だけじゃない。発信することには、それ相応の労力とも時間も、時に勇気も必要だけど、そこからしか創造はできないし、何かが動き出すことはないんだと思う。

*

この夏の間に抜けるような青空と入道雲がでている日がどれだけあったろうか。そう考えて、どれだけこの夏、自分は空を見上げる余裕があったっだろうかと思った。

*

智慧と知恵について、話す機会があるので、それについてここの所、その違いを頭の中でこねくり回している。

知恵というのは、見方によって変わるものであり、背景や時代や、置かれた環境によっていくらでも価値の代わるもので、智慧というのはどの時代だろうと、どんな背景だろうと、置かれた環境でも変わらないものであると思う。

たとえば、愛や恋や平和や正義も、それは人が生きる上で必要な知恵だけど、それはあくまで知恵であり、いうなれば、自己防衛にもなりうるし、あくまで主観的な妄想みたいなもんなんだと思う。

智慧というのは、人はあくまで人である(嘘もつくし裏切りもする、でも感情的に涙も流すし、人のために命を投げ出そうと思ったりもしちゃうことがある)という不確かであいまいで、ふわふわしたもんなんだという前提を知ることであり、すべてのものごとは色眼鏡でなりたっていると思うことであり、そして、誰もが死ぬということでもある。

智慧というのは、いうなれば、どこまでも客観視することであるんだと思う。でも人間が自分を客観視するということは難しい、あくまで脳みそのはじき出すことのすべては主観にしか過ぎないわけで、それをどこまでできるかという範囲を広げていくことがなによりも大事なんだろうと思う。

そうすると簡単に自分を棚に上げたりしなくなるだろうし、誰かを許せる幅も広がるんだろうと思う。その範囲を広げるだけで、自分の行動や使う言葉や、見える世界はきっと明らかに変わるんだと思う。

悟りなんて自己申告じゃんって思ってたけど、きっと自己申告なんかしなくても、その範囲がどのくらいかなんてことは、その人のすべてをみればきっとはっきり言葉や行動や目に見える形で出るのかもしれないと思う。

そんでそこにいる人たちにはきっと、とくに経典とか難しい話をしなくても、二言三言言葉を交わせば分かり合えるのかもしれない。

馬じゃげな。

そうじゃげな。

って。

*

あれやせました?とか、体重が増えたときに限って言われたり、体重が2キロも落ちているのに、ちょっと太りました?とか言われたり、前よりも髪の毛短いのに、髪の毛伸びたねとかいわれると、なんか妙に安心することがある。

きっといろんな要因があって、

体重が増えてても、焼けたのでやせて見えたとか、体重は落ちてるけど、前の日に飲みすぎて顔がむくんでいるとか、前にあった時には帽子をかぶっていたので、髪の印象はそんなになかったはず。とか。

印象なんてものはそんな些細なことでころりとかわるし、人は自分が思っているほど自分をみてない。

これは事実だと思う。

逆を返せばあたりまえのように、そんなに見ていない中で、印象というものをつくりだしているわけだから、そんなものになんの信憑性もない。

一見すると、あんたのことなんか、たいして誰も見てないよ、それに印象だってみんな都合のいいようにつくりだしてるだけなんだから。

といえば、ひどい・・・そんなのひどい。と思うかもしれないけど、でもそれは事実だし、その事実ほど優しいものはないんだと思う。

だからこそ、自分は自分の道を歩いて行けるんだって思う。

最近その事実にものすごい安心したり、ここ一番でその事実に背中を押されたりする。

もちろん、かまってほしい、自分をみてほしい、おれはここだ!と思うこともあるし、そういう時には、それが満たされないと寂しくもなるんだけど、ここでもメリットとデメリットは混在していて、自分の中にパラドックスがあることが浮き彫りになって、そんな自分に気づいてまた安心したりもする。

こんなことを考えていると、仏教は、もともとの状態に、なにかをプラスさせるようなものではないのかもしれないと思うことがある。

*

ネガティブな意味ではなく。

人間が孤独なことは、既存設定なんだと思う。

だからそれを埋めるために、社会を生み出し、夢や希望や愛や恋を生み出そうとしてできあがったのが、現実というものなんだろうと思う。

それをまんまみると、無常だし味気ないし、理屈っぽいし、人間そんなんじゃないでしょと思う。

でも、味気ない現実を見つめなきゃ、本当の意味でそこにある生を味わうことなんてできやしないんじゃないかと思う。

いうなれば、日本人は米でしょといいながら、白米の味がわかないようなもんで、昨日の白米の味をはっきり覚えていますか。というようなもんなんだろうと思う。

例えが雑だけど。

*

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Title: のりこえるのうた。
2010.08.18

久しぶりにギターをひっぱり出してきて。

真心ブラザーズの「のりこえるの歌」を弾いてみた。

ピュニュプニュの指先がすぐにジンジンしてきて、ああ、使わないところはすぐに衰えるんだな、なんて想いながら、ちょっと哀愁漂わせながら、ひたすらに弾く弾く弾く。

取り急ぎいま、のりこえたいことがあるわけじゃないけど。

この歌はいい歌だなと思った。

明日がいい日でありますように。


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Title: 鋳んが。
2010.08.18

つくづく、人を作るのは環境だと思う。

最近それを痛いほど感じる。

人の中に含まれる個性というのは、結局は思考や、行動理論や、動機づけを指すわけで、そのどれもが、環境によっていくらでも変化するし、Aだったものが、環境変われば簡単にBにもなる。

全く同じ環境、境遇、同じ経験をしてきたの人間なんてのは一人もいないのに、個性はそのすべてで培われるから、だからこそ人は一人ぼっちなのだと思うし、ここ一番で分かり合うことなんてのはできないんだろうと思う。

「だからこそ人はどこまでも自由になれるし、どこまでも安穏と生きられるんだろうと思う。否定的な言葉を無条件に避けずにみれば、そこには多くの事実と真実があるなと思う。言葉というのは、便利だけど、時に大事なものを覆い隠すことがある」

きっとその中でも、自分の環境や境遇や経験と近いものを持つ人というのが、馬が合うということであって、人と人が信頼関係を結ぶうえで大事なんだろうと思う。

一見交わらないような境遇の2人でも、同じようなところに悲しい思いをしたりうれしい思いをしているなんてこともあるわけで。

結局因果というのは、そういうことなのかもしれない。

一つの事実にすべて同じ因果を持ち合わせてるものなんてない。だから因果だといわれちゃったら、もうどうしょうもないんだわというところにいきついて、そこで初めて中道に至るのだろうか。

とにもかくにも自分の身の置き方は大切なんだと思う。
よく見なきゃいけないと思う、自分の立っている場所を。

知恵ではなく智慧の目で。

いつだって自分は自分をごまかすのがうまい。

自分は巧みで狡猾に自分の大事な部分を奥へ奥へおいやって、うまいことごまかしてとりつくろうものだ。

でもそれがいつまでもうまくいくと思ったら大間違いだ。と思うことが多い。

なんかとっちらかった文章だけど備忘のために。


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Title: 蚊
2010.08.18


友人のツイッターで、蚊の研究をしている先生が、蚊というのは、最後まで血を吸わしてあげると、かゆみ成分まで処理していくからかゆくない。という話をしていたとつぶやいたので。

おお!それは画期的だ!!と思って。

うちの寺の裏に蚊の大量発生しているところがあるので、ひたすらそこでじっと立ちすくしてみた。


体中めっちゃかゆい。


かゆすぎ。


おい!

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Title: アリエッティ
2010.08.17

人の日記をチラ見して、「借りぐらしのアリエッティ」を「一人ぐらしのアリエッティ」だと思っていたと書いてあって。

こんな時間に帰ってきて、ラムをたらふくのんだどうしょうもないテンションの頭は、一人暮らしって・・・おいおいグッチョと思いながらも、そんなアリエッティを想像するわけです。

アリエッティ「ただいま~、あっ、そうだ誰もいないんだった。えへ」

とかいう妄想をして、一人でむふふとか思っているうちに、妄想劇場の幕が開いてしまい、いろんなアリエッティが頭に浮かぶわけです。

「その場しのぎのアリエッティ」が、

ねぇねぇアリエッティの彼氏なにしてるの?

えっ・・・彼氏・・・?ああ・・・広告関係かな。

え~広告関係ってもしかして!電通とか??

あ~まぁ、そんな感じかな。

うそ~すごい!まじで~私の彼氏も電通なんだけど、

彼氏部署どこ?

あ~部署ね・・・え~と・・・保安部だったかなぁ・・・

なんて言ってるところを想像し、

「その日暮らしのアリエッティ」が、今日の交通整理のバイトきつかったわぁ・・・日当9800円って・・・まじ今日もマンガ喫茶だわ・・・

なんてぼやくわけです。

そして「恐れ知らずのアリエッティ」が

まじ部長それヅラでしょ?

とか言っちゃって、

「狩り暮らしのアリエッティ」が今日もティガを狩りに行くわけです。

しまいには

「一人ぼっちのアリエッティ」が、夜の池袋で終電を逃して座り込んだかと思ったら、「ひとりよがりのアリエッティ」が、まじ私無敵だし。とかいうのです。

そして「世間知らずのアリエッティ」は牛丼?1万円で足りる?とか言っちゃうのです。

ああ。まじくだらな。

この日記まじくだらな。

でも次から次にアリエッティが押し寄せてくるのです。

「病気知らずのアリエッティ」とか「横漏れガードのアリエッティ」とかが、わさわさ押し寄せてきて、アリエッティの定義すらわけわかんなくなってくるわけです。

そもそもアリエッティみたことないんですけどね。

ああ。

どうしょうもない。

おやすみなさい。

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Title: 815
2010.08.15

靖国神社に向かう道は、たくさんの街宣車と警察車両と、機動隊と左翼デモに埋め尽くされていて、お盆のひっそりとした街の空気と、その非日常の生み出す空気のコントラストに、ああ今年の夏のもう折り返しだなと思う。

たくさんの人がいるのに、夕暮れの拝殿の前には、けたたましくなく蝉の声からぽっかりと浮き彫りになったような妙な静けさがあって、したたる汗の流れる音までに意識がいくような気がした。

本当にこの日の靖国神社にはいろんな人がいる。

こんなにたくさんの想いと思惑と願いが折り重なって交差して、そしてすれ違う場所はほかにはなんじゃないかと思った。

そんなことを思いながら、握りしめたお金を拝殿に投げこんで手を合わせた。

なぜか今年は手を合わせたときに頭にぽっかり空白ができて、なにも思いつかなかったから、なにを願うわけでも祈るわけでもなく一礼をした。

帰り道、缶ビールを飲みながら、拝殿でなにも思いつかなかった自分に、ああそうか、そういうことか、と妙に納得させられて、行動に思考があとからついてくるような感じがして、そしたらいままで自分が靖国神社に足を運んでた理由がわかったような気がした。

思ってたよりも自分の中でつかみかけていることは、行動や想いや願いに変化をくれたみたいだと思った。


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Title: 見得見
2010.08.11


理屈とか利害じゃなくて。目の前にいる大切な人たちと笑ってお酒を飲めて、楽しいことにわくわくしながら過ごせたらそれだけでいい。それに必要な最低限のものが自分のほしいものであり、それ以上はもういらないって。いまで十分。どうして、それなのに生きていくことには余計なことが付きまとうんだろう。

どうして、それができなくなるような正論と、それができなくなるような完璧な理論でまかり通る世界なんだろう。

そこに落ち込みたくないのに。

メリットとデメリットは常に対であるということが腹からわかると、いろんなことがすごく楽になって、真理というのは程遠いのかもしれないけど、自分の中では、これ以上にすべてに答えの糸口をみつけられる理論はないと思う。

なんか、いい部分というのは、デメリットの影の部分であり、だめな部分はメリットの影の部分であるわけで、人間は、その時々でそのメリットとデメリットを自分の都合でスポットで引っこ抜いて生きているんだと思う。

その両方が愛おしいと思えて初めて次のステップなのかもしれないと思う。

戦争だって平和だって。

あれもこれも。

嫌なものでも、だめなものでも、嫌いなものでも、どうしょうもないもの、くそみたいなものでも、目を背けたくなる理由と同じくらいのメリットがどこかにある。

メリットはあるけどデメリットを受け入れられないのと、デメリットしか見えていないのでは大きな違いだと思う。

夏なのにもちゃもちゃしてるね。と言われて。

今年の夏は、いままでよりもぐっといろんなことが見えた気がして、本当に年々自分の中で、曖昧であやふやだったものが、明確になってくるのと、自分の中の理論に芯が通っていく実感があって、なんかもちゃもちゃして見えるのは、そのつかみかけた糸口を手放したくないっていう我執なのかもしれないと思う。

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Title: はだしのままで。
2010.08.11

島で、海の温泉にぷかぷか浮かんでいたら、隣にむきむきの外国の方と日本人のカップルが入ってきた、そのムキムキの彼と二、三言、言葉を交わすと、どうやら彼はチュニジア人だそうだ。

その彼がこの温泉は熱すぎるなんていうもんだから、日本人は熱い風呂に入るのが好きなんだ、むこうにある温泉はもっと熱いぜ!というと、なんで日本人は熱い風呂が好きなんだ?というもんで、日本人は我慢が好きなんだとかなんとか言いながら会話をしていたら、対岸の港の防波堤から、大学生がアクロバティックな飛びこみをして遊び始めた。

それをみた彼が、大胸筋をぴくぴくさせながら、子供みたいな顔で、おお!おもしろそう!おれもやりたい!と言い出した。

それを聞いた日本人の彼女は、

やめてよ。あんなあぶないこと。あなたに何かあったら私はどうすればいいの。あなたがいなくなったら私はどうしていいかわかんないよ、死んじゃうかも。

と半ば冗談交じりに言った。

そしたらかれが、一瞬すこしさみしそうな顔をして、なぜかそのあと、こちらに向かって満面の笑みでにやりと笑った。

そのしたり顔にちょっと腹が立ったけど、涼しい顔で、でもあれはたしかにおもしろそうだねといってやった。

その後よくよく話をきくと、彼はチュニジアの実業家で、基本世界各国を旅しているそうだ。彼女は彼と出会って一緒に世界中を旅してまわっているそうだ。

彼女は彼と出会って、今まで自分の世界がこんなに小さなものだったんだと気づいたんだとか、ようは彼はすごいのよ!私たちは幸せなのよ。というようなことをつらつらと話し始めた。

きっと新宿かなんかの飲み屋でこの話を聞いていたら、一刻もはやく家に帰りたいと思ったんだろうけど、でも夕暮れの海に浮かんでいると、そんな話もすごく新鮮に感じるから不思議だ。

一通り彼女の話を聞いて、さっき、あなたがいなくなったらどうしたらいいかわからないわ。といった彼女の言葉は、半ば冗談ではないんだろうと思った。

きっとこの人は自分で世界を切り開く力がないから、それを持っている彼に惹かれているんだろうな、だから彼がいなくなったらどうしていいかわかんなってしまうのかもしれないと思った。

一人で世界中を旅することはできないけど、でも旅をすることで、自分の世界が広がることを知ってしまったから、今、彼がいなくなって、急に仕事をしなきゃいけなくなったり、日本に戻らなきゃいけなくなったり、なによりも旅に出られなくなったら、本当に困るんだろうなと思った。

それは彼女にとってはある種の依存なのかもしれないし、このカップルのあり方がいいか悪いかはわかんない。いやむしろ自分はよくないと思うし、自分はこういう女の人を好きになることはないと思う。

でも自分がいることで、ここまで誰かの世界や人生を切り開いてしまう男というのもすごいなと思った。

夕日の中に浮かぶシルエットごしにこのカップルを見ていて、いいとか悪いとか、そういうんじゃなく、ただ単純に自分はやっぱり、世界は誰かに開かれるだけじゃなく、自分の手で切り開いていける自分でいたいと、なんかある種教訓めいたものを感じて、なんか哀愁にも似た気持ちをぶらさげて、はだしのままで夕暮れの道を民宿に帰ったのです。


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Title: イタヅラなやりとり。
2010.08.08

キリスト教式の結婚式に出て、またアグレッシブな布教活動にさらされてきたわけですが、その中でコリント13章を朗読する箇所があって、

愛は寛容であり、愛は親切です。
また人をねたみません。愛は自慢せず、
高慢になりません。礼儀に反することをせず、
自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を
思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。

すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、
すべてを耐え忍びます。

愛は決して絶えることがありません。

と声に出して読んでみて。

ああ。愛だのなんてもんは、カウパー液みたいなもんだ。なんて書いた自分になんか妙な後ろめたさみたいなものを感じて、やっぱファーザーイエスはすげぇなと思ったりした。

行き詰ってどうしょうもないときに、まっすぐに愛とか説かれたらぐらりときて、たしかに、子どもみたいに無条件になれるような気持ちにもなるのだけど、でもどうしてもそれは、焼け石に冷や水をかけるようなもののような気がしてしまって、すぐに蒸発して、また石は発熱をしてしまうんじゃないかと思ってしまう。

もちろん、いつまでも主は水をかけ続けてくれるんだろうし、いづれその石が冷えるまでかけ続けるくらいのアグレッシブな布教をするのかもしれないけど。

でも。

やっぱり自分はどうにも素直じゃないし、天邪鬼なので、方法論の問題で仏教の方が向いてる気がするのです。

そもそもなんで石は熱いのさ。

熱い熱いって、その発熱はどこからきてんねん。

ようかんがえてみ。

とお釈迦さまがいうわけで。

自分は理屈っぽいから、そう言われた方が、冷や水をかけられるよりも向いてる気がするのです。

冷や水かけたって、石が発熱してたらまたかけなあかんやん。

そもそもほんまに石は熱いんかい?

そもそも熱いってなに?

といわれて、

それを反芻しながら自分に落とし込もうとして、
ベクトルを自分に向けようと右往左往していると、

親鸞さんがいうわけです。

発熱したくなくても、発熱してしまうのが人間ですねん。

ええねんええねん。それでええねん。

熱いままでええやんか。

それが生きてるってことやねん。

熱くても熱くなくてもええんん。

大丈夫や、どんなあんたでもあんたはあんたやでって。

そんで思うわけです。

おれ熱いまんまでもいいや。

な~もなも。って。

ああ。ありがてえ。


キリストさんと阿弥陀さんに違いがあるとしたら、

わかっちゃいるけどやめられないを許してくれるかどうかなのかもしれない。

真宗門徒はきっと最後の最後まで、もがいて、悩んで、自問自答して右往左往していくんだろうと思う。きっと納得してストン楽になっては、また自分の中に湧きあがるものに手を合わせて、善人なをもて往生をとぐいはんや悪人をやとか思うんだろう。

それを繰り返すプロセスがなによりも大事なのかもしれない。


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Title: なんでだか。
2010.08.06

正義はそれぞれの中にあればいい。

正義なんてものは価値観の中の1つであって、あくまで流動的であって、単体で存在するものではないわけで、そもそも平和も、恋だの愛も、流動的な感情の一時的な抑揚の中から先走ってこぼれでてしまったカウパー液みたいなもんなのかもしれない。

自分の中に流れ込んできたものが、少しづつ嵩を増してきて、表面張力の働いているぎりぎりのところで自分を保とうとすると、内と外の境界がなくなって、どこまでもすべての事柄はつながっているんだと思う。結び付けられないことがないってくらいに。

そこにぷかぷか浮いてると失うものはなんにもないなとか思う。

あの発言もこの事実も、とりまく状況も環境も、全部が全部密接につながっていて、糸口なんてものはそこらじゅうにあって、どこから辿って行ったって同じところにいきつくんだと思う。

それはどこで、そこにはなにがあるのかなんてことを、考えてしまうこと自体が、その糸口に気づいていないってことなんだろうと思う。一端さえつかめば、答えはさほど大きな問題ではない。

問題は答えを出すことでしか価値を見出せないものじゃない。

問題は問題だけで十分に価値があるし、問題を自分の中に紡げるということは、そこに答えを出すことよりも大切なことだと思う。

むしろ答えなんかない方がいい。

その方がよほど潔くて痛々しくない。

ぷかぷかと流れる雲を眺めながら、いろんなことを考えた。

自分のこととか、人生のこととか、これからのこととか、自分のしたいこととか。

別に考えても考えなくても、人生の長さが変わるわけでもなければ、どちらにしても、長くともあと50数年のあたえられた寿命をまっとうすることになんのかわりはない。

それなのに、多くを考えてしまうことは、人間であることのデメリットの1つなのかもしれない。

なんか、きっと部屋の中で考えていたら、いろんなことが、複雑に絡み合ってて、どこからほどいたらいいかわかんなくなって、もちゃもちゃと煮詰まっちゃうようなところに落ち込んでいたかもしれないけど、顔に当たる風とか光とか、匂いとか、音とか、外からたくさんの要素が流れ込んでくると、ふわりとこんがらがった部分を自然に解きほぐしてくれるということはあるなと思ってたら、

「自分の部屋で、人生なんて考えられるか」

昔、駅で見かけた18切符のポスターの写真と、そのフレーズをおもいだした。

自分をつくる要素の中に、しっかりとこびりついている言葉だなと思った。

きっと自分の中には、そういう粒みたいな言葉とか出来事とか、思い出とか、出会いとか、そういうものがうまい具合に作用し合って絡み合っていて、どこかが1つでもなくなったら、音をたてて崩れていくみたいに絶妙に自分を形作っているんだろうと思う。いままでもこれからも、そうやって自分はできていくんだろうと思う。

だから、無駄なことは1つもないんだきっと。

それと、やっぱり。

自信のない人が、自信を持つということは大変だと思う。

いま自分に自信がないのは、自分を取り巻くたくさんの要素の結果であって、意識や気の持ちようだけで、自力でそれを覆すというのは、左手一本で応援旗を持ちあげるくらい大変なことだと思う。

そこで腰を落として、右手を添えて、身体全体を効率よく使って、力を効率よく伝えて、持ちあげればいいんだという発想の転換が必要なんだと思う。

左手一本ではなくて、全部をつかわないと、あがるものもあがらない。

抽象的だけど。

でも自分が思っているよりも、物事はたくさんの要素で成り立っているから、それをまずはしっかりと洗い出すことがだいじなんじゃないかと思う。まずは自分がいまどういう身体の使い方をしてるか知ることが大事なんだと思う。

そんで、最後の最後は、旗をあげることに何が意味あるのさ。なんてことをさも正論みたいに掲げて、あげるのをあきらめないで、それができるようになった自分に満足して死んでいけばいいんだと思う。

自分が自分に満足できなければ、だれかに何かを伝えるなんてことはできないし、小手先だけの言葉や表現で伝えられることには限界がある。

旗をあげたやつにしかわかんない、苦しみとか、嬉しさとか、そういうものが、ここ一番で感情に直結する大切な要素なんだろうと思う。

もう一歩突き抜けるのに必要なのは、やっぱり自己満足を恐れないことであり、そこに意識的にいることでもあるのかもしれない。

自己満足とはよくよく味わえば、自己を満足させると書くわけで、自己を満足させることで生まれてくるパワーに勝るものは他にないんじゃないかと思うし、そういう経験をたくさん持っているか否かというのは、そのまま自己反映されると思う。

もちろんそのメリットと対比して生じる、利己的で無自覚に陥りやすいというデメリットをしっかりと自分の中で気づいていることが大切なんだろうと思う。

なんかもっとさわやかに旅の話を書きたいのに、浮かんでくるのはこんな理屈っぽいことばかりだ。

なんでだか。

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Title: sign
2010.08.02

今回の旅ではブルーハーツは聞かないことにしていた。

とくに特別な理由はないけど、でもなんか今回は音楽なしで過そうと思ったら、なんかいろんな音にいつもよりも意識的でいられたかもしれない。

海水と温泉がちょうどいい感じに混ざり合う岩場で、波の音をききながら、ちょうどいい湯加減の海にぷかぷか浮かびながら、夕焼けをながめてたら、ほぐれるとか、ゆるむっていう感覚は瞬間的なものではなくて、ましてや意識的にできるものではないんだなぁと思った。

それと思っている以上に1年でいろんなところが凝り固まっていたんだなぁと。

ネジを緩めるのは、自力では限界があって、自然に緩む環境の中でゆっくりと緩めないと、力任せじゃきっといつかネジ山がばかになっちゃう。

夏の匂いとか、音とか、空気とか、島の人たちとか、色とか、そういうすべての環境が少しづつ自分の中に浸透してきて、ふわっといろんなものがほどけてくる。

そうやって自分の中で涵養されたものが、少しづつ体とか心とか、表情とか、言葉とかそういうものに作用してくる。

やっぱり、人は環境に育まれるものなんだろう。

島に来て、すれ違う人と自然に挨拶ができるようになったり、

顔見知りのおっちゃんができたり、

海岸にいた子と蟹とり競争をしたり、

民宿の人たちととりとめなく話をしたり、

部屋に鍵もしめなければ、バイクも鍵はつけたままで、

ほぼ裸で小銭だけポケットにいれて1日過す。

少しづつそうやって、あたりまえのことが、自然にできるようになってきて、いろんなものの境界があいまいになっていくまでにかかった時間が、自分の中で堅くなっていたネジが緩むまでの時間だったんだろうと思う。

毎日毎日肩外れるくらい泳いでは、ぷかぷか浮かんで、喉が乾いたらビールを流し込んで、夕方には海の温泉でぷかぷかしながら、たらふく食べて、たらふく飲んで、たらふく笑って、たらふく寝て。

そんな1週間を過ごして、さすがに曜日と時間の感覚がうっすらとぼやけてきた頃に、そろそろ家に帰らなきゃと思った。

後ろ髪は引かれすぎだけど、ここでドボンしているわけにもいかないので。

こういう時間も自分には、目的ではなく手段だと言い聞かせて、船の切符をとりに行くことにした。

やっぱり島の空気はいいなぁ。


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  • 自己紹介:1980年1月9日生まれ。どこからを趣味と呼んでいいのかは模索中。好奇心は旺盛。