• PHOTO最終更新日2010年10月11日



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Title: かめだ。
2009.11.30


http://monkeysky.com/blog/2007/10/post_329.html

この日記を書いてから約2年

昨日の亀田興毅対内藤大助の試合は本当に面白かった。

面白かったという表現の中には、いろんなものがつめこまれてて、面白いは、いろんな気持ちの集合体なんだと思わされるくらい。

亀田の戦い方の冷静なこと、内藤は、がちんこ勝負になったら、体力差も、反応速度も、いろんな部分で、10才近い年齢差の壁は大きい。内藤はその差を、卓越した技術と駆け引きで、なんとか埋めようとしていたし、カバーをしようとしていたとおもう。

それだけにはじまって1,2Rで亀田が恐ろしく冷静なことと、予想以上にクレバーな戦い方をしてきたことと、そのペースが崩れなかったことは、内藤にとって予想外だったんだろう。

亀田にとっては、それこそが、大毅の試合から得た教訓だったのかもしれない。

みていてドキドキするぐらい、ボクシングのだいご味と、駆け引きの詰め込まれた試合だったと思う。

亀田の小さなレフリーへ対するアピールがものすごくうまくて、そこまで考えながらも、自信を持って自分の試合運びができていたと思うし、あれこそタイトル戦の戦い方だと思った。確実にポイントを押さえた戦い方だった。恐ろしくポイントにこだわっていたと思うし、その姿勢に勝ちへの執念を感じた。

それに、6Rの途中経過で、あのポイント差だったのに、あそこであせらずに落ち着いて最後まで、自分のペースを守り続けた彼の精神力と気力はすごかったと思う。

あれこそ、ただの殴り合いじゃなくて、純粋にボクシングという競技だったと思うし、そういう意味では、亀田内藤、お互いに相当卓越したレベルの高いボクシングだったと思う。

一方内藤は、やはり随所に見せる、技術と駆け引きは、最近のボクサーの中では群を抜いて卓越していると思う。それに昨日の試合をみていて内藤はよけるのが、相当うまいなと思った、亀田があれだけ的を絞れず、あてにくそうなのはあんまり見たことない。

しかし数発のいいのをもらってから、は顔にダメージがでてしまったことで、採点への印象もわるくなってしまったし、随所に、これまた、大毅の時と同じように、あいてに暖簾に腕押しさせて、感情的に熱くさせるような技術をちりばめていたように思う。

しかしいままでの試合運びでは、相手がそれにちょっとでものっかって、熱くなって、パンチが大ぶりになってきたらしめたもんんで、その崩れたペース、その小さなほころびを確実にポイントに変えてくるタイプのボクサーだけに。昨日の亀田の冷静さにはなすすべなかったんだろうと思った。

亀田はボクサーとして本当に強かった。技術も精神力もここ2年で飛躍的に上がっていたし、年齢を考えても、3階級制覇どころか、5階級制覇も夢じゃないんじゃないかと思う。

昨日の試合、一言で言うなら、もちろんベースの技術の云々もあるけれど、いろんな想いの中で一瞬でもKOを狙おうとか、熱くなりたい気持ちを抑えながら、あのリングの上で最後まで勝ちにこだわった亀田の精神力勝ちだと思う。

試合の話はつきないけど、今回一番感じたのは、この2年の間にマスコミの作り上げようとしたイメージに振り回されながらも、自分のスタイルを守って、その中で練習に打ち込んで、結果を残す。その姿勢はやっぱりすごい。その中でも彼にとって家族というベースは大きいんだろうとも感じた。

世論やマスコミに流されず、自分の道を貫いて、自分の力だけで味方を増やしていく、彼のような男は本当にすごい。

やはり亀田はヒーローになる素質をもった器だと思う。

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Title: 縁なき衆生は度せるのか。
2009.11.28

縁なき衆生は度し難し。

という言葉を考えるときに、いままで自分は、その縁というものを、「自分と袖振りあわない人たち」という意味で。物理的な意味合いに重きを置き過ぎていたかもと思ったのです。

そういう意味では、自分に縁がなくても救われる可能性はあるのかもというところで迷っていたわけですが。

でも見方を変えれば、縁なきというのは、仏縁なきという意味にも捉えられるかもしれないと思いました。

身近に、高度経済成長まっただ中の、資本主義、物質主義にどっぷりつかって、神も仏もないぜ!説法なんてしんきくさいからやめてくれい!といっていた、おじさんが、いま色々な経験をする中で、仏法に耳を傾けるようになったということがありました。

いけいけどんどんで、会社を盛りたてているときには、仏法のぶの字も聞かなかったのに。

その時はお寺に縁あっても、自分の中にそれを聞く仏縁がなかったわけです。なんてことがあって、きっと縁なき衆生というのは、仏縁なき衆生ということになるのかもしれないと思ったわけです。

そこで思ったのが、自分の役割、さらには僧侶の役割というのを考えた時に、僧侶は、お釈迦様の言葉を、自分を媒体に伝えているわけで、いうなれば自分を通して、仏縁を作り増やしていく存在といえると思います。

でも正直、今の自分には物理的な縁ある友達でも、仏縁のない人はたくさんいるわけです。 だから、物理的な縁だけを指して、度せるか度せないかというのは、一概にはいえないなと思ったわけです。

究極いうなれば、「縁なき衆生は度し難い」というのは、自分の中にちゃんと仏法が落ちていて、それを伝える力のある人ならば、自分との物理的な縁があれば、度せる、といいきれると思うんです。

自信を持って、自分に縁なき衆生は度し難いと。なぜなら、自分は仏縁をいただき、自分に会うことは仏縁だからと。

それが理想のお坊さんですし、僧として、もしかしたら当然の姿勢なのかもしれません。

ですが、自分はまだいえねぇ。と思ったりするわけです。
自分の場合縁があっても度せないし、やっぱ仏縁がなければ度し難いと思います。

あの言葉は、お釈迦さまが発したものだから、その言葉をいまここで、その言葉じりを、度せるのか度せないのか。と議論することは難しいことだと。お釈迦様の場合、本人は仏縁そのものなので、縁なき衆生は度し難い。は当然だと思います。

なにがいいたいかといいますと。

縁なき衆生は度し難し。これを仏縁にということに置き換えると、仏縁なき衆生は、やっぱり度し難くて、同時に自分にとっても、自分=仏縁という風にはまだなれてないなと思ったので、

自分が今、縁なき衆生は度し難いか否か?
ときかれたら度し難しにいこうと思ったわけです。

もしかすると「縁」というのはいいかえれば「機」という意味あいが強いのかもしれないです、そう考えれば、それは「対機説法」にもつながってくる部分であると思うし、「自燈明・法燈明」ともつながってくるような気がするわけです。

でもまだこれに関しては、まださっきお風呂で思いついたばかりで考える余地がありそうですが・・・

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Title: はんぺん。
2009.11.28


おいしいと。

突然に思うようになったものがいくつかあるんだけど、今日また1つ発見した。

はんぺん。

いままで、おでんというジャンル自体がいまいち自分の中で釈然としない部類であって、中途半端というか、おかずでもない癖に、メインには物足りない面々。

いうなれば、著しく脇役でもなくて、多少の主張はしているのに、でも主役にはなれない面々で構成された海賊団みたいなもんです。

サザエさんでいうなら、中島君と、あなごさんの対談を、「海山商事と花沢不動産の未来について」というテーマでテレビ東京の6時から2時間の特番でやるようなもんなんですよ。

ちょっとみたいけど・・・

おなじ帯で、かつおくんと、マスオさんの対談を「サザエについて」というテーマで、フジテレビでやってるなら、そっちをみるでしょう。なにをこのんで、海山商事と花沢さんちの未来を案じなければいけないんだと思ってしまうわけですよ。

自分のおでんに対するイメージはそんなもんでしかなかったわけですが。

でも今朝、昨日つくったであろうおでんが、鍋の中にはいったので、そこにあったはんぺんを、半ば面白半分に、というか冷やかし的に、ひょいと持ち上げて口のなかにほおりこんだわけですよ。

そしたら、思ったんです。

海山商事ってすごい会社だったんだ・・・

花沢さんが生まれるときにそんな感動秘話があったんだ・・・

って。

そんで

いままでごめんね、はんぺんって。


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Title: すべからく。
2009.11.27

すごい開き直りだね。

とたまにいわれることがあるけど、たしかに。自分ってば時にすごい開き直りというか、居直り方をする。良くも悪くも、ここ一番で失うものなんかなにもないぜ。とか思っちゃう単純な思考回路には、いままでたくさん救われたのと同じくらい、たくさん苦しめられてきたのに、そこだけはどうにもかわんないみたいだ。

それを言っちゃもともこもないでしょ。

とかいわれるのも、きっと同じ理由からなんだろうに。

どこかに寄りかかって、それ次第で自分の足元がふらつくのが嫌なんだよねきっと。

自由はどこだ。グランドラインはどこだ。とイーストブルーあたりで叫んでいた頃には、自由は探し求めるものなんだろうけど、きっと探し求めているうちに気づくのは、ほんとの自由はどこにもなくて、誰かの創った自由の中では本当は自由じゃなくて、自由っていうのは自分の手で、自分の中で創りだすものだということに気づかされるんだろう。そんで思考錯誤して、仲間を集め、組織をつくり体制を作り自由を創造しようとする。でも、そこまできて次に思うのは、きっと最後は人間1人で、死んでいくわけで、自由っていうのは、外からもたらされるものなんじゃないんだろう。という境地になるんじゃないかと思う。

おれかわりたかったんだよ!まともになりたかったんだよ!

と叫んだ

小池君に勇気をもらう人はたくさんいるんだろうと思った。

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Title: ちゅぱ。
2009.11.26


おもむろに。

机の上にチュッパチャプスが置いてあったので、これでたたかれたらどれくらい痛いのかと思って、棒の部分をもって、自分の頭を思いっきりひっぱたいてみた。

そしたらこれ、また絶妙に。たたいた瞬間。うわぁこれ絶妙!と思う痛さだった。

痛すぎず、でも痛くないわけでもなく、1番ムカっとする絶妙な痛さだった。これ以上痛いとイタズラでは済まされないけど、これ以上痛くないと、イタズラにならないという絶妙な痛さだ。

この微妙な痛さの加減がだれかに伝わるだろうか。

一瞬なにすんねん!と笑うんだけど、笑いながら、うわっこれ地味に痛いな・・・いた~!っていう画が想像できて、1人で含み笑いをする。

想像つくんだわ。

悪ふざけはやめてくださいよ~りょうさんまじそれ痛いですって!

といってるあほな後輩とか。

お前まじ痛いって。ほんまやめろや!といって嬉しそうな顔して喜んでる禿げた友達とかの画が。

こういうときに実験にうってつけの相手がいたんだけど、石川に帰っちゃったから、これを誰で試そうか・・・

いやぁこの痛さまじ絶妙だわ。

お手元にチュッパチャプスのある方、坊のはしっこをもって思いっきり頭をはたいてみてください。どれくらいが自分の絶妙な痛さなのかわかると思います。

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Title: 上澄み。
2009.11.26

最近、上澄みという言葉が妙にあっちこっちにしっくりくる表現だなと思って多用する。

苦しみも上澄み、世の中のほとんどは上澄みみたいなものだという使い方もできるし、夜の空気が、上澄みみたいに透き通ってる、とかいう使い方もできる。

使い方しだいで、いい意味の上澄みと悪い意味の上澄みがあるけど、最近自分の使う上澄みという意味は、たいてい悪い場合の方が多い。

例えば思うに、ほとんどの苦しみとか悩みなんてのは、上澄みみたいな部分で右往左往してとらわれてるだけなんだろうと思う。

本当に根深いのは沈殿してる部分なのに。

誰かが仕事ができないとか、誰かの悪口を言うとか、自分がだれかに苦しめられることも、お金がほしいとか、なんで社会は馬鹿ばっかなんだとか思ったり、自分をもっとみてくれとか思ったり、そういうチクチクしたものにとらわれてる時は、

大抵その原因を考えるに、自分の思い描いたものと、現実にあるギャップに、いうなれば、思い通りにならないという状況に苦しんでいるわけで、そう思って、その解決方法をはその物理的なものを解消させることだと思いこんでしまうけど。

それこそ上澄みみたいだと思う。

それは自分の思い通りにならないことを、思い通りにしただけで、自分の思い通りになることと、ならないことを比べたら、世界にははるかに思い通りにならないことが多くて、人生の大事なポイントで、自分の思い通りになることなんて1つもないという事実には目を向けてないわけで。

根本的な解決にはなんにもなってなくて、上澄みをすくっては、また上澄みをすくう繰り返しなんだと思う。

お金がほしい。でもない。だから悩む、苦しい。

もてたい。でももてない。だから悩む。苦しい。

人の悪口を言ってる人がいる。やめてほしい。でもやめてもらえない。だから悩む。苦しい。

だれかに気に入られたい。でも気に入られない。だから悩む。苦しい。

こういう場合のほとんどは、苦しみを苦しみとして認識してるのは自分自身にすぎないんだろうと思う。

お金があるのが幸せだから。
もててると楽しいから。
悪口をきかないと傷つかなくていいから。
気に入られたら嬉しいから。

そういう自分の中の価値観とそれにそぐわない現実が、苦しみの原因の根本になる。

物理的に、お金はいあげる。もてるコツ教えてあげる。悪口言う人消してあげる。そんで気に入られるようにしたあげる。

なんていうことはまやかしで、その場しのぎにしかすぎない。
そんなことで苦しみは消えない。

これが新興宗教と仏教の違いなんだろうと思う。

そんなまやかしで、問題を解決しても、同じような時に自分はまた、枯渇して、現実とのギャップに苦しみを見つけ出す。そんでまたおんなじことを繰り返して、死ぬまでそれを繰り返していく。

まずは、苦しみの原因が自分の中にあるということに気づけるかどうかなんだろうと思う。

思うに。

自分のいまもっている価値観は、ほんとうに知らず知らずに、ほんとうに無意識に、間違いないと思いこんでいて、幸せの基準も、不幸せの基準も、嫌な奴もいい奴も、そんな基準の全部が、あくまで自分の独りよがりの尺度でしかなくて、絶対的に正しいなんてことないわけで。

お金がないと幸せになれない。とか、でもお金はないよりあったほうがいいよ。とか、悪口言う人は悪い人だよとか、自分は言わないもん。とか、もてた方がいいにきまってんじゃん。とか思った時に。

そうじゃなくても幸せってのはあるのかもしれないし、自分の意識次第で、いくらでも保てる安心や幸せっていうのがあるのかもとか、視点をかえて物事を受け止めるということをしてみると意外にすとんと落ち込んで片付いたりすることがあるんだろうと思う。

な~んだ。幸せってこんなことだったんだって。

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Title: ひとつなぎ。
2009.11.24

世の中で言う連休というのは、自分にとっては連休でもなんでもなくて、世の中の休みよ早く終わってくれと思う。この連休の怒涛っぷりはけっこうすさまじかった。

なんかここんとこ、旅からもどったばかりだったうえに、しかも冬はただでさえ根暗にもんもん考えちゃうばっかだから、ちょっとそのスパイラルを断ち切ろうと思って、とりあえずカレイの煮つけとサトイモを煮つけたのを食べた。

いつ食べても思うけど、サトイモには、なんか心をほっこりさせる効果があるんだろうと思う。さといも いず まい そうるふーど。

そんでいも焼酎のちょこっと飲んで、ひたすら雑誌を読みまくる。Swithの回し者じゃないけど、今月のSwithは面白い。ワンピース劇場にみにいったんねん。もう30さいも目前だけどいいもんね。小学生に交じってでもみにいっちゃうもんね。そんで小学生を横目にいってやるんだ、この映画の本当のおもしろさがわかるにはあと20年ははやいぜ。年をとるのも悪かないぜ少年よって。

そんで両手を高々とつきあげて、おれは海賊王になる!!!って叫んで帰ってこよう。捕まらないといいけど。

ルフィに自分を投影して感情移入ができたのはいくつまでだろうな。いまでははっきりと、その間にあるコントラストが自分の中ではっきりと見えていて、そこにあるあこがれは、ああなりたい。じゃないんだな、せめて、ああありたいというものなんだろうと思う。微妙なニュアンスの違いだけど、そこの間にある隔たりは大きい。

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Title: 帆
2009.11.24

いま自分の中で掴みかけてることをなんとかわかりやすく自分の中に落とそうと何度も反芻する。

それは例えば玄関のドアを1枚隔てて、内側は自分の家で、外側は外。そんで自分の家にいるときの心と、外にいるときの心は、そのドアを1枚隔てることで置き方を変えてるな。ということについて。

それは権利とか法律の話ではなくて。

物理的なそのドア1枚で自分の心は、自動的に切り替わっている。習慣のように無意識にでもそういう変換を自分自身でしているんだと思う。

でもよくよく考えてみれば、家にいても落ち着かないこともあるし、外にいてもものすごく落ち着ける時もある。ドア1枚でうまく切り替えられない時もある。

そんな微妙な揺らぎにいちいち意識は止めないけど、そもそも空間を隔てるものなんてのはないはずで、あるならそれは物理的なものではなく、自分の中にあるんだろうし、本当は、物理的な境界線で変えられる心なんてものはないはずなのに、日々、なんの疑問も持たないで、たくさんの物理的な境界線で無意識に心まで変化させて生きているわけだ。

何日か、その瞬間、その空間における自分の心の置き方というのを、ながめていると、自分の心がいかに、無意識にたくさんの境界線に触れるたびに心を変化させているかがわかる。

そんでその変化はなんで起きるのか、なんで自分の心はそこで切り替えをするのか考えてみて、それがわかってくると、逆に自分の心持ちや、意識の置き方しだいで、空間も境界もなくなって、気持ちや心を小分けに区切らなくても済むんだと思った。

そしたらなんか、いつも短パンに雪駄で歩いてるみたいに楽になった気がする。

もしかすると夏に気持ちが楽なのは、外と内の境界があいまいだからなのかもしれない。とか気づかされて、冬が嫌いで夏が好きな人は、もしかしたら自分の中に他人にむやみに踏み込まれたくないパーソナルスペースの割合が大きいのかも、とかいう推測をたてて、思考が脱線しそうになったのを流して、それはまたの機会に考えることにする。

とにかく物理的なもので、境界線や、きまりや、ルールを決めているから社会はうまく回る。でもそこで無意識に心までも変化させていて、心を小分けに変化させるということは、無意識にいろんなものを消耗しているんだと思う。

そんでその摩擦による消耗を減らすのに、環境がとか、立場がとか、誰かがとか、原因をそこにおいて考えると、いつまでも問題は解決しないんだと思う。

変化が自分以外のものによってもたらされていると思っているうちは、変化の本質がなんたるかがつかみきれてないのかもしれない。そもそも変化をしていないものはないわけで、それを変化だと受け止めるのは自分自身の問題という意味で。

逆にそこの視点を変えたら、自分の置かれた環境も立場もなんにも変わらないのに、そこにある問題を解決させることはできるんだろうと思う。原因の因は、外にはないんだと思う。最近こういう話をすると自虐的だといわれるんだけど、でも本当に苦しいことを根本から取り除こうと思ったら、いいわけできる事実なんて1つもないということを受け入れるしかないんじゃないかと思う。

わかりづらいか。

まだまだぼやけててつかみきれないけど、もう少しのような気がする。これがもうすこしつかめたら、どこにでも応用がききそうな気がするんだけど、手が届きそうで届かなくて、届いたらまたするすると逃げていく。

そういやどこかにもそんなことが書いてあったな。

今これを書き終えて席を立とうとしたら、偶然にもIpodから流れてきた歌詞が、

「あなたが誰でなんの為に生きてるか、その謎がはやく解けるように」

だって。

そういや、今週のSWICHの特集、尾田栄一郎×桜井和寿の対談おもしろかった。創る人たちの会話というのは、言葉じゃない部分でお互いを読みとって理解し合ってる部分なるんだろうなと感じた。

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Title: りんごのおくりもの。
2009.11.23


答えもわかっていて、どうすればいいかもわかってて、その原因もわかってるんだけど、それを言葉で伝えたり、表現するということははげしく難しい。

人間というのは、本当の原因を原因だといわれても、それを言われる人との関係性によってその言葉の受け取り方を変えてしまう。まずは自分の立ち位置を確保して、あとは直接的では駄目で間接的過ぎても駄目で。そのちょうど間、そこでも中道。

なんか、物事の視点をかえたり、自分に矢印を向けるだけで、解決できないこともわかんないこともなんにもないのに、なんでそんだけのことがこんなに難しくて、ましてや言葉にすることがこんなに難しいんだろう。

自分の中に落ちたことを、言葉に変えて誰かに伝えるためには、きっと自分の中に落とした時間の何倍も時間をかけていかなきゃいけないのかもしれない。

そろそろ次のステップなのはわかるんだ。そこを上がらないと得られないものがあるのも。

でもその1段の高さがものすごく高くて、尻込みする。

いままで失ったらこわいと思うものは、はじめから手にしてなかったり、持ってると勘違いしているものだったりすることとか、消費と生産は同時におきる現象で、なにかを消費しているときは同時に生産をしているわけで、絶対的な熱量はちゃんと自分の中で保たれるんだとか。そういう1つ1つの事実と経験と、確たる根拠が混在しているのを、分別してアウトプットするために記号化する作業のなんとむずかしいことか。

でもきっとこれは小手先じゃできないことも、ロジックで片付けられることでもないのもわかる。まずは頭の先からずどんと自分の中に芯をとおして、どこから風に吹かれてもそこに顔を向けていられるような自分と、そこでも揺らがない自分の足場を確保することが最優先なんだろう。

being not only doing

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Title: らぐ。
2009.11.23

旅の話は一休み。

タイからもどって、日常が音が聞こえるみたいに、どどどどっと押し寄せてきて、はじめは身体と頭の間にすこしのラグがあったけど、気づけばまた少し思考の方が先に走りだす。

おもえば、チェンマイからバンコクに向かう飛行機の中で、日本の新聞があったから、それを手に取ったら、あまりの情報量におぼれそうな錯覚を覚えたんだった。それまでは、身体が先で思考が後からついてくるような感覚だったのに、そこから少しづつ思考の方が先行しはじめたんだろうと思う。

今そのズレがよくわかるから、少しずつそれを戻そうとするんだけど、いまの生活の中ではそれはなかなか難しいみたいだ。

だから、それはそれでいいや。

そのラグがわかるようになっただけでも収穫だと思うようにしよう。

昨日、ふと走りなれない道を走っていた時に、前にそこを通ったことを思い出したら、急に昔そこでした約束を思い出した。

あれから何年たったんだろうか、周りの風景も変わってしまって、自分の景色も変わったし、その人はいまどこにいるのかもわかんないけど、約束だけがそこに取り残されてたみたいに、ぽかっと浮かんできて、つい昨日した約束みたいに色鮮やかになった。

いままで自分が、守れた約束と守れなかった約束は、もしかしたら守れなかった約束の方が多かったかもしれないとか思って、ぐちゃぐちゃになった時間軸の中でなんか妙に切なくなった。

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Title: ぴーすふる。
2009.11.21


ダライラマと対談をしたことのある方と話をする機会があった。その中で印象的だったエピソードとして、その方が教えてくれた話がある。

ダライラマに、その人がこう質問したそうだ。

いままでたくさんの決断をされてきて、なかには苦渋の決断もたくさんあったでしょう。そのなかで猊下は、物事を決断する時に一番大切にされているとこはなんですか?なにか啓示みたいなひらめきみたいなものがあったりするんですか?

と聞いたそうです。

そしたらダライラマは、一言

brain

といったそうだ。

この話を少し前に聞いた時には、なるほどな、としか思わなかったんだけど。昨日そのことを反芻してたらふとおもった。

まさにそれはbuddism is being not only doing を実践しているということなのかもしれない。

自分の中に仏教が根付いていれば、自分の考えること、脳みそのはじき出したことで物事を決めればいいということなんじゃないかと思う。解釈に危険性はあるけど、でもいま、なんかその意味がわかる気がする。

仏教を心に落としておけば、それは何をしても仏教になるけど、心に落ちていなければそれはなにをしても仏教にはならないということなんだろうと思う。

自灯明・法灯明ということの意味もそこにつながってくるんだろうと思う。

どんなりっぱなことをしていても、どんなに知識や教学に詳しくても、大事なのは自分の心がどうあるかということで、いまの自分の状況をしっかりとピースフルに保っておけるかどうかが大事で、その状態を保っておけるのであれば、あなたはなにをしていても仏教徒だよということなんだろうと思う。

なんか少しづつだけど、いろんなものがじわじわと結びついてきたような気がする。

進むべき道というのは、迷ってるうちはどこに進んでも同じなのかもしれない、正解の道なんてのは本当はなくて、逆を返せばどの道も正解になりうるんだろう。


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Title: はしりがきのゆくすえ。
2009.11.21


旅の間にとったメモの自分の字が読めなくて、あまりの走り書き過ぎに、今後注意をしようと思ったのは何回目なんだろうか。

それにやっとのことで読めたのに、あまりに省略しすぎた文脈に、その時自分がなにを考えていたのかすらわからないような文章がノートのいたるところに書きつけてある。

その中でどうしてもなにを言いたかったのか思い出せない一文が。

「ストイックな美学に笑いのツボ」

というわけのわかんない一文と

「雨雲から雨が降る」

という、なんのこっちゃあたりまえじゃんとか思う一文。しかもこれご丁寧に、米印と二重丸までついてるし。

これを思いついた時には、これはいいこと気がついた!とかおもってあわてて書きとめたのだろうけど、いまになってはなんのことやらさっぱりわかんない。タイトルにしたらすごい面白そうなことを書いてありそうなタイトルなのに。きっとおもしろいことだったような気がするんだけど・・・

こういうのをみつけるとなんか逃がした魚は大きいような、なんかもやもやした感じが残るわけで。

なんか最近思うに、自分は経験できたであろうことをとりこぼすのが嫌なのかもしれないと思う。

少しづつ旅の温度が下がってきて、日常がじわじわと浸透してきてるのを感じると、はやく一気に全部はきだして、鮮度が落ちる前に、目に見えないものを文字に変えて保存しておかないととか思っちゃう。


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Title: おりおん。
2009.11.21

チェンマイの夜空はものすごくきれいだった。きっと東京では街が明るいからみえないだけで、ホントはいつもこんなに星が見えるはずなんだろうなと思った。

オリオン座というのは、比較的わかりやすいしつなぎやすいし、すぐにみつけることができるから、星空をみていて、ああオリオン座だと思うことは多い。

いつもはなんにも思わない、なんてことないオリオン座なのに、

そうだ、オリオンは、両方の目をつぶされたあげくに、サソリに刺されてしんだんだった。とかいうことを突然思いだした。

地上で一番強いのは自分だ!といっていたオリオンはさそりに刺されて死んだ。天下無双とはただの言葉だといった、石舟斎の言葉がこんなところでもつながった。

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Title: suffering
2009.11.20


彼らとか、誰かの抱えてる問題からみたら、自分の抱える問題なんてなんて利己的なんだろうと思う。

でも自分の利己的なちっぽけな問題でも、この環境の中で、その瞬間にわく苦しみは苦しみであって、彼らの苦しみに比べたらとかいって片付けられないことがたくさんあって、自分の世界はこの目の前のこの瞬間だけで、その苦しみもその瞬間にあるものであって、その大きさの大小なんて比べようがないんだろうとか思ってしまう。

そんな自分にジレンマを感じながら、アウトオブカーストや独裁政権下の彼らの抱える苦しみと日本に暮らす自分の苦しみに差はあるんだろうかとか、帰りの飛行機の中で、ずっとそんなことを考えてた。いろんな例や立場や状況を想定してもそれは深みにはまるばっかりで、わかんなくなる。

きっと答えのない問いなんだろうというところに落としこんで納得しようとする。

わかんないけど、わかんないなりに、1つだけ思ったのは、とりあえずみんな笑っていたいんだろうと思った。ミャンマーの人もラダックの人もインドの人も、タイの人も、なにじんも。

笑っていたくない人はいないんだと思った。

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Title: あじあ。
2009.11.20

言語について、ひたすらに書いたのに、つい保存するの忘れて消えてしまって、こういう経験は何度もあるけど、なが~い文章を一瞬でかき消されるというのは、なんとも無常を感じる瞬間だ。

ああ無常。

言葉は生もので、同じニュアンスで書くということは不可能で、おなじ熱量をもって書くということも不可能で、逃がした魚は大きいわけです。

だから違う話にしよ。

時間軸が前後するけど、タイの旅の最後の1日は1人でバンコクに繰り出して、ふらふらとしていたわけです。まぁなんのあてもないままとりあえずカオサンに向かうところがミーハーですが、カオサンにいけばあとは、のんびりできるだろうと高をくくって、しかもバスなんて使わないぜ、タクシーでいっちゃうもんね。と自分へのご褒美だと言わんばかりの勢いでタクシーに乗り込んで、しかも、おっちゃんハイウェイ使っていってくんな!と言い放ってやりました。

そんでカオサンについてみて、ちょっとなんとも言えない気持ちがした。

前にここを通りかかったのは8年前だし、記憶もおぼろげなんだけど、こんなだったっけ。なんかイメージ違うなぁと感じたわけです。

完全に欧米人を対象にしたお店が立ち並び、屋台の土産物は、あからさまに、通常価格の3倍以上だし、みんなピザとかハンバーガー食べてるし。ここどこだよ!竹下通りか!みたいな感じでした。

一瞬の戸惑いを感じたものの、迷わず、おサレなカヘにはいって、一言だけ、「フライドチキンプリーズ」といってやりましたけどね。そんでTigerBeerをぐびぐび飲みながら、フライドチキンとポテトをむさぼりながら、ネットカフェでネットをするという、瞑想はどこへやらという暴挙にでてしまったわけです。心の奥底に後ろめたさを感じながらも、お肉とビールというマーラの誘惑には勝てなかったわけです。

いやぁwifiで自分のパソコンでネットもできるし、マルゲリータもおいしいし、ビールもうまいし、まぁ若干タイなのに値がはることに目をつぶれば、居心地はすごくいいわけです。

でもそんな堕落生活も一晩で飽きるわけです。心の中にもやもやがわいてくるわけです。勝手なもんです。欧米カルチャーに十分に安らいだ後に、そこに文句をたらたらいいたくなるわけです。ハイネケンを飲みながら。

なんで欧米人がこんなに幅をきかせてるんだ。欧米人も言葉が通じないという経験をした方がいいんじゃないだろうか。どうしてアジアの国々はみんな、彼らに合わせて、店まで欧米好みにつくりかえて、売ってるものだって、欧米のアジア好きな人がぐっときそうなもんばっかりじゃないか!浅草のTシャツとか、神風とか書いた鉢巻きとかとなんらかわんないんじゃないかいこれじゃ。

そんなもんをおお!いいじゃんとかいって自分はかわんぞ!と思いながらも小さな仏像とか買っちったんですけどね。

まぁそんな自分は棚に上げて言わせてもらうならば、やっぱり資本主義という仕組みをはじめに作った人はすごいなと思ったし、この機能の浸透っぷりに怖さを感じた。

だってどう考えても、カオサンで生活する人は、生活のために、一番お金を落とす人をターゲットにした方がいいわけで、そのターゲットというのが欧米人だし、英語を話せた方が稼げる率があがるわけで、そしたらみんな、生活やお金のために、英語を使うようになって、そんで商売だって、お金のためにその相手に合わせていくようになるわけでしょ。

自分たちの文化とか、お金にならないような自国の産業を守り続けるよりも、英語話せて、欧米文化に依った方がてっとりばやいじゃん。という発想になってしまうもんね。

お金があるもの=優位というこの構図。

とくにアジアにおいて、この資本主義と帝国主義といってもいいんだろう、この構図は根底の部分で抜けきらないんだろうな。

だってアジアの国がいくら自力で這い上がろうとしたって、上の方でお金を握ってる列強各国が、いるかぎりそこに従順しなきゃ、発展なんてできないし、カンボジアの現状だって、たまたまカンボジアの話をきいたからだけど、カンボジアだけじゃない、アフリカだってそうだけど、この社会の仕組みの中では国という単位での一発逆転はできないとおもう。あくまで国という単位で。だって各国の偉い人たちの中にその構図ができてるんだから、カオサンで行われていることが一線の会議室でもおきてるわけで、偉い人たちの一生はそれで安泰だから、そこに依らなくても、今は貧しくても国のために!とかいえる人間がでてくる可能性は限りなく低い上に、それを指示する国民性を育むなんてことはもう不可能に近い。まんま日本もそうだし。

そんでこの仕組みをつくった人の一番怖いところは、人々の中に、もちろん自分の中にもだけど、お金=幸せの象徴というイメージを完全に刷り込んだことだろう。

事実物理的にも、お金は幸せになる確率をあげるものだけど、それはすべてではないないのに、それを追い求めることをスタンダードにしたということ、それが疑う余地もないくらい世界の中でスタンダードになっているということが怖い。まだいまだに田舎の方では、物々交換でなりたっている社会もあるけどそれは絶滅に近い。そういう流れができてしまうこともそれに疑いをもたないことが怖いなぁと思うわけです。

ちなみに共産主義的なことがいいたいわけじゃないですよ。
共産主義は達成できればユートピアだけど、絶対に実現不可能な仕組みだと思うので。

まぁそれはさておき、例えばアジアの人に、おまえは金がある方だからいいじゃん。といわれれば返す言葉がないしけど、じゃあ日本をみなよ。年間で3万人以上も自殺している国が正常で幸せな国に見えるかい?といいたい。豊かになろう豊かになろうとして、出来上がった社会のなれの果てだよといいたい。

このシステム、そろそろ行き詰ってるんだろうと思うし、こうやって息詰まることは、このシステムが作られた時からわかってたはずなのに、有効な対策もないまま、今を迎えて、もうなると時代が自然発生的に、この現状を打破できるヒーローを生みおとすんじゃないだろうかとかおもっちゃう。あ、ちなみにべつにチェとかを神格化してるわけじゃないですよ。

そんな話はさておいて、ほかのアジアの国が、日本を見て、学ぶべきところは学びながらも、日本と全く同じ道は歩まないでほしいと思うし、日本の抱える問題をみて、教訓をえてくれたらいいなとか思う。そんで自国のほこりやプライドをもって発展して共存共栄できたらいいなと思う。

できるのだろうかそんなことが・・・

ああ・・・これ。ちょっとなんか熱くなりすぎちゃったみたいなんですけど、完全にお箸を持つ方の発言ですか。大東亜共栄圏の発想だといわれそうですが、そういうことじゃなくて。

アジアの空気を肌で感じたり、そこで日本がどうみられているのかを肌で感じると、なんかそういうこと言いたくなっちゃうわけです。

井の中の蛙のたわごとだと思ってください。

しかしミャンマーの現状を聞くと、こんなことをネットでタレ流せる時点で平和なんだな日本は。平和。

平和ってなんだろう。

ともだちんこ。

へけけ。

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Title: ますたーすん。
2009.11.19

どこの場所にいってもおもしろい人とか、気になる人とかいうのは存在するもんで、そんで集団生活が長くなってくると、そういう人にあだ名とかつけちゃって、そういう人がなにかおもしろいことをするたびに、仲間内でいじり倒す、というのが、結構楽しみだったりするわけで。

今回たくさんのあだ名をつけられた人たちがいんるけど、例えば、

モヒンダー(HEROESのキャラでインド人だからという理由でつけられた)とか、これまた、サイラー(これもHEROESのキャラ、これはそっくりのアメリカ人)とか、タンクトップ(太極拳の時に動きのおかしいいつもタンクトップのインドのおじさん)とか、ひきこもり(これは完全にイメージだけどいつもマイケルジャクソンとアニメの話しかしないアメリカ人)とか、ケンヂ(謎の日本人)とかほかにも加藤大(タイのジャーナリスト)とか、たくさんのあだ名を勝手に自分でつけていたわけですが、そんな中にずば抜けて異彩を放つ1人の男の人がいました。

その人が、マスタースンです。

マスタースンは福建省出身の中国人で、いまはタイに住んでいる、タイ国籍の人で、見た目は、まさにベストキッドにでてくるミヤギみたいな風貌です。

そして毎朝行われる、太極拳の時間(ながいと1時間)を行うときの先生です。そんでいつもフラフラと施設の中をあるいては、独特のオーラを放ちながら笑顔を振りまいているわけです。

まずなにが面白いって、太極拳のポーズがおかしい。

これギャグじゃないのか!これ真剣にやって大丈夫なのか!というようなポーズがでてくる。通称江頭ポーズとか、タイガーポーズや、モンキーポーズなど。

はじめは真剣にやっていたタイの僧侶も苦笑いです。しかし西洋の方々はその神秘的なアジアの仙人みたいなマスタースンのいうことを疑う余地もなく、真面目な顔で、はぁぁぁぁぁぁ~とかやってます。それをみて私日本のお坊さんは苦笑いです。

しかも長いんですよ。太極拳。

ご飯の時間もそんなにないのに、時間ぎりぎりまで太極拳をやるもんで、身支度もままならないまま、会議の時間になってしまったりするわけです。

あまりに長いけど、最後に太陽をなんか、全身に浴びるポーズみたいのだけは、どうしてもマスタースンの中で外せないみたいなんで、太陽がちょうど中庭に差し掛かる時間まで、なんとかねばるんですよ。そんで最後に太陽を浴びるというか、太陽光を全身に塗りたくるようなポーズをするわけです。

そして最後になぜか絶叫するわけです。

いやいや絶叫ですよ。

うわああああああ~

とかいって。

嘘だと思うでしょう。

これホントです。

太陽を身体に塗りたくって絶叫するんです。

まじで。

申し訳ないけど、初めにそれみたとき爆笑しました。
でも爆笑してるの自分だけなのに、ちょっとひきました。

そんで満足げに、自分だけかっこいいポーズを決めて、FINISHとかいうんですけど、みんなつっこむのも忘れてあわててご飯ですよ。つっこむ余裕とかないの。

みんなあわてて身支度を整えて、バタバタと会議にいくわけです。

そんで会議場にはいって、バタバタしてる頃に、顔を洗ったのか、シャワーでも浴びたのか、妙にさっぱりしたマスタースンは、ご飯を食べ始めるわけです。

おいおいおい。

とか思うけど、マスタースンは涼しげな顔でがんばってね!といわんばかりの笑顔で手を振ります。だれもおいおかしいだろ!とか言わないのはみんながお坊さんだったからだと思います。

そして何日かして、夜に歩いていると、向こうの方に人混みができていました。なにをしてるんだろうと思って、のぞいてみるとそこには、口の周りに針をさされてう~う~いってる加藤大(タイ人ジャーナリストの女性)がいるではないですか。

口の周りに針だらけ、例えるならば・・・例えば見つかりませんが。

なんじゃこりゃ。と思うとその視線の先にいたのがマスタースンです。手には針を持っています。

なにをしてるんだと聞くと、彼女(加藤大)の口の周りが荒れていたから、針を刺したんだ。といいます。

いや意味わかんないでしょ。

針の前にメンタムでもぬればいじゃん。とかいうのもめんどくさいので、おおGOOD!とかいってその場をやり過ごして、自分の部屋に入りました。

なんとそしたらそこに同室の浄土宗のお坊さんが床にあおむけで倒れています、そして、身体には無数の針が・・・

なんか調子が悪いといったら、このざまだぜ・・・うう・・・おしっこしたい・・・といっています。

もうこうなると手の着けようがありません、しかも彼はそのあとうつぶせにされて、頭にまで針をぶすぶすさされています。いやこれまじ大丈夫なのか・・・という心配をよそに、マスタースンは次々と針を刺していきます。

なにも聞いてないのに、うわごとのように、ノープロブレムを連発するのが、逆に不安を駆り立てます。

しかし次の日に彼はピンピンして、いやぁ元気になったと言ってたので腕は確かだったんでしょう。

そして、まだ彼の話は続きます。

最終日の近くになって、本の販売や、各国の民芸品などの販売コーナーがつくられていました、そこを何気なしにのぞいていると、なんと、完全に手作り感満載のマスタースン太極拳DVDがあるではないですか!

おいおいおい、販売しちゃうのかよ!あの太極拳を・・・大丈夫かあれ、中国から訴えられたりしないだろうか、と心配しながらも、毎日太極拳してた自分としては、これは買うしかないとおもって200Bという高値にも関わらず購入をしました。

そしてそのDVDを部屋に置きに行こうとしたら、むこうからマスタースンがあるいてきます。

そこで買ったアピールをしてやろうとおもって、おおい!マスター!DVD買ったぜ!というと、ものすごい笑顔で、おお!サンキューサンキュー握手をして、次の瞬間に、自分のバックから、なにかを取り出すとこういいました。

おれのお経のCDもあるんだけど買わないか?

おれが僧侶じゃなければ、太極拳でぶっとばしてるとこでした。

そんなお茶目な彼ですが。

ほんとうに特別なオーラを身にまとっているようで、すっとんきょで、怪しげな雰囲気まるだしなのに、どこか憎めない、無邪気な笑顔はどこにいっても人気者で、彼の周りには、いつもだれかがいるようでした。

最後に日本に帰る前に、マスターがこれ食べるか?

といって、笹の葉のようなものにくるまれた、小さな食べ物をくれました。これは何だと聞いたら、チューインガムみたいなもんだといっています。

きっと彼なりには明日帰ってしまう自分への選別のつもりなのかもしれません、大事そうにしているその、つつまれたガムを1つ貰って、固い握手をかわしました。

そして、かれは笑顔で去っていき、自分はなんのためらいもなくそのガムを口の中にほうりこみました。

タイにきて、はじめて、本気でえずきました。

うえええええ。

ぐぇぇぇぇ

涙目になりながら、ゴミ箱にそのチューンガムを吐きました。

でも自分はやさしいので、決してマスタースンには悟られないように、遠くのゴミ箱までこらえながら、走っていって吐きました。

いまでもガムを吐いたことは彼は知りません。

そんなマスタースンとの思い出です。

彼の友達がチェンマイでゲストハウスをやっているそうです、彼のよく顔をだすそうです。もしチェンマイにお越しの際はぜひ、お立ち寄りください。

以上マスタースンとの思い出でした。

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Title: 不可侵。
2009.11.18


瞑想をしてて漠然と感じたのは。

「不可侵」という場所を維持できるのは意識と心だけなんだということ。でも人間は「不可侵」な場所を持っているかどうかというのは大事なことなんじゃないかと思った。「不可侵」というのは、いうなればだれにも干渉されないという意味であり、もっといえば感覚的なものだと思う。

そういう意味では宗教は、論理的なものではなく、完全に感覚的なものなんだと思った、感覚だから、痛いとか悲しいとか、嬉しいとか、おんなじ並びで。「不可侵」を感じる感覚みたいな。

宗教というものは本来そういうものなんだろうと思う。人間の感覚を思い通りにすることなんてできないし、最後の最後にそういう感覚を自分の意識でもって保って維持することは大切だと思う。

言葉にするのはものすごく難しいけど、

自分の家も、自分の部屋も、車の中も、休日のオフィス街でも、夜中の靖国神社でも、どこでも。

だれも物理的に邪魔できない場所であろうとも、それは決して不可侵ではないし、そこで開放感を一時的に得ても、それはいつなんの干渉があってもおかしくない。

でもなんびとも、どんな条件も干渉できない場所、そういう場所を心に持っていることは1つ心に安穏を保つ要素になるんじゃないかと思った。

言葉にするのはすごく難しいけど、瞑想をしていると、顔のどこに風があたっていて、どこに光を当たっているのかとか、身体の左右の温度の違いとか、なんかイメージ的な問題だけど、身体の中で血が流れてるような感じまで、手に取るように感じることができるポイントがあって、そこにいると、自分を内側から、ながめてるみたいに。なんか自分の眉間の奥底に小さな意識があって、そこが身体全体を眺めてるような感じになることがあった。

すごく冷静に自分のことを眺めていて、周りからきこえてくる音や、自分の身をつつんでいる全部の要素が1つ1つクリアになっていくような感じ。

散漫してる意識を全部自分の中にもってくるような・・・

そこの居心地はすごいよくて、ふと思ったのが、これこの感覚だれにも邪魔できないし、この感覚は自分の意識次第でいつでもはいれるし、そうおもったら、すげぇな瞑想。と思った。

そこにいきつくまで居眠りを繰り返して3日くらいかかったし、自分ひとりでやれと言われたら絶対無理だけど、朝暗いうちにおこされて、また瞑想かよ・・・といいながらも、何時だと思ってんだ、おい舎監!(秀明ネタ)とかいいながら・・・いやでも2時間とか座ってなきゃいけないし、なんにもしないのもつらいし、仕方ないはじめはいやいやでも言われたとおりにやるしかないかと、目をつぶっているときに、ストンとそこにはいってからは速かった。むかしからコツをつかむのには時間がかかるけど、コツを掴んでからははやいんだ。

きっとそれが正しいのかどうかもわかんないし、きっと入口の入口で、こんな簡単なもんじゃないんだろうけど、ものすごく気持ちいいところであることは間違いない。

そんなことを感じてたら。

いままで自分が宗教を扱っていて、頭のどこかで誰かに求められたいとか、誰かに評価されたいとか、お寺を守らなきゃとか、物理的なところにばっかり目がいってたけど、ああ宗教とか仏教は、そもそもなんか、もっと感覚的なもので、そういう安穏みたいな感覚を得るためのものであって、自分の物理的な欲求が満たされないからといって、もがいてたら、まさに、being じゃなくて doing だけじゃん。とか思った。

社会から無力でも、自分にとって無力でなかったら、それはもう十分宗教が成り立っているんだろう。

もし宗教とか、教団とか、だれかに圧力かけられて消えちゃって、日本中からお寺が消されても、自分のこの感覚はなくならないし、この感覚だけあればどこにいても大丈夫かもとすら思った。

箱ものを維持するのにだけに躍起になるよりも、なん人も干渉できない感覚1つで、仏教はどこでも実践できると思う。

そう思えば蓮如さんが吉崎御坊を捨てたのもなんかわかる気がする。

それに、誰かを自分と同じ感覚にさせようと思ったら、自分がその感覚を得るのにつかった時間の何十倍もかかるだろうし、そんなこと自分の持ち時間の中だけでできるんだろうかという疑問もわくけど。

きっといまの自分にできるのは、その人の中にある感覚を一変させるのなんて無理だから、現状をどうこうしようとして、そこで無力を感じたり、追い詰められてる人に、現実をどうこうして変えるんじゃなくて、いまあるものを自分の中でどうやって安穏に変えるか。その思考の切り替えを説いていくということが大事なんだろうと思う。

そういうときに仏教とかあると、けっこういいですぜ。仏陀さんもなかなかいいこと言ってまっせ、とか言いながら。

なんか堅いところばっかだからつぎは、ちょっと軽い裏話でもかこ。

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Title: 旅の始まり。
2009.11.18
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無類の飛行機嫌い。

嫌いでも乗らないと旅に出られないから乗るだけで、もちろん何時に乗ろうと、どんなに遠かろうと、一睡もできないし、うとうとしてもちょっと揺れただけで、すぐにドキドキしちゃうくらい。

いつも旅の始まりはこの葛藤から始まるわけで。

今回の旅もそこだけは克服できず、行きも帰りも窓からずっと翼に異常がないか窓に張り付いてチェックしてたんだけど、でも思ったんだ。もしここで異常をみつけてしまうことほど恐ろしいことはないんじゃないか。ちょっと止めて、ボンネットあけるみたいになおせるわけじゃない。目の前でネジの2,3本が飛んでいくのをもし目視してしまったら・・・大丈夫です。といわれても間違いなくパニックになるわ。とおもって途中から翼をみるのをやめた。

飛行機は嫌いなんだけど、でも飛行機から見える景色は大好き。

雲の上を飛んでどこまでも続いている雲海をみてると飽きないしいくらでも見てられる。今回は日本を飛び立って、すぐに、雲から顔を出した富士山も見えたし、飛行機は嫌いだけど、飛行機に乗らないと出会えない景色がある。

なんでもそうなんだろうと思う。

自分の好き嫌いだけで道を選んでいたら、見えない景色があるのかもしれない。嫌な中にも大好きなものというのを見つけるかもしれない。

なんでも。

そう思えば嫌なものは、嫌なものだというひとくくりで片付けないで、それを惰性でも受け入れることで、いつもと違うなにかをみつけられるかもしれない。

それと、自分のいいところであり、悪いところでもあるのは、なんせ心配性で気にしいなんで、いろんなことに、もちゃもちゃ悩んだり、くよくよしたりするくせに、翼をながめてみたりとか。でもいざとなると、そこまで腹くくらなくてもいいんじゃなかというくらいに、腹をくくれることだと思う。

むしろ落ちてもいいや。落ちそうになって、その時に騒ぐようなことだけはやめようという方向に心を処理する。あまりにネガティブな思考をつきつめすぎて、究極にポジティブにきりかわるようなもんだ。

思い返してみれば、いつもそうかもしれない、冷静に対処しよう、大人の対応しよう、首を突っ込まないようにしよう・・・と固く心に誓っているのに、いざとなると、その人と刺し違えてもいいや、ここでこの関係がぶっこわれてもこれだけは譲れない。とかかってに盛り上がって熱くなって、そんな自分に後から後悔する癖に、その瞬間に驚くくらい腹をくくっている自分がいたりする。

ケガしたくないな、ここであんま無理するのやめようとか思って、試合前の円陣で、みんなそんなに熱くなって・・・やだやだ、もっとクールにいこうぜとか言って、ふわふわ甘い気持ちで試合に臨んでいるのに、スクラムに巻き込まれた瞬間に、腕の1本や2本くらいもってかれてもいいや、それよりも目の前のラインにこのボールをたたきつけて、トライ!と叫んでやる方がかっこいいぜとかおもっちゃったり、試合前には、あんなの走ってきたら逃げるからよろしく、とかいってて、本気で逃げる気満々なのに、いざ時速数十キロで走ってくる、ものすごいでかいプロップの目の前に迫ってきたときに、逃げたらかっこわるいなぁ。とか思って、ここで死んでもここで自分がとめたらかっこいいなぁ。とかかっこつけちゃって、ここでこときれても後は仲間が評価してくれるだろうとか、青臭い青春ドラマのようなことを瞬間的に勝手に思い込んだりする自分の、あまりに子どもじみてて、単純な思考は、ほんとうにいいところでもあり、悪い部分でもある。でもそんな瞬間的な思い込みは、時にだれかを残酷に傷つけたりもする。

でももうこれは変われないなと思う。変われないから、変えてまでなにかを保持するのもやめようと思う。これで保持できないものはなにもいらないし、なくなってもいい。とすら思う。

こういう開き直りも、きっといいところであり悪いところでもあるんだろう思う。

飛行機にのってなんでこんなこと考えてるんだろうってくらい、窓の向こうに広がる雲海を眺めながら自分のことを考えた。

それと、もうもう1つ。

今回飛行機にのって感動したこと、いままで一度も気づかなかったんだけど、今回窓の外を写真にとって思ったんだ。

飛行機からそとを眺めると、下にはずっとひろがる雲海、そんで上のほうにいけばいくほどに、深くなる真黒な空。

ああ。宇宙の近いところにいるなぁと漠然と感じた。

地球から宇宙までの距離は東京から熱海までと同じくらいで、60kmくらいで、高度が3万5000フィートくらいを飛んでるということは、大体地上から10キロちょっとだから、あと50km弱くらいか、とか頭の中で計算した。そう考えるとまだまだ遠いんだけど、でも頭の上に広がる真黒な空間をみてたら手が届きそうでわくわくした。

いまから宇宙飛行士にはなれないけど、もし自分が生きているうちに、民間のロケットで宇宙に行けるようになったら、やっぱり行きたいなぁと思った。

ここからみただけで、地球はでかいなぁと感じて、自分の世界なんてちっぽけだなぁと感じるんだから、手のひらに地球がおさまるくらいのところから地球をみたら、自分はどうかんじるんだろう。

まだまだみたいものとか、感じたいことだらけだな。

世界は広い。そんで人生は短い。

そんなことを思いながら今回の旅は始まったわけで。

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Title: Engaged Buddhism
2009.11.17


たっぷりはった熱めのお湯にとびこんで、両手で顔を洗う。
ウーともヴゥーとも似つかない声を絞り出して、今回の旅は終わり。

遠足は家に帰るまで遠足ですといいますが、遠足はお風呂に入るまでが遠足です。ある登山家が、なぜ山に登り続けるんですか?と問われ、下山して帰ってきた時の風呂が最高に気持ちいいからといっていたけど、その気持ちがよくわかる。

今回、タイのチェンマイにある、マハチュラコン大学の建てた、MeditationCenterに籠ってきた。世界各国タイ、ミャンマー、ネパール、スリランカ、インド、チベット、ブータン、ラダック、韓国、中国をはじめ、たくさんの上座部のお坊さんや、各国の在家信徒の人たちと生活を7日間生活を共にしてきた。

毎日瞑想三昧で合計何時間瞑想したんだろうか。言葉にすると安っぽくなるから、その辺は熱をもって話したいので、face to face で話すとして(ここの話だけでそうとうおもしろいよ自分でいうのもなんだけど)

本当にこの7日間、自分の意識の置き方、日本の抱える問題や各国の抱える問題とそれに向き合う気持ちとか、ほんとうにいちいち金槌で頭をぶんなぐられるような感じだった。

アージビカ教の話とかミャンマーの現状や、インドのカーストの話や、津波の後のいまのスリランカの現状とそこで活動する人たちの想いとか、タイ仏教の現状やチベット問題についてとか。日本の抱える自殺の問題とか、ほかにもかききれないくらい。

たくさんの話をリアルにきいて、テレビのニュースがもう自分の中ではただのニュースじゃなくなった気がした。

そして今回一番強く感じたこと。

やっぱり仏教は実践なんだ。

実践というと、社会的な活動とか、どうしても物理的なものばかりが取り上げられがちだけど、そうじゃなくて。進むべき道に悩んでいた自分にインドネシア人が、自分のノートにある言葉を書いてくれた。

buddism is being not only doing

いまここ。

いまここにいる自分と心。

世界の抱える問題の前線で、活動を続けるたくさんのお坊さんたちや信徒の人たち、自分のつたない英語をちゃんと最後まできいてくれて、真剣に目を見て話をしてくれて、誰ひとりとして、日本からきた若造の話を聞き流してる人がいなくて、(むしろ聞き流してほしい時もあったのに)そんな姿勢1つ1つに、仏教のすごさというか、実践することの大切さとか、そんなものをまざまざと見せられた気がした。

実践とはあくまで自分の中にどう落としているかどうかということなんだろうと思う、それさえできていれば、どんな行動でもそれはEngaged Buddhismになるんだろうとおもう。

熱は高いところから低いところへ流れる。

今回、自分が誰かに熱をわけてあげられたかはわかんないけど、いま自分の心の中はものすごくあったかいし、たくさんの熱量と気持ちと、経験と意識もって帰ってこれたと思う。

きっとこれから先の自分の人生の中で、確実に自分の核をつくる要素になるであろう大事な想い。自分の進もうとしていた道や目指していた仏教の道の先に曇っていた霧がすこしはれた気がした。さぁと背中を押された気がした。

たくさんの宗教や人種、それぞれを取り巻く環境や立場があるけど。

やっぱりみんな一緒なんだよね。

なに人でも、笑ってて泣いてて怒ってて。

だから答えだって1つなんだと思う。

今回の旅はこれで終わり。

ただいま。

これから時間をみつけて、この旅の間に描きためたメモを反芻しながら、大切なことからどうでもいいことまで、少しづつ切り取って書いていこうと思う。

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Title: being not only doing
2009.11.16


カオサンから少し離れたところに、いい感じのオープンテラスでwifiでインターネットをできるところを見つけた。

昨日からそこに入り浸ってチーズトーストとか食べながら、浴びるように情報をあさっていると、なんか昨日までの生活のギャップに後ろめたさすら感じてしまう・・・

でも昨日までのチェンマイでの7日間の経験は金槌で頭をガツンと殴られるような衝撃と経験で、ものすごくたくさんのものを得て、間違いなくこれから先の自分をつくる要素の核になっていくんだと思った。

ずっと探していたものの答えの尻尾みたいなものを見つけた気がした。
善知識のこととかね。

帰ったら少しづ反芻しながら今回感じたことを処理しながら実践して、自分を創っていこうと思った。

さて本日22時位の飛行機で帰国です。それまでなにしようか。
ワットポーにマッサージでもしにいこうか。

しかしチェンマイの蚊はそんなにきにならなかったのに、こっちにきたらやたら蚊がきになる・・・


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Title: 一度だけ頷いた。
2009.11.08

線路は続くよ。どこまでも~
野をこえ山越え。谷越えて~

というフレーズが昨晩から頭の中に鳴り響いてる。
実際乗るのは飛行機なんだけど。

久々にいつものリュックをひっぱり出してきて、荷造りをする。なんとなくこの感覚を身体は覚えてた様で、頭の中でスイッチがはいったきがした。

旅に出る前の、そわそわとわくわくとどきどきとか、そんないろんな気持ちの入り混じったこの感覚は、やっぱり好きだ。キックオフの笛が鳴って、グラウンドの少し後ろ、ウイングの位置から、前の方でファーストスクラムが組まれるのを眺めてるような時の気持ちにも似てる。

旅は目的がすべてじゃなくて、この感覚から始まって、帰ってきた時の日本の空港に着いた時の感覚や、そのあとのお風呂にはいるときまで。ぜんぶひっくるめてで、その感覚1つ1つをやめられないかどうかなんだろうと思う。

しばし会わないであろう人と言葉を交わし、しばしはいれないであろう風呂につかり、ああやっぱ風呂はいいなと思ったり、普段の当たり前の光景が少しだけ色鮮やかに感じる。

そんな講釈はどうでもいいや。

そんなわけで一度だけ頷いて。

いってきます。

帰国は19日前後になると思います。

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Title: なかなか言葉になっちゃくれない。
2009.11.07

その人がいると、なんかわからないけど、ぱっとその場所が色鮮やかになったり。なんとなく停滞してたものが、ぐぐっと流れだしたりするような錯覚だったり、なんかなにか特別なことをするわけじゃないのに、その人がいることで、その場がしっくりくる。逆にいないと何かが足りないような気になってしまうような人がいる。

ある時からずっと、その人にあって自分にないものは何だろうと考えていた、その感覚は何だろう考えてた。いつから考えたかもう忘れたくらい前から。

昨日、最後にその人を送り出す時にふと、この人がしていたことは、火を灯すようなことだったんだと思った。

なにげない一言や、なにげない行動や、なにげない心使いで、その場に、その会話に、その関係に、その時間に、その瞬間に。ぽっと火を灯していく。そしてみんなぽっとあったかくなる。

自分が大学をでてから1回も欠かさずに、必ず自分の話の時間に合わせてきてくれて、必ず1番前に座って、必ず一言言葉をかけてくれていた。

必ず。

はじめて人前で話した時も、最後に話をした時も。

1回も例外はなかった。自分が初めて1人で法事をしたのもその人の家の法事だった。その時も嬉しそうに声をかけてくれた。

最近おぼろげだったものが、ある種の確たる感覚に変わってきたと思えるのが、生きるとか死ぬとかは、本当に観念的なものなんだということ。亡きがらをみて、それには何の意味もないんだとすら思える。その人が物理的に終わって、おしまいかというと、自分の中では全然そうじゃない。その人が自宅にいても浄土にいてもなんらかわんない。

例えばそれは会う頻度の問題や関係の問題だけではないんだろうと思う。自分にとってしょっちゅう会う人と、年に1度しか会えない人と、または、死ぬまでに1度しか会わない人もいて、死ぬまでに1度も会わない人もいる。中にはその人はもう亡くなっていても後からその人の存在を本や功績を通して知る人もいる。

自分の中で生きているという線引きはどこからなんだろうと思うことがある。はたしてそれは物理的なものだけを指すんだろうかと疑いたくなる時がある。

「生きている」というのは、その人が、今この瞬間、目の前にいないという時点でもう自分の生み出した観念的なものでしかなりたっていないわけだ。

例えば、いま、これを読んでいる人の前に、自分はいない。自分が生きているということは、その人の観念の中でしか証明できない。これを書いているのは、もしかして、自分という人間が、生前に書いたものを日付を指定して、更新するようにプログラムしているだけかもしれない。でも読む方にはそれは関係ない。

電話で話しているというかもしれながいが、それが自分だと証明できるものはなんなんだろうか。これを書いている人と、電話で話している人が同一であることに証明はできるんだろうか。いつも会っているじゃないかというならば、それもまた同様に、その人が必ずしも、その人である証明は見た目と会話だけの問題で成り立っているわけで。それならばある日突然、事故で顔がぐちゃぐちゃになってしまって、話をすることができなくなって、その状況で、それを目の当たりにした人に、自分を自分であると証明できる術はなにかあるんだろうか。

証明できなければ、その人の中で、自分の存在は消えてしまうのだろうか。

いうなれば今の自分がヨシオカリョウである証明は、そんなおぼろげな観念と記憶の中でしか成り立っていないし、自分の中での、すべての人の証明もまた、そんなおぼろげななかでしか成り立っていないんだと思う。

でもそんなおぼろげなものだからこそ、決して消えないものなんだろうと思う。物理的なものだけで成り立っているなら、存在なんてものはあっというまにかき消えてもおかしくない。

だから証明は必要ないし、そんな証明に意味はない。

証明というのは、命の線引きという意味で、心臓が動いているだとか、止まっているだとか、それが骨だろうが、亡きがらだろうが、健康体だろうが、その人が生きているかどうかは、自分の中にある問題なんだと思う。

物理的に終われば、その人ともう関わることができない、影響しあうことができない、そして、なによりもその人の変わっていく様子をを見ることができないと感じるかもしれないが、それも同じだと思う。自分の与えた影響も、その人の変わっていく様子も、とらえているのは自分の観念であって、事実ではなく、その人の存在があるのは、どこかではなくいつだって ここ なんだろうと思う。

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Title: MC6
2009.11.04

この年になると、いままでどうだった、いままでこうだったとか。

過去の経験を引き合いに、物事を判断したり、判断材料の経験というものの占める割合が大きくなっきてる気がする。

前に失敗したとか、成功したとか、もちろんその確率論を参考にするのは大事なことだけど、でもたかだか29年やそこらで得た経験の価値観なんてものは、たいしたことないし、そんなものに絶対性はない。むしろ、物事は目の前の一瞬がすべてで、同じ一瞬はどこにもないわけで。

なんでも経験してみて、知識で得られる半分と、その先のもう半分を得るためにも、足を動かして前に出るのをやめちゃだめなんだろうと思う。

人生何年生きるかわかんないけど、いつもたかだかだと、今の自分の不確実性と脆弱性を頭に置いておくことは、ちょうどこの年においてとても重要なことだと思う。

頭の固いおじさんがさ~とかいいながら、自分はそうなってないかい。いままでそんなことはなかったとか。いままでこれでうまくいってたとかいってないかと、自問自答して、またもんもんとする。

#

自分が一番大切にしているもの、大切にしたいものがなんだか、やっとすこし言葉にできるようになった気がする。いままでの人生で得た一番大切だと思うものは、感性だと思う。

1つの物事にどれだけのことを感じて、心をとめることができるか。
それをいかに自分の脳みそにつなぐことができるか。

物事は観念でなりたっていて、理論というもののほとんどは、断片か側面かにすぎなくて、全体をとらえるということは、きっと全部をあきらかにしないということなんだろうと思う。

そもそも、あきらかにできる事項なんて1つもない以上、事実なんてものは1つもないわけで、それを自分の落とすために、絶対にとおらなきゃいけないのは、感性で、感性を磨くということは、すべての世の中世界中の物事につながってくるとすら思う。

言葉や理屈のもつ善悪に惑わされるのではなく、それをこえて感性で物事をうけとめるということが重要なんだと思う。

感性を育んで、磨き続けることが自分の人生の課題であり、取り組むべき課題なんだろうなと最近強く思う。

#

世間のイメージというのがあるけど、でも1つだけお坊さんに対して、世間のイメージが事実と1つだけずれてるなと思うことがある。

それは、お坊さんというのは聖職者で、悟りというほどでもないが、迷いとかから解き放たれてて、むしろ迷ってる人を導く立場であるとか、いつも穏やかで、怒らないとか、いらいらしないとか、なんだろう、にこにこして安穏に、心に平穏を保っていられて、迷いとかを超越してるみたいな。八つ当たりとかしないよねとか。極端なイメージだけど。そんな風なイメージを持ってる人がいる。

でもお坊さんというのはそうじゃない。

迷えることがお坊さんなんだと思う。むしろ真剣に迷えることがお坊さんなんだと思う。

普通の人がつまずかないようなところに躓いて、人が頭を抱えたりしないところに苦悩したり、目をつぶっていてもやり過ごせるところをほじくりかえして、悩みまくってるんだよ。

生きていくとか、老いていくこととか、病気になることとか、死ぬこととか。

そんな、日常生活をするうえで全くやり過ごしても、その時になるまで気づきもしないようなことを、いつも頭の片隅においてるんだよ。そんでなんでなんだろうか、なんで人は生きてて、老いて、病気になって死ぬんだろう、なんでそのたびに苦しむんだろうとか、根暗に考えてるんだよ。

明日の晩御飯はなんなんだろうって考えるみたいに。どんなに幸せでも、頭のどっかに無常とか思うし、ずっと続く幸せなんてないと思ってるし。

それに火葬場に足を運んで、亡くなった方や残された人たちを目の当たりにしていると、いつか自分も、こうやってしぼんでいって、かたくなって棺桶にはいって、ごうごうと燃やされる日が来る。それにしぼんでかたくなった親や大事な仲間を火葬場の前でこうやってあの重いふたの奥へ送り出す日が来るんだと思う。

それをどう受け止めていこうか、それを受け止めるためにはどうしたらいいんだろうか、何百年も前から、そういうことを考え抜いた人達の残したものに答えをさがしたくて経典をひらくわけで、お経を読んでるわけですよ。そんで「今」ってなんだろうとか、考えて、悩んだりするわけです。

だから全然穏やかじゃない時もあるし、安穏じゃないし、むしろ、そういうことを突き付けられるたびにいやだなぁ目をそむけたいなぁとか思うことがあるし、右往左往して、悩みだらけだ。答えも出ないし。

そんなもんなんじゃないかと思う。お坊さんというのは。そんでそこで生き続けることで、しっかりと自分の限界を知るんだと思う。

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Title: 話したいことは山ほどある。
2009.11.04


朝家をでるときに、なんかゲレンデみたいな匂いがして、久しぶりのその感覚に、ああ冬になったなと思った。そう思うと同時に、身体と頭が冬籠りの準備を始めたみたいで、とりあえず眠くてしょうがないし、なんか脂肪を蓄え始めてるし・・・

でも今年はまだ冬籠りされちゃこまるので、頭を坊主にしてみた。なんてことなく、突然思い立って、丸っと刈ってみたら、頭がヒューヒューと冷たくて、思考も冴えわたるような感じがする。

まだまだ今年は眠れないんだな。

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こないだ。お坊さんのかっこいいとはなにか?という議論をしていて、自分は坊さんは格好じゃない、格好やお寺にしがみつくのなんて格好悪いぜ。なんていったもんで、そんな自分を試すわけじゃないけど、先日、衣を着たまま、休日のお昼のごったがえすモスバーガーに入ってみた。お店は大混雑で並んでいて、順番に、家族づれ、カップル、学生風の人、そして間衣輪袈裟の自分。

正直、はいって10分で後悔した。子どもがこっちを指さして、お母さんお母さん!という声が実際聞こえるし、並んでいる人たちの、おい坊さんがハンバーガーかよ。場違いだろ。という心の声が聞こえてくるようで正直いたたまれないような気持ちになった。

しかもモスバーガーできるまでに、そうとう待たされて、赤い番号札をもって、待ってるわけですよ。正味待ち時間は10~20分くらいだったろうに、ものすごく長く感じた。

そんで思った。

格好じゃないなんていいながら、自分もお坊さんというイメージにとらわれていて、非僧非俗なんていいながら、完全に僧になろうとしていて、お寺とか、そういう背景の中でしか胸をはれない自分の器の小ささを目の当たりにして、ほんとどうしょうもないなと思った。

親鸞さんは、比叡山という、お寺の背景をすてて、野にくだり、俗にくだり、そこで布教教化をした。いうなれば、お寺からモスバーガーに衣ではいっていき、そこでその人たちに法話をして、真宗に改宗させるようなものでしょう。

すごいことだと思った。器が違う。

いまの自分は、まだまだ後ろ盾がなければ坊さんでいられないし、異端とか、型破りでありたいと心のどこかにそういうものにあこがれながらも、自分の器の小ささもよくわかってて、そのはざまにいるなぁと思った。自分の了解だとはいえ、非僧非俗のほんの一欠けらでも体感したら、その重さというもののとてつもなさに頭がくらくらした。

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文字でわかるのは半分。

残りの半分はやるしかない。

感じるしかない。

文字でしったことが所詮半分でしかないことであるということを忘れないようにしたい。

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何の気なしに肩の力を抜いて、一杯ひっかけて鮟鱇鍋をつついた帰り道。
たまにはこういうのもいいねぇ。といったら。

即答でたまにじゃないでしょ。結構こういう頻度たかいぜ。と言われた。

そうか。

たまにの頻度は人によって違うんだった。

な~んてことを考えながら、鮟肝をこれでもかというくらいに溶かしこんで作った雑炊で満たされたお腹と、ほくほくとした心と、冷たくなった夜道とが、うまいこと混ざり合って、最高に気持ち良く家路について、これでもかというくらい寝た。

しかし夜風がつめたくなったもんだ。熱燗がうまい。

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空気が澄んでいるのか、ここのところ月がものすごくきれいだ。
おもわず足をとめたくなるくらい。


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  • 自己紹介:1980年1月9日生まれ。どこからを趣味と呼んでいいのかは模索中。好奇心は旺盛。