Title: 東雲
若干病み上がりなのに、ふらりと神楽坂へくりだすわけです。
そしたら、
1かけ2かけ3かけて、仕掛けた踊りはやめられぬ♪
5かけ6かけ7かけて、やっぱり踊りはやめられなない♪
なんて歌が聞こえてきて、坂の真ん中を阿波踊りが練り歩いていた。
お腹に響く太鼓の音に心地よさを感じながら、やっぱり祭りというのはいいなぁと思った。人間、こういう発散と高揚は大事なんだろうと思う。
それはいわば生きてる実感みたいなものなのかもしれない。
最近生きる実感ということをよく考えることがある。ことあるごとにそれがいろんなところで結びつく。
どうも最近は、生きる実感、体感というものが希薄だと思う、そういう瞬間を日常的に持っていられる人っていうのはどれくらいいるんだろうか。
それは年を追うごとにすくなるものなのかもしれないし、意識的でなければ少なくなってしまうものなのかもしれない。
生きる実感とは言いかえれば、リアルな瞬間ということだし、むき出しということだし、取り繕えないということだし、そういう瞬間を意識的にでも、無意識にでも持って生きるということは、いろいろなバランスをとる上で大事なんだろうと思う。
最近自分がそれを感じたのは、竹で指先をきって血が止まらなくなったときか、あとは、ラグビーの試合をしてる時とか、旅をしている時にも感じることがあるし、だれかをすごい好きになった時にも感じるし、営んでる時に感じることもある。
もしかしたらそれは、母校の甲子園の決勝戦を応援する時の気持ちでもあるのかもしれない。
なんか統一性はないけど、そういう瞬間の1つ1つにお腹の底から、なにかどうしょうもないものがこみあげてくるような感覚は大事だということで。
それがどんな時でもいいけど、やっぱ人間は発散と高揚を体感することは、生きる実感にもつながるし、生きる実感をたくさん感じられることで、頭でっかちにならないで済むんだろうと思うし、誰かに寛容にもなれるんだろうと思う。
自然とともに生きているわけでも、砂漠の民でもないし、蛇口をひねれば水が出て、クーラーもつくし、誰とも話さないでいきていこうと思えばいけるし、取り繕った部分だけで、十分に生活ができちゃう世の中だからこそ、すこしでも、日常の中にある、取り繕えない瞬間に意識的でいたいと思うし、そういう瞬間を大事にしたいと思う。
POSTED @ 2010.07.24 |
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