Title: 谷川俊太郎を読んでいて感じたこと。
少し前に谷川俊太郎の本を買った。
読む。というよりはいつも手の届くところにおいておいて時間のあるときにぱらぱらと眺めては閉じ、また眺めては閉じる。
本当にこの人は言葉を肌で感じていて、楽しんでいて、気持ちがのっていて、すごく気持ちのいい言葉を書く人だと思う。自分がこういう言葉を書けるようになるのはあとどのくらい広い視野と時間が必要なんだろうかなんて思いながらいろいろ考えてたらふと思った。
詩でも絵画でも、なんでもそうだけど、芸術や創作ってのは個性を表現するモノだ。と言われればそうかもしれない。岡本太郎も爆発するくらいに個性的だし、目を見張る奇抜なデザインや独創的な言葉こそが創作であるといえばそれはそんな気もするんだけど。
でもよく考えてみると、それは人間の根本にもとからある感覚に訴えかけているもので、奇抜だけど原始的なものの現れなんじゃないかと思う。そうじゃなかったらたくさんの人が感覚的にそれを受け入れられるはずがない。
前の日記でも書いたことがあるけど、芸術とは自分の頭の中にある感覚をどこのフィルターも通さずにそのままむきだすことなんじゃないかと思う。だから有名な芸術家の多くが晩年子どもの描いたモノや紡ぐ言葉に近づきたいと言うのはそういう所からなんじゃないかと思う。
感覚的に受け入れられるモノは無駄がなくて、そんで自分とか、なにか主観を通さない徹底的に個性を押し殺したニュートラルなものじゃないだろうか。
そもそも感じるっていうことは、自分の中の経験や、感情やそういうものとなにか媒体が結びついてはじめておきることだし、決して無から起きるわけじゃない。
創作者の個性をとおした媒体じゃそういうものとは結びつきずらいけど、徹底的に個性を押し殺した中で生み出されたモノは自然と見る側や読んだ側の中にある何かに結びつくじゃないかと思う。
結局、媒体はなんでもいいけど、そういう外的要因と自分の中の既存の感情や経験が偶然にぴったり合わさるってことをインスピレーションと呼ぶんじゃないかと思う。
それを生み出す要因は、ニュートラルでいて、力まずにいて、だれにでもあるものをスムーズに表現することで、それができる人を芸術家を呼ぶんじゃないだろうか。
これはきっと書くことにも、撮ることにも、描くことにも、ぜんぶに通ずるんじゃないかと思う。
つまりはこれを見ろ!これを感じろ!おれはこう思うぜ!っていう主張でなにかを伝えようとするんじゃなくて、その媒体が、言葉でも写真でも、彫刻でも絵画でも、それが受け手のなかにあるものに結びついて、
それが受け手の中からあぶり絵みたいに感情を浮き彫りにさせる。
だから人は芸術に心を揺さぶられるんだと思う。
そしてそれをできるってことが芸術を生み出せる人間の優れた点じゃないかと思う。
POSTED @ 2007.04.10 |
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