Title: 堆肥。
思い通りになることなんて初めからなんもないんだから。
プライドとか、自分でかってに作り上げて、その枠からはみ出せないとか勝手に思い込んでるものを、一度疑ってみたらいい。ほんとにそうなのか。
自分は自分を結構客観的に見れてると思っていることがもう、客観的ではないんだよ。自分の色眼鏡はずしちゃえ。
自分はそれでだいぶ楽になったし。
しがみつかなきゃ守れないものんなんて大したもんじゃない。
全部手を離したら、なんもなくなるような気がするけど、離してみると、ちゃんと大事なものだけが、大事な人だけが残るようになってるんだな。よくできてるもんだ。
後先じゃない。いまここ。
あなかしこあなかしこ
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禅の教えに「十牛図」というのがあるのを聞いて調べてみた。
これは面白い。最近、他宗の人とよく会うようになって、ものすごい勉強になる。いままで自分のみてた視野の狭かったこと。
人間もそうだけど、対比するということは、もんのすごい大事な作業だ。対比して観る。この重要性は結構でかい。
何宗も根本突き詰めていくと同じなんだよね。同時に真宗の素晴らしさも再認識する。
対比は堆肥。
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小さい頃に、「将来」とか「大きくなったら」と呼んでいたのはまさしく今のことなんだなと最近思う。
いま自分は何になった?
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しかし最近腹抱えて笑うこともなければ、とりとめもなく泣くこともない。いやでも決して枯れた毎日というわけではない。
むしろ楽しい日々。なんの不満もないわけじゃないし、いいことばかりじゃないけど、まんざらでもない日々。
でも思うんだ。
それがいいんだろうな。
それでいいんだろうな。
まえに言われて意味のわからなかった。「頭からおしりのほうまで、芯が通った感じ」っていうのはこういうことなんだろうか。
それを言った人はもういないから確認のしようがないけど、最近そういう確認のしようのない言葉に質感を感じる瞬間が多いな。そういう年なのか。
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テラスとかで、生あたたかい風に吹かれて飲みたいのです。
あっテラスとか洒落たこといってごめんなさい。
ガード下というのも立派なオープンテラスだよ。
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子ども見てると価値観なんてくそくらえだなと思う。
子どもの頃は、ちゃんといま満たされることで満足してたのに、いつから自分の価値観から、社会的な価値観で物事を判断するようになったんだろうか。
1万円札とりんごジュースを並べられて、迷わずりんごジュースをとれる価値観に時々どきっとする。
いつからここで1万円札を選ぶようになるんだろうか。
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最近の子どもは、カブトムシやクワガタに触れない、蝉の抜け殻を触れない子が多すぎる。
カブトムシの名前はたくさん知ってるのに、手にのせられないまま大人になったら、
机上の空論者になっちゃうぜ。
クワガタに指挟まれたら結構痛いんだ。
虫だけじゃない、植物でも魚でも動物でも。もっと直に命に触れる場所があってほしいと思う。
命だって対比して初めて輝きをますんだ。
蝉はね。
1週間で死んじゃうんだ。
そんでころっと死んで、ありんこに目ん玉とかほじくられて食われちゃうんだ。
そんで最後は跡形もなくなって土に還っておしまい。
先月のお盆に会って、お彼岸の法話楽しみにしてますねって言ってた人も、しんじゃうんだよ。ころっとね。
そんで最後は白骨になっておしまい。
最近骨をみてて思うのは、骨になっちゃうとほんと何にもないんだ。みんな一緒、年齢も肩書も。きれいもきたないも、生きざまも死にざまも。
みんな白骨になって、ちいさな骨壺にはいっておしまい。ほんと人間なんも持たずに生まれてきて、なんも持たないで死んでいくんだなと思う。
いつか自分も確実にそうなる。自分の大切な人たちも。
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こないだ若田さんが帰ってきて、シャトルの帰還の様子の中継をヨウツベでみてただけでさえ興奮してたのに。そのあとに、若田さんが、宇宙にいるときのインタビューを見てたら。
「休日になにをしますか?」
という記者の質問に若田さん
「休日にはゆっくり地球をながめたいとおもいます」
だって。
しびれた。
おれもみたい。地球ながめたい。
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自分は昔、世の中みすかしたような顔で胡散くさいせりふをはいてたそうだ。
なるほど。
きっと間違いないだろう。
そんな自分に今から戻れるかちょっと模索してみることにする。
POSTED @ 2009.08.06 |
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