Title: 青二才でいい青二才がいい。
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新しいものをいれるには古いものを出さなきゃいけないときもあるけど、できればおれはぎりぎりまで古いものの上に新しいものを積み重ねていきたいと思う。
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やっぱりたまには原点とか、自分の素材の部分を確認する作業は大切だと思う。忙しくてなんか自分が嫌なことばっか考えちゃうような時には次に出す一歩よりもいま自分の立ってる位置を確認する方が大切なんだと思う。視野も想いも心も凝り固まって小さくなったときに、それがふわっとほぐれる感覚は、寒い冬の朝に顔を洗う感覚にも似てるし、夕方に部活でくたくたになったあとにやかんの蓋で麦茶をのむような感覚にも似てる。
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大切なものってのは
何かが誰かがの心に響いて
その何かがまた誰かに伝わって
そしてまた誰かに伝わって。
人は自分の心に響かなきゃ自分の中に残そうとも、こんどはそれを出そうとは思わないわけだし、そうやってよけいなモノがそげ落とされた本当に大切なこころとか想いってのはちゃんと人から人へ伝わっていくんだと思う。年齢とか時代に関係なく。そう考えたらいま俺の中にもそうやって何百年も前から研ぎ澄まされた大切なことがしっかり流れてるのかもしれない。と思うとやっぱり人と関わるのはめんどくさいときもあるけど捨てたもんじゃないと思う。やっぱりそういう大きな輪とか繋がりの中にこそ自分がいるんだと思う。
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ばか。と最近言われない。
そうおもったら温泉にでもいきたくなった。
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あの頃に感じたこととか、あの頃に流れた時間とか、あの頃感じてたことは、全部がはじめてて、新鮮で、でもぜんぶがそれっきりで。一瞬だって同じ瞬間はなかったし、一瞬だって無駄な時間はなかったと思う。そういう時間を共有してきた友達ってのはやっぱり大切だ。感傷的になる訳じゃないけどたまにはこうやって思い切りそんなことを思う時間が明日へ活力になることもある。ああそういえば全部自分でなんとかしなくてもいいんだった。いつもだれかの期待通りじゃなくてもいいんだった。そういやおれになんかみんな期待なんかしてなかった。いまさら繕うこともなく吐露してもいいんだった。って帰りの夜道に考えてたら、ものすごく心が軽くなった。
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おれにとって何もしてくれなくてもその人が生きていてくれるだけで救われる人たちがいて、なにをされたわけでもないのに苦手な人がいて、目の前にいなくてもどうおもわれるか気になる人がいて、いまの自分をあの人はどうおもうだろうとか、もう亡くなったのにその人に言われた一言がものすごく自分につきささったり、背中を追いかけようとしたり、背伸びをしたり。
ぜんぶ自分がつくりあげて、自分の中でいい部分だけを切り取ってるだけかもしれないけど。でもだれにでも自分の片隅には誰かの存在があるとおもうし、知らず知らずのうちにそういう存在に救われたり、苦しめられたりすることもあるけど、そういう人が増えていくたびに自分の中で蓄積されている形のないモノがものがはっきりと形になっていくような気がする。
そうおもったら「存在」っていう言葉を考え出した人がそこまの概念を込めてつくったんだとしたらものすごいことだと思う。
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同じものをみても、同じ事をしててもいままで読み取れなかったような部分までがみえるようになった瞬間にあう度に、目から鱗が落ちると同時に、それでもきっといまの自分にもまだまだはっきりいって読み取れてないことがたくさんあるんだろうなと思う。なんでも知った気になって、いっぱしに大人気取りかもしれないけど、今が100%なんてことは1つもない。まだまだ若造だ。青二才だ。えらぶるなしったかぶるな。だれもおまえになんかなにかを期待なんかしてない
まえにまえに。
POSTED @ 2006.09.22 |
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