• PHOTO最終更新日2010年10月11日



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Title: 旅の途中
2010.07.31
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めずらしく天気に恵まれず、1日雨でつぶれてしまったので、それを取り戻すべく、水族館みたいな海で、肩が外れるほど泳いだ。

泳ぎたいだけ泳いで、飲みたいだけ飲んで、食べたい時に食べたいものを食べたいだけ食べて、寝たい時に寝たいだけ寝る。

こんな気の抜き方をしていると、帰るのが嫌になって、ここで生計を立てるためにはどうしたらいいんだろうか、ここで何を始めたら食べていけるだろうかなんてことを考え始めたらだいぶ帰りたくない病も重症化している証拠なわけで。

こういう時に片道切符だと帰り際がわからなくて困るのです。

もうすこしもうすこし。

夏はまだまだ始まったばかりだしね。

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Title: しばらく。
2010.07.27

旅に出ます。

いってきます。

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Title: 羊雲
2010.07.26


高高度を飛ぶB29が爆撃にきて、それを飛燕が迎撃にでるんだけど、B29の高度まで飛燕が届かなくて、あと一歩のところでストールして苦戦しているのを何度もみて、口にはださなかったけど、この頃からこの戦いに疑問を覚えるようになった。

B29がサイパンから本土まで航行してきて、攻撃をしてサイパンに戻れるだけの航続距離をもっていたにもかかわらず、日本は、浜松から一度、硫黄島まで飛んで、そこで燃料を補給しなければ、サイパンには航行できなかった。だから硫黄島が落ちた時点で、日本にはなすすべがなかったんだ。

せめてそこで、海軍力があれば、水際でも艦載機で、飛行場の攻撃を未然に防げる可能性もあったし、なによりも艦載の航空母艦が日本近海を航行するのを防げればもうすこし戦果にも影響はあったかもしれない。

でも沖縄を失った後は、制空権も制海権も失った軍にはなすすべはもうなかった。

本土に手がかかった時に、そこになすすべがないことは、兵器の整備をしていた人間にはよくわかるし、その性能の差を歴然にわかるから、B29に対抗できる兵力が、当時本土にほとんど残っていなかったことも、テスト機までが主力として配備されていたことも目の当たりにしていた。

しかも、本土決戦に向けて、軍用機の温存のために内地の基地に軍用機が集められるのを目の当たりにしていたら、前線でこれだけの軍用機を温存されたらどうんるんだろうと心を痛めた。

まだ若かった自分が、本当にこれで本土決戦は大丈夫なんですか?と上官に訴えたら、上官が一言、

「やるだけやるさ」

と言って、そのさみしそうな顔が印象的だったという。

戦争を体験したおじいさんの記憶がここまで鮮明でいて、なおかつ1つ1つの記憶を確認するみたいにしぼりだしながら語る様に、時代というのはなんなんだろうと思ったし、国ってなんだろうと思った。

その時代と今の時代を比べて、もちろん世界は平和の方がいい。

でも戦争も平和もそれは状態を指すものであって、そこには一様にメリットとデメリットがバランスをとっていると思った。

自分の中で、まだ整理をするのに時間がかかりそうだけど、

最後にそのおじいさんが

「必勝という観点において、大胆ないい方だけど、老人の経験と青年の情熱は相等しい」

といった。

その言葉に実感をもって感じることは今はできないけど、それがストンと落ちるところまで、もう少し反芻してみようと思った。


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Title: 間違いだらけの道順。
2010.07.26

なんだろう、自分に影響力があるとかそういうんではなく、こういう仕事をしていると、やっぱり自分の言葉や、自分の話が、誰かの中で、少なくともなにかの動機付けになったりする可能性があって、むしろ布教という観点から考えれば、仏教というエッセンスが、だれかの中に流れ込んで、なにかが変化したり、影響をすることが大切だと思う。

でも、例えば法話や直接、誰かと話をしたときに、相手の中で自分の発信したものが、なにかに影響したのかもしれないと実感できるたびに、ああほんとにこれでよかったんだろうかと思うことが多くなった。

今年の新盆の時に、話を聞きながら涙を流している人が何人かいるのを見て、このタイミングで、こういう話をしてよかったのだろうかと思ったら、なんか話すことにはすごく責任が伴うんだなと思って、責任が伴うんだと思ったら、なにを話していいのかわからなくなった。

いままで人に何かを伝えることとはどういうことなのかとか、どうやったら人になにかを伝えられるのかとか、言葉とは何かとか、声とは何かとか、間とか空気とか、そういうものはなんなのかとか、ことあるごとに頭でぐるぐると考えたりしてきて、

自分の中でそうやって形作られてきた、技術的な部分と、方法論と、少しづつ固まってきた持論とを、武器として使えるようになってみて、それが、それなりに通用するようになってくると、そこから先に身につけなくてはいけないのは、その武器を使うときの心構えというか、精神的な部分の方も同時に磨かなきゃいけないんだろうなとか思う。

どうやってそれが身につくのかと思って考える。

なにかを身につけたいと思ったり、なにかを生業として、それを誰かの為ではなく、自分の道として進んでいこうと思ったり、研ぎ澄ましていきたいと思ったら。

やっぱりあるラインまで来たら影響に関して、無責任でいることも大切なのかもしれない。

自分が影響を与えるから、なんてことをもちゃもちゃ考えているうちはまだまだ、小手先で、影響なんて与えても与えなくてもいい、自分は自分の思う道をまっすぐにあるいていけばいいのだと思う。

影響とは結果であって、手段ではないんだろうと思う。

それがなんか人に影響あたえてるのかななんて思って話をし始めると、法話は影響を与えるための手段になってしまう。でもそれじゃちがって、法話をするというのは、自分の中にある仏教をはなさずにはいられないことであり、自分の経験や体感を言葉にこぼしていていくことで、その姿勢が結果として、だれかに影響を与えるようなものなんだろうと思う。

なんでもそうなんだけど。

手段と目的はたまに確認しないとごっちゃごちゃになることが多い。

自分は一体どこにいきたいんだと、足元を確認して、

前に前に。


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Title: 東雲
2010.07.24

若干病み上がりなのに、ふらりと神楽坂へくりだすわけです。

そしたら、

1かけ2かけ3かけて、仕掛けた踊りはやめられぬ♪
5かけ6かけ7かけて、やっぱり踊りはやめられなない♪

なんて歌が聞こえてきて、坂の真ん中を阿波踊りが練り歩いていた。

お腹に響く太鼓の音に心地よさを感じながら、やっぱり祭りというのはいいなぁと思った。人間、こういう発散と高揚は大事なんだろうと思う。

それはいわば生きてる実感みたいなものなのかもしれない。

最近生きる実感ということをよく考えることがある。ことあるごとにそれがいろんなところで結びつく。

どうも最近は、生きる実感、体感というものが希薄だと思う、そういう瞬間を日常的に持っていられる人っていうのはどれくらいいるんだろうか。

それは年を追うごとにすくなるものなのかもしれないし、意識的でなければ少なくなってしまうものなのかもしれない。

生きる実感とは言いかえれば、リアルな瞬間ということだし、むき出しということだし、取り繕えないということだし、そういう瞬間を意識的にでも、無意識にでも持って生きるということは、いろいろなバランスをとる上で大事なんだろうと思う。

最近自分がそれを感じたのは、竹で指先をきって血が止まらなくなったときか、あとは、ラグビーの試合をしてる時とか、旅をしている時にも感じることがあるし、だれかをすごい好きになった時にも感じるし、営んでる時に感じることもある。

もしかしたらそれは、母校の甲子園の決勝戦を応援する時の気持ちでもあるのかもしれない。

なんか統一性はないけど、そういう瞬間の1つ1つにお腹の底から、なにかどうしょうもないものがこみあげてくるような感覚は大事だということで。

それがどんな時でもいいけど、やっぱ人間は発散と高揚を体感することは、生きる実感にもつながるし、生きる実感をたくさん感じられることで、頭でっかちにならないで済むんだろうと思うし、誰かに寛容にもなれるんだろうと思う。

自然とともに生きているわけでも、砂漠の民でもないし、蛇口をひねれば水が出て、クーラーもつくし、誰とも話さないでいきていこうと思えばいけるし、取り繕った部分だけで、十分に生活ができちゃう世の中だからこそ、すこしでも、日常の中にある、取り繕えない瞬間に意識的でいたいと思うし、そういう瞬間を大事にしたいと思う。


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Title: 妄想一人芝居。
2010.07.23


夏風邪ひくなんとやらといいますが、どうも昨日から調子が悪い。
あたまがぼ~としてとにかく眠いし、鼻水とまんない。

さすがにろくに寝ないで仕事をしてても、ぴんぴんしてられるほどもう若くはないということか。

でもいいんだ、こんな体調でもないと、パソコンの前で仕事しようかという気にもならないから、いまのうちにパソコンの移管作業を終わらせてしまおうと思って、新しいパソコンにせっせとデータを移したり、環境を整えたりする。

ほぼ大体の作業は終わったものの、一番困ったのは、自分の感覚が適応に時間がかかるということかもしれない。

画面のサイズもキーボードの大きさも若干変わったので、ちょっとした作業をしていると、変換ミスをしたり、所々で若干のストレスを感じたりする、windows7にもまだ慣れないので、つい昔のパソコンで作業をしちゃおうかと思ったりもする。

でも新しいものに慣れるストレスから目を背けることを習慣づけたくないので、なんとかここで食い下がるまいと思う。

そんで自分の中で、この感覚がスタンダードになっていくのをじっくり味わおうと思う。

あと、文章を書く画面のサイズと、フォントが変わったので、その変化が一番自分の中で適応に時間がかかりそうだ。

微妙なんだけど、画面の大きさや、フォントの違いで、書く気持ちというのは変わってくるもんで、慣れた画面の大きさでなれたフォントでかく文章と、そうでないところで書くものには、なんだろう文章に対する距離感とかそういうもので違いが出てしまうような気がする。

弘法筆を選ばずとはいうけれど、そんな域にはまったくもって達することもなく、ちょっとした変化で、戸惑う自分を発見して、そんな自分の脳みそに悲しくもうれしくもなったりするわけです。

こういう負荷が脳にあたらしい回路を増やしてくれるのかと思うとちょっとどきどきしたりもするわけです。

人間はストレスを受けることで進化をとげてきたわけで、これが進化のエッセンスなら甘んじてうけいれてみせよう、はっはっは。とぼ~とする頭で妄想一人芝居をするわけです。

熱で頭がぼーとしてると、妄想と現実の境界が曖昧になるようで気を付けないと。

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Title: ネジ
2010.07.19

日に日に起きる時間がはやくなってくる。

体が夏モードになってきた証拠で、だいたい朝焼けの時間に目が覚めるようになる。そんでカメラをもって蓮の花でもとりにいこうかなんて気になるわけです。

6月から探している90ccのカブの中古はまだ見つからず、時間切れなので、新車で買おうかと思う。あと7日待っても連絡がなければそうしよう。どうしても8月には間に合わせたい。

ここ3日、浸かるように、買ったままになっていた漫画と読みかけの本を読みあさる。

浅野いにお、の漫画おもしろい。なんか山田祐輔の書く文章みたいだと思った。

でも思うに。

形式ばかりで、嘘ばっかりの世の中に慣れ過ぎて、素直でまっすぐに自分のきたないことをさらけ出すことは1つの美学であると思うけど、包み隠して忍ぶことの中にも美学はある。

子どもから大人になる段階で、まっすぐに青臭いことが通用しないことを知って、そこに自分を適応させて、そこに体が適応すると、今度はまっすぐに青臭くないと通用しないことがあることを知って、そこにまた自分を適応させようとして年をとる。

いままで使ってたパソコンが、すごい音を立て始めてからはや3ヶ月くらいが過ぎて、万が一を考えて、新しいパソコンを買ったもんで、せっせと移管作業をするわけです。

移管作業をするたびに、余計なものがこそげ落とされて、角が取れていくような気がして、最近、少しづつシンプルになっていく感覚が心地いいなと感じるのです。

本当に大切なものは、きっとポケットに入るくらいの数なんだろうと思う。

えっと。

自分が好きになる人の多くは、本当はさみしがりやで、こころの底でなにかに渇望しているのに、その渇望する自分に一歩引いて冷めたような顔して生きているような人で、その渇望しているものが生み出す感情や嘘に、たまらなく惹かれるのです。その腹の奥底にあるぐつぐつしたものが、ちらりとでも顔を出す瞬間にたまらなく感情移入したり、愛おしく思ったりするのです。

でもその感情は同時に自分に対する安心でもあるんだろうと思う。

だから、まっすぐに自分の思いの丈や感情をむき出しにする人を、眩しく羨ましいなと思っても、そうはなれない自分は、そんな人をみて、ああはなりたくないなと思ったりする。

でもそれは、負け惜しみで、悔しさの裏返しなんだと思う。

誰だって本当は、とりこぼすのは苦手だし、とりこぼさなくていいなら、とりこぼさないに越したことはない。でも本当に大切なものは、ポケットにはいるくらいの数でいいんだ。それくらいが、いつでも走りだせる為にはちょうどいい。

もうなんでもいいなと思うときがある。

なげやりなわけじゃなく。

世界で何が起きても、どこかで誰かが泣いていても、笑っていても、

だれが政権をとろうと。

明日が晴れても雨でも。

自分が何かを変えられても変えられなくても。

もうなんでもいい。

なんでもいいと思えば思うほどに。

それはそのまんまで。

この素晴らしき世界かなと。

夏になるとどうも頭のねじが緩い。

ねじだけじゃない。いろんなものが緩すぎて、きっと大成功もするだろうけど、大失敗もするのも、こういう時なんだろうなと思う。

でも年を追うごとに、ねじを緩めるということに意識的になっている気がして、いつか意識しても緩まなくなってしまうんじゃないかと怖くもなったりする。

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Title: ぼくらのてのなかを。
2010.07.17


情報追いかけまわしているうちに、気づかないうちにそこに溺れて、

まるで自分の深度が深いように錯覚して、

いつのまにか、ぐらぐらと揺さぶられているのに、

そこに慣れ過ぎていま自分が揺れていることにすら気づかないことがある。

せめて夏の間は、情報を追いかけまわしたり、推測や算段に振り回されるのはやめようと思う。

浅く浅く。

今はここに。

じりじりとした毎日をじっくりと味わいながら過ごしたい。

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Title: EAST WEST SIDE STORY
2010.07.17

夏がきたみたいだ。

ふと気を抜いたら、蝉の声がきこえてきて、入道雲がでていた。

唐突にブルーハーツが飛び込んできて、脳みそがぐらりとなって、

境界があいまいになりそうな電話をして、

どこまでも自分を許せそうな気になって、

ラーメンを片手に明太子ご飯を食べていたら、

ああ、夏がきたんだと思った。

蝉の声と、入道雲とせかいのまん中にわくわくしたら、

なんか、もしかしたら、いつだって、それがそこにあるから、わくわくするのではなく、わくわくしているときに、いつだってそれがそこにあったのかもしれないと思って、

いつだって先にあったのは、わくわくのほうだったのだと思った。

そんな大事なことを想いださせてくれたのは、初めて自分の限界を知った旅の記憶だった。

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Title: 鍵穴を。
2010.07.12

息が切れるまで走ってみたら、深く息をするということが、どれだけ同時並列にいろんなものを動かしてることかと思った。

その一つ一つに意識を止めていたら、きっと呼吸はあっぷあっぷしちゃうけど、その一つ一つに意識をすることで、より深い呼吸ができるようになる。

なんでもそうだ。

食べるも。

笑うも。

泣くも。

喜びも。

1人になるさみしさも。

自由と孤独も。

無口でいることも。

離れていることも。

かしこの時間も。

きっと、味わうというのは意識の置き方をさす動詞なんだろう。

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Title: なだそうそう。
2010.07.12

シンプルにシンプルに、よりシンプルに。

いつだって全力疾走できるくらいにシンプルに。

*

人前で話をする時に一番大切だと思うのは、

理論的かどうかとか、筋が通ってるかとか、その内容よりも、やっぱり、目の前にいる人たちに切に何かを伝えたいと思うかであり、自分がその想いにどれだけ感情移入できてるかどうかだろうと思う。

すっとその気持ちに入れるか否か、ここに意識することと、ここにかかる切り替えの時間が早くなることが話がうまくなるということなんだろうと思う。

想いのないものはいくら名文でも伝わらない。
大事なのは熱量だ。

本質はすごくシンプルで、シンプルであることは複雑であることよりも難しいと思う。

*

もう今回の選挙でいろいろおもうことはあるものの。

あ~あ幸せってなんだろね。

政治や選挙を見ていると、社会の縮図というか、幸せの価値観というか、人間ってば本当にどこまでも人間だなと感じる。

しかし、あまりにも外国人参政権については触れられな過ぎる気がする。なにか意図的なものが動いているんだろう。

*

この間質問されて話したのだけれど。

仏教は悲しみや苦しみを消すことを説くのではないです。

なんか仏教を学ぶと、悲しんだり、苦しんだりすることがなくなるのかと思っていたり、悟りはそういう感情がなくなるのかと思っている人は多いかもしれない、自分もそう思っていたことがある。

でも仏教に触れるにつれ感じるのは、仏教は、悲しみを消したり、苦しみを魔法みたいに消したりはしないし、そんな呪文のようなものも持ち合わせてない。

仏教は、悲しみや苦しみに押しつぶされない方法を説くんだと思います。

だから泣きたいときには泣きたいだけ泣けばいいし、苦しい時にはそれを消し去ってくれる魔法なようなものにすがらずに、しっかりと苦しんで、それを糧にすればいい。

仏教は、そこで押しつぶされたり、自暴自棄にならない方法を説いてくれるわけで、それがあるかないかで、自分で立ち上がれるか上がれないかが変わるわけで、自分でなにくそっと思って立ちあがって、初めて見えるものがあるんだということを教えてくれるんだと思います。

占いだとか、スピリチュアルだとか、目先のわかりやすい解答で安心することは、自分で立ち上がっていることにはならないと思う、でもどうも人間は自分の頭でなんでも理解できると思っていて、自分の頭で理解できる明朗なものが、さも自分にぴったりなものであるように思いこむけど。

自分に矢印を向けて、自分の中に気づきを見つけるということは他人にはできないことなんだろうと思う。

鏡がないのに、化粧して、鏡がないのに着飾っているのに、もしかしたら自分が裸の王様かもしれないとすら疑えないから、凡夫なんだろうと思う。

仏教は鏡見たいだといった人がいたけど、今その言葉がすごく滲みる。

な~もなも。

*

自分がどこに進めばいいかわからなかったら。

なにかを否定すればいい。

否定して否定して、ああはなりたくないと思うことで、
あぶり出されるものが、自分のなりたいもので。

あそこには行きたくないと思う場所をたくさん見つけることは、
同時に自分の行きたい場所を照らし出すことなのかもしれない。

*

徳永さんの唄う、「時の流れに身をまかせ」いい曲だなぁ。

昭和の歌謡曲の歌詞はやっぱ深いな。今は作詞作曲を本人でする人が多いけど、作詞を生業として仕事にしていた人の生み出す言葉は、やっぱり深みがあるなぁと思うことがあります。

*

おじさんは ちんぴらだったから うまくいかなくてよかったというような思ってもいないことを 僕が言うと

ローズはさっぱりしたような顔で ほんとよね と答えた

たくさんの折り重なった感情を表現するのにこの2行は十分すぎるくらいにシンプルだ。

*


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Title: ばらばら。
2010.07.08

誰かの言葉を聞いていたり、声を聞いている時に、

ああ溶けそうだなと思うことがある。

そこから発される言葉とその声がうまいぐあいに絡み合っていて、

頭の芯がぐにゃりとなりそうになる。

絶妙にいろんなものがかみ合った瞬間のここちよさ。

そうそうあるものじゃないし、いつもそういう体感ができるわけでもないから、そういう瞬間にすごく幸せを感じるわけです。

言葉に声や間や空気を意識的に、絶妙にかみ合わせるのにはまだまだ自分には力が足りない。

*

幸せとはなにかを考える時に。

なにがあれば幸せかじゃなくて、何がなくなったら幸せじゃないかを考える。そしたらいま自分が大切にすべきものがわかる気がする。

それをなくさないために必要なものが自分も守りたいものなんだろうと思う。

*

アコーステックから弾かれた1つ1つの音がばらばらになって、ずずっと自分の中に入ってくる。

*

境目は曖昧な方がいいと思うことが多い。

人間関係でも住環境でも、仕事に対するスタンスでも、なんでもいい。

住環境でいえば、外と内の境界のないところで育ったせいもあるかもしれないけど、マンションとかにいると、個は守られるけど、でも外と内の境がはっきりしすぎていて、自分はどうにもその境をはっきりすることに居心地の悪さを感じるのだと思った。

いつでも他人に手が届くくらいの曖昧さが心地いい。

人間関係にしてもそうだ。

人は、自分がしっくりくる居場所に居心地のよさを感じるのかもしれないけど、そんな場所は本当はなくて、事象はつねに変わり続けるのだから、その時、その場所にぴたっときても、それはまた窮屈にもぶかぶかにもなる、そんでヤドカリみたいに次の殻を探すのかもしれない。

でもそれを繰り返してても結果しっくりくる居場所はみつかんないんだろうと思う。

曖昧とかグレーな部分に、人は白黒とか1とか0とか、わかりやすい説明とか、自分の中で落とし所をさがすことで、それを自分の居心地の良い場所に変えようとするけど。

それをそのまま許容するということがやっぱり大事で。

それをお互いが提供し合えるということが居心地のよさであり、癒しっていうのは、きっとそういう感じのところにあるものなんじゃないかと思う。

*

はいはいといわれそうだけどね。昔ね。

mixiが初めてできた時に、おお、これとおんなじことおれ思いついてたのになと思ったことがある。他にもこんなのあったらいいなとか、これをこうしたら面白いだろうなとか、自分の思いついたアイディアが実際にどこかで誰かが形にするたびに、ああこれ思ってたわ~とか思って、ちぇっとか思ってた時がある。

でもあるとき思った。

アイディアは形にするところまでがアイディアで、思いついても形にできないのは自分の力不足なんだと、いくらいいこと思いついても、自分がそれを形にできなきゃ世界はなんもかわんないんだと。

そう思って、足を出そうとおもって少しづつだけど、アイディアを形にすることを心がけてここまできてみて、なにごとも動き出すと思いもよらない障害とか、思いもよらない横やりが入ったりすることも覚えて、その対処も学ぶ中で、1つのアイディアを形にするということは、そのアイディアを思いつくのの何十倍もの才能が必要で、それが伴っていかないと、きっと5年後も10年後も、ああこれがあったらいいのに。と言い続けてるんだろうと思う。

*

言葉が先に口をついてでて、それに遅れて、ああそうか自分はそうだったんだなと意識が追いつくことがある。

こないだ、お前は人に期待しすぎなんだよ。

といって気づいた。

きっと自分は誰かに期待をするのが苦手なんだろう。期待とは自分の願望だし、願望通りにいかない時にそれを誰かのせいにしたがる自分に気づくたびにしんどいし。

*

許容範囲が広がること。

許せる範囲と、無理をしない範囲と、笑っていられる範囲が広がることが年をとるということなんだろうと思う。なんでそういうことになるかといえば、それはそこに来るまでに、散々自分の力で道を切り開こうとして、もがき倒した結果なんだと思う。

世の中は自分の力で切り開けるほど単純でもなければ、人間の力は世の中を切り開けるほど卓越もしてない。

歴史は美談でもあるし、体裁と大義名分を整えたフィクションでもある。

きっと誰かが世の中を切り開いたとか、時代を動かしたというけれど、それはたまたまその人の行動が流れに乗ったにすぎない。遅かれ早かれほっておいても歴史は1つの方向に流れていく。

その人じゃなくても歴史は変わる、社会ははつねに反作用を生みだす。

それがメリットとデメリットだ。

いつでも自分の見えるものや感じるものは側面的だ。なのに世界は多面的に成り立っている。

人間が、たかが脳みそ一個でみえる世界なんてたかが知れていて、多面的に物事をとらえるには限界があるということは、いうまでもない事実で。

そのまぎれもない事実を事実として受け入れることと認めること。

どうしてもそこにジレンマや苦しみが生じるけど、それをいつか認めざるをえないところにくるんだろうと思う。

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Title: 帰り道。
2010.07.08


同じ言葉を同じ音で発したとしても、そこにのる意味は人の数だけあって。

同じ言葉を同じ音で発したとしても、かたくなに受け入れられない時もあれば、ずどんと落ちてくることもある。

同じ言葉を同じ音で発した言葉が、だれかを深く傷つけることもあるし、だれかの脳みそを溶かすこともある。

だから、やっぱり受動的なことを磨き続けることは、同時にものすごく能動的な行為なんだろう。

一音にのるものをどううけとるか。一音の中にどれだけの広がりを感じて、どれだけの世界を広げられるか。

目の前にある事実を事実だと気づけないうちは、なにを追い求めても答えはみつからなくて、事実を事実だとに気づいたら答えはどこにでもあるんだろうと思う。

ぜんぶがぜんぶつながっているんだと思う。

答えは数珠つなぎで、1つだけなんだろうと思う。

図書館の帰り道、じりじりと照りつける日差しの中を走りながらそんなことを思った。

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Title: 白玉。
2010.07.06

指先がどくどく脈打ってあっという間に真っ赤になった。

七夕に使おうと竹やぶに入って、「今は昔、竹取の翁といふ者ありけり」なんて一文があったななんて、のらりくらりと竹を切っていたら、うっかり竹で指先を切った。久々にくるこのズキズキ感と、どろっとした感触に痛いんだけどなんかわくわくもした。

気圧の関係なのか、どうもここのところずっと眠いし、だるかったのが、一気にしゃきっとしたきがして、こんなことでしゃきっとしてる自分ってばちょっと大丈夫かいなと思った。

血というのは人を高揚させる効果があるのかもしれない。

でもそんなんじゃ仕事できないので、特技といってもいいほど得意な止血で、ささっと血を止めて、デスクワークに取りかかってみて、右手の人差指に包帯巻いてると、こんなにパソコンが打ちづらいのかと気づかされるわけです。

しかもenterボタンの調子が悪くて、反応が鈍いので、二重に効率が悪いのです。

はてさてそんな今日ですが。

明日は七夕だそうです。

でも雨だから1年に1度の遠距離恋愛も実らないわけです。でも思うに、1年に1度しか会えないことはかわいそうなことかと思えば、その状況でしか育まれないものもあるんだろうなと思う。

1年に1度しか会えなくなったからこそ、七夕の寓話は愛のある話になるんだろう。昔から、なにか状況的な困難があるほど二人の絆は深まるというもので。

感情とは別のところで、状況や環境というのはいろんなことに作用していると思うのです、自分の脳みそで考え出されたベストな答えなんて所詮、自分に都合のいい側面的な意見みたいなもんで、本当に大事なことは感情とは別のところにあると思います。

一緒にいたいからいれるだけいればいいじゃんというのが、人間の浅はかなところで、進化を止められなくて自滅していく人間の本来の習性なのかもしれないと思うのです。

だからきっと、誰かと本当に絆を結ぶのには、きっと感情ではなく、まずは状況を整えることだと思うのです。

七夕の竹を血だらけで取りながらそんなことを考えながら、短冊に世界平和と書いた。

10年前に書いた世界平和と、今書く世界平和じゃ、そこに込めてる想いは全然ちがってるけど、でもやはり世界はピンフがいいと思うのです。

ああ指がずきずきどくどくする。

なんか妙に生きてるんだなぁというリアリティがある。

やっぱ人間は取り繕えない状況にリアリティを感じて、リアリティを感じることで、自分の分限をしることができて、分限をしることは、誰かを認めるとこにつながるんだろうと思う。

な~もなも。

そして白玉は夏の食べ物です。

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Title: にいぼん。
2010.07.01


誰かの為じゃない。

自分の為だ。

誰かや何かの為に何かをやり続けていくと、それがまぎれもなく自分自身のためだと気づくんだと思う。

そんでメリットとデメリットはいつだって対になっていて、どちらかだけにスポットを当てた議論をすることはナンセンスで、世の中のすべてはメリットとデメリットのバランスのメリットが少しだけ大きい方を選択して成り立っていて、そのメリットが大きければ大きいほど、そこにあるデメリットも大きいんだ。

デメリットに悲観して、デメリットをやり玉にあげるということは、同時にメリットを嘆くようなもので、それは同時にそのものの存在自体を嘆くようなものなんだろうと思う。

世の中の大抵の問題は、そのバランスを無視するから起きるんだろうと思う。

この時期になると。

いつものことだけど、夜な夜な夜の街を徘徊したい欲求がむくむく湧いてきて、ひょいと雪駄をつっかけて2軒3軒と梯子がのびていくのです。そんでおぼつかない足取りで、家路につきながら、生温かい風をあびながら、境界がぼやけそうになる感覚に酔いながら、お腹の中からわき上がってくる何かにぞくぞくしながらわくわくするわけです。こうやって年をとっていくことが、なによりの望みなのです。

なにやら自分の周りの友達の身辺が、あわただしく変化をしてきたのを見ていて、変化を感じるというのは一方的なものではなくて、動く電車を眺めるようなもので、同時並列に起きるものなんだろうと思った。自分が相手を変化したと思う時は、相手の中での自分も少なからず変化しているんだろうと思う。

変化は生きている証拠で、生きているものはつねに変化するんだ。変わらないのは死んだものだけだ。って言葉が好きだ。

最近改めて思ったのは、何度あっても、何度2人で飲んでも、面白くない人というのはいるもんで。でも理由は相手だけにあるんじゃなくて、それを生みだす要因は、お互いの環境や肩書とか、条件的な前置きから抜け出せないということがあるわけで、それをとっぱらうことができない、自分の力のなさでもあるんだと思う。

ギャップをフラットに。

自分の手の内明かさないくせに、相手にさあ手の内をあかせよ。は通用しない。という言葉を実践しようとすればするほど、それがどんなに難しく、自分というのはどんだけ手の内を明かしたがらないんだと思う。

前に前に。少しでも前に。

単純だけど、人間はやっぱり誰か心の中に想う人がいる時といない時じゃ、ここ一番で湧いてくる力が違うんだと思う。誰かを求めることと誰かに受け入れられることは、遺伝子レベルでおこる反応の問題で、本来はきっと外側にある理屈や理由じゃどうにもならないことなんだろう。

余計なメンマをのせた店主が、したり顔でサービスだぜみたいなことをいうので、優しさの押し売りとはこういうことを言うんだなと思った。でもそんな余分で余計な優しさを疎ましく思う時と、その優しさに救われることもあるわけで。優しさとはいつだって受け手の問題なのかもしれないと思った。

もう7月。もうすぐお盆。

今年はなかなか1年のスピードが心地よい。

早すぎず遅すぎず。

ちょうどいい。


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  • 自己紹介:1980年1月9日生まれ。どこからを趣味と呼んでいいのかは模索中。好奇心は旺盛。