• PHOTO最終更新日2010年10月11日



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Title: いま自分の目に映っているもの。
2008.11.26

「人間は見えるものを見るのではなく見たいものを見る」という言葉がある。

少しはやいけど今年1年を振り返ってみると本当にいろんなことがあった。世界的な株価暴落、餃子事件に年金問題や大相撲の問題、今年も戦争やテロが減ることはなかったし、日本では自殺者は3万人を超えた。事故扱いにされていない自殺者を含めればきっとゆうに5万人近くになるんじゃないかと思う。911のテロで行方不明または亡くなった人が約3000人、そう考えれば日本では毎月あの規模のテロが起きているのと同じくらいの人が自殺をしている計算になる。それに社会的格差もどんどん広がる。

もういろんなことが覆い隠せないぎりぎりのところなんだろうなと思う。

どんなにいいところを見ようとしても、明るい話題を持ち上げようとしても。夢とか希望を胸に掲げてどんなにポジティブになろうとしてもそれがハリボテだってみんなが気付き始めてるんだろうと思う。

そんな時代だからこそニートやネットカフェ難民をみて、ああはなりたくないねという。ホームレス中学生をみて自分はまだ幸せだなと思う。ある統計によれば秋葉原の事件をみて世論の多くは犯人にたいして同情の気持ちを持っているという。きっとおバカキャラが世の中に受けるのもきっとおんなじ理由なんじゃないかと思う。どこかで自分の中にある優越感を安心に変えようとしてるのかもしれない。まだ自分はましだって。

いつ自分がそうなってもおかしくないという不安がだれにでも見え隠れする。誤解を恐れずにはっきりいうなら、この社会で田中角栄のような人が生まれてくるのはありえないですよ。今の社会じゃそれなりに教育をうけてきて、それなりに社会的地位がなければ、のしあがれるにも限度があると思う。この世なのかを動かしてるのは数人の人間で、お金なんていうのは上の方でうまいこと循環してるだけですよ。コツコツ頑張った人だけが報われるかいえばそうじゃないです。まさにマルクスが心配した通りの世界じゃないか。いままで資本主義の恩恵にあずかってきてそのデメリットに目をむけてこなかったツケがいまになって表面化してるんだろう。

しかもそんな世の中に対する心の不安に病名までつけてそれを治療しなきゃいけないといって、心の病んだといわれる人を作り出して薬を処方する。

不安は病ですか。

思うにこんな時代じゃ鬱になるほうが正常なんじゃないかとすら感じてしまう。毎月何千人も自殺してる国でそれでもハイテンションでなんとかなるさ。なんて言っていることの方が異常じゃないかと思う。

この現実に目を背けたり、気付かないふりをしたり、ましてや夢や希望があれば乗り切れるとはしゃいでももうどうがんばっても覆い隠せないんですよ。

それを前向きに乗り切ろうと、希望や夢で乗り切ろうとするから苦しくなる。乗り越えられないことがあたかも弱い人間で、順応できない人間をだめな人間であるかのような価値観なんかくそくらえですよ。

こうなりゃあきらめるしかない。

「人間は見えるものを見るのではなく見たいものを見る」

いま自分の目に映っているものが正しく見えているものではなくて自分が見たいものではないかと、もう一度自問自答して正しい目で物事を判断することが大事なんじゃないかと思う。

そんである意味開き直る。

諦めるというと否定的なとらえられ方をするけど、社会とか世論とかの物差しから離れた物差しに持ち替えて価値観をはかっていくことが必要なんじゃないかと思う。幸せの価値観すら刷り込まれている自分に気づくことじゃないかと思う。

だれでもない。

幸せは自分の心がきめる。

そもそも幸せってなんですか。

っていう原始的な疑問をもう一度真剣に考えるべき時代なんじゃないだろうか。

なんてことを漠然と考えてたら悶々として眠れないので今日は帰ったら一杯飲んで鼻くそほじりながら羞恥心でも口ずさんで「宇宙兄弟」でも読みます。宇宙兄弟かなり面白いですよ。「プラネテス」が好きな人や宇宙が好きな人にはぜひお勧めです。

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Title: サザエさん。
2008.11.24

昨日サザエさんをみて思ったこと。

カツオ君あの数々のイタズラは脱帽に値する。そんで100%ばれるようなイタズラを堂々とできる決断力。あの創造力あふれるユーモアと思い切りのよさというものは今の子どもたちの中には失われてしまったんだろうか。顔色のうかがい方や怒られ方ひとつとってもカツオ君の持っている潜在能力はかなり高い。

きっといまの現代に必要な人材はあんな子なんだろうと思う。イタズラは時に人間力を育む。

でも思うに、カツオ君があれだけおもいっきりイタズラしたり、あほなことをできるのは、それに引っかかっってくれるサザエさんがいるからなんだろう。もしサザエさんがものすごく鋭くて、すべてのイタズラを見破って冷たい対応なんかする人だったら、おもしろがってイタズラなんかしかけない。あの抜け加減が絶妙にカツオ君の本能を刺激してしまうんだろうな。

きっとカツオ君とサザエさんは似た者同士なんだと思う。だからこそカツオ君はサザエさんにイタズラを仕掛けるのが楽しいんだと思うし、あの絶妙な裏のかきかたはきっと自分と照らし合わせているからこそできるんだと思う。

でもあの家族の中核を担っているのはやっぱり波平さんとフネさんなんだろうと思う。

なにがあっても子どもたちを温かく、そして時に厳しくしかるフネさんのぶれない愛情。デパートに買い物に行っても家が心配で急いで帰ってきちゃうところとか、ほんとによき母であり、なによりも母であるということ主婦であるということに誇りとプライドすら感じさせるあの徹底したぶれない姿勢は間違いなくサザエさん一家の屋台骨だと思う。

それと重要なのはいつも厳格で怖いだけじゃなく、ときに酔っ払ってどうしょうもない波平さん。うっかり調子にのって大失敗をする波平さん。そういう姿をちゃんと家でだせるということが大切で、子どもたちは父親のよさもわるさもしっかり目の当たりにしているし、その悪い部分がちゃんと自分の中にあることも知っている。そうやって親子のきずなを気づかないところで深めているんだろうなと思う。

サザエさん一家の描かれ方で一番すごいのは、あのみんなが間違いなく家族であることがものすごく緻密に書かれていることだろうと思う。

あの波平さんとフネさんの子どもは間違いなくサザエさんでカツオ君で、やっぱりその二人のしたにいるのがワカメちゃんなんだよね。あの二人の下なんだから怒られてばっかりいた姉と兄をみてればいい子にもなる。

ほんと見事に波平さんのダメっぷりとかサザエさんとカツオ君に受け継がれてて、あのお兄ちゃん!というワカメちゃんなんてフネさんにそっくりだ。

そんでサザエさんの旦那は間違いなくマスオさんなんだよね。あの家で同居をしながらあの家族とやっていけるのは彼しかいない。嘘のつけない裏表のないマスオさんというイメージで定着させずに、時に内緒でアナゴ君と麻雀をやって帰ってきたのを残業と嘘をつくあたりとか。ほんと絶妙。

家族構成と性格がものすごく絶妙だなぁと最近サザエさんをみてると思う。やっぱり、あれをみていい家族だなぁと思うのと同時に家族というのは、環境によって育まれるんだろうなぁと思う。

家族はバランスをとるということがものすごく顕著に、緻密に描かれている。だから見ているほうも違和感なくふわぁと感情移入できるんだろうな。

サザエさんと笑点だけは絶対になくならないでほしい。

あれだけは未来に残したい20世紀の遺産だと思う。

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Title: 総括冬支度
2008.11.17


ほんとうの瞬間というのはもしかするとその瞬間には気づけないものなのかもしれない。再認識することであれが自分にとってほんとうの瞬間であったと思える時間が自分をここ一番の根底で支えてくれているんだと思う。

*

宗派を問わずに同じ年代の人たちと真剣に仏教や宗教を話す機会があった。50人近い人たちがいて宗派も信じてるものも全然違うのに、みんな同じなんだなと思ったしある種の同じ危機感を感じてるんだと思えたことにすごく背中を押された気がした。

自分の中にあった漠然としたもやもやをみんなも抱えているんだなと思ったらやっぱりこのままの方向性で歩いて行っていいんだと思ったし、同時に自分のやろうとしていることの難しさと責任の重さを改めてまざまざと見せられたような気がした。

恥ずかしながら真言宗は禅宗だとおもってた自分がいたように、同時に真宗に対してもあんまりにも知られていないんだなということがわかった。宗派の壁というのがものすごく高そうに見えるけど、でも一歩踏み出せばみんな同じなんだと思った。お坊さん同士がなんで髪そらないのとか、真宗には供養がないって衝撃的なんだけどとか、なんで真言の寺には御本尊がいろいろあるのとか。素朴な疑問をぶつけあったり、それぞれの抱えてる宗教的な問題をあまり肩ひじ張らずにはなせて10時から始まって最後はもう22時近かったですよ。興味深かったのは生まれてはじめてあった山伏の人でした。同い年で山伏として宗教を扱ってる人がいるということもその修行の方法や昇級試験のことなどなかなかおもしろい話がきけた。

あと意外に世間はせまいもので。

宗派も住んでる場所も、その集まりにくる経緯も全然ばらばらなのに、共通の知人を何人も発見したりして、やっぱ人間どっかではつながってるんだなぁと思った。

そこの黄檗宗のあなた。あなたを知ってる黄檗宗の人に会いましたよ。

しかしこういう場所を僧伽というんだろうなぁとしみじみと思った。そして他人事のようだけどお坊さんもがんばってるなぁと強く感じた。

**

うちの幼稚園は今年で30周年を迎えるわけで節目ということでいろいろなことを考える。

30年とはいえ自分が幼稚園にかかわるようになってはまだ7年くらいしかたってないわけで、でも自分の知ってるその7年の前にたくさんの人たちがこの幼稚園に携わってきたんだなということを最近記念誌などを作っているとひしひしと感じるし、それこそ担任をしている人も、バスを運転してる人も、事務も補助も、自分にとっては働き始めただけの年数しかその仕事を感じることができないかもしれないけど、でも自分がその仕事に携わる前にも歴史というものはあって、仕事というものは、自分につながってくるまでにもたくさんの人の理想や思いや悲しみや喜びや、そういうものが目には見えないけどたくさんつめこまれてて、たまたまその一番先端の部分に自分がいる。そう考えると、今という時間、今の自分の立っている場所というものは改めて、たくさんのひとの想いの上にあるんだなと思った。

それを感じるということは仕事をする上でものすごく大切なことだとおもった。

でもそれは仕事だけじゃない生きているのだって同じだって思った。

***

しかしおじいちゃんが死んでからことあるごとに、きっと言いたかったことはこうなんじゃないか、きっとこれをやったら怒られるだろうなとか、きっとこの文章はこういう意味があるんだとか、ほんとうに自問自答することが多くなった。

宗教的にも自分の中でわかることが増えてきたというのもあるのかもしれないけど、でもなんとなく感じるのは、その人になにかきっかけや転機や、少なからず影響をあたえるとうことは、それが実在しているかどうかというのは別の次元の話なんだということ。

生きている人が必ずしもきっかけを与え続けられて、死んでしまったら進行形でなにかに影響を与えられないかといえばそうじゃない、同じ言葉で何度も自問自答する自分のまえにおじいちゃんはいない。人間は実在しないものは消滅したとか0だとか思ってしまう。でもそうおもうからこそ失うということに対して特別な感情を抱くのかもしれない。

命に対しても、「なくなる」というけどもともと実在するという根拠はどこにあるんだろうか。だれかの命がなくなった時に自分の中で失われるものはなんなんだろうか。

自分の腹の中に落ちてはじめてわかる感覚。

****

友達とツインリンクもてぎにいってきて完全にモータースポーツに魅せられました。

あいにくの天気で子ども用の30Kmくらいしかでないカートにしかのれなかったけど、初めてのカート体験には十分でした。子ども用とはいえ、エンジンをかけた時の振動と音、スタート前にヘルメットのシールドを一斉におろすときとか、かなりテンションあがりました。

同じ速度しかでないのに、友達にインから抜かれたり逆に抜き返したり、コース取りで腕の違いがでます。その瞬間の爽快感はこれははまります。しかし大人用は70kmちかく出るそうなので遊び半分というわけにはいきませんがでも近いうちに必ずまたいきます。

いろんなところがハミルトンでした。

冬のBBQもなかなかいいもんだと思った。飲めなかったのが心残りですが。。。

しかしたまには早起きして一日遊ぶというのはいいもんです。まぁ天気がいいにこしたことはいけれど、次の日に思い出してにやにやできる時間というものが自分を根底で支えているんだぁと改めて思った。

思い出というものは満足度ではなくてインパクトですな。

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Title: 中論
2008.11.10

心身ともになんてよくいうけどほんとに心と身体のバランスというのは大事だなと思う。心が調子悪ければ引っ張られるように身体も調子悪くなるし、逆も然り。むしろ逆の方が多いような気がする。

この時期はどうしても出不精になるし、身体の血の巡りも悪くなるしなんとなくだるいし腰も痛いし、なんていってるとすぐに心のほうもそっちにひっぱられる。

なので今日は思いっきり体を動かしてみた。

おもいっきり汗かいてみるとやっぱ気持ちいいし頭にもいい血がめぐるのかここ数日頭の中で疑問だったことがぱぁとつながった。

竜樹の中論読み始めてみて、できるだけ原文の訳に近いものを探して読んでみると、なんかもうすごいとしか言いようがない。この本はやばい。これだけの思想や思考を明確に文章にまとめられているということだけでもすごいのに、何千年たったいまでもそれがこうやって伝え続けられ続けてきて、いま自分の手の中にあるとうことがあたりまえのようだけどすごいことだし、幸せなことだと思う。

その反面、こんなに簡単に手にしてしまうということが本当にいいのかどうかとも疑問に思う。昔はシルクロードを渡って命をかけてこの経典を目指していた人たちがたくさんいたのに、いまやAmazonでぽちっとすれば2日で家に届くなんて。西遊記もびっくりですよ。

でも本当に経典というものの重みを最近ひしひしと感じる。苦しい時に帰れる場所、依れる場所が明確にあるということの幸せ。

しかしこれを読んでみるとなるほどこないだの講演の前置きもしかりダライラマ法王のあの論理的で確実な言葉につながってくるのかと思った。

仏教はきな臭い不確実なものではない。

ものすごく現実的で論理的なものなんだということがよくわかる。でも目に見えないものを論理的に突き詰めていく時に出てくるものというのが宗教を難解にするし誤解を生みだすんだろうな。

しかし読み始めてまだ浅いけど、ここに書かれている内容はフロイトの本の中にもこないだ読んだ脳科学者の茂木さんの本の中にも同じようなことが書いてあった。心理学も脳科学も突き詰めていくと同じようなところに行きつくんだろうな。こないだ話した精神科の先生も同じようなことを言っていた。

七高僧の書いたものをはじめて読んだけど、竜樹の中論だけでこれだけのものだとしたら他のものを読み終えてそれを全部自分の中に落とそうとおもったら途方もない時間が必要なんだと改めて時間のなさに若干の焦りすら感じる。

中論の13章の第2項に自律神経がバランスしているときに得られる均衡のとれた静寂が人間の幸福を示す永遠の指導標であろうという1文があるけど、自律神経のことまで触れられているのだとしたら、やっぱりそこには呼吸は切って切り離せないと思うし、インドからヨガができたということにも筋が通るし呼吸法と仏教はきっても切り離せないところにあるんだと再認識。

こんな話興味のない人がほとんどでしょうが、もし数ミリでも興味がわいたならいっぱい飲みながら話しませんかね。

*

話はうってかわって。

どうも動物というのはこの時期には食べた物を脂肪にかえて蓄えるという習性があるようで最近気を抜くとすぐに太ります。

1週間くらい節制してても2日も飲み歩いたらすぐ元通りですよ。せっかく節制しても2日で戻られたらたまりませんわ。

単純に消費すればいいし、そもそも摂取を控えればいいんだろうけど、おいしいお酒とおいしい肴を我慢してまで痩せてはいたくはない。飲めないとストレスたまるし。

飲みたい食べたいでも太りたくない。

どうしたらいいんだろうか。年頃のOLのような悩みですが切実です。

こればっかりは中論を読んでもかいてない。

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Title: しるし
2008.11.09


走り続けなくちゃ保てないものなんていらない。

がんばり続けなくちゃ持っていられないものよりも大切なものがある。

どんなに知識をつけてもどんなに経験をしてもどんなに人とであっても、奥の奥の方にとどめておけるようになってもそれは消えたわけじゃない。どうやったって変われないことはある。どんなにぬぐい去ろうとしてもこびりついてる自分の奥底のほうにある部分。

悔しさを感じる部分だったり、素直に認められない部分だったり、ついむきになってしまう部分だったり。どうしても他人に踏み込まれたくない部分だったり。そんなもののせいで同じ所で苦しんで、同じ所でおなじ失敗をする。

大人になるっていうのはそういう部分を覆い隠してそこが他人に触れられないような身のこなしがうまくなることだ。それを隠すためにときに走りつづけてがんばりつづけることもある。

でもその大事な部分から目をそむけないで、覆い隠さないでしっかり自分の目で見据えてるという行為はものすごく重要なことだと思う。見据えて初めてそこから手を離すことができるんだとおもう。それは勇気とエネルギーのいることだけどそれができたらきっとまた一歩先に進めるんだと思う。

そんな自分を認められて初めて心からだれかを認めることができるんだと思う。

そういうことに気づけるきっかけをくれるのはいつも他人だ。

そのときは苦しいし、なんでって思うし、全部手放したくもなるけど。でもそうじゃないと見えないことがあるという事実に感謝しなきゃいけない。

いつも胸張ってる必要もないし、顔あげてる必要もない。たまにはそういう自分の弱さになさけない顔をする自分がいてもいいんじゃないかと思う。

そう自分にいい聞かせてまた一歩前に進めたらいい。

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Title: 法縁
2008.11.06

ダライラマ法王の話をきいて。

きっといろんなことを感じる人もいるかもしれないけど、自分の感じたことをそのまま書きます。

今回はじめてダライラマ法王の話をきいて、とくにめあたらしい言葉もなければ、目から鱗が落ちるようなこともなかった。でもそれがかえって深く自分の心に響いたし、あれだけ単純な言葉であれだけ確かなものを感じさせられたのはすごいと思った。感応道交っていうんだろうか、言葉尻ではなく力のある言葉だった。

話をきいて一番に感じたのは「ああこれで間違ってなかったんだ」っていう感情だった。

えらそうになにをわかった気になってるんだと思うかもしれないけど、でも本当に自分がここ数年でかみしめてきたこと、文章にしてきたこと、もやもやしてきたこと、その一つ一つにそれでいいんだ。と言われたような気がした。だからこそ、あの話をきいても自分の中でなんの違和感もわかなかったし、むしろ当たり前のことをものすごく確かなものとして受け止められたし、その言葉に確かな深みみたいなものを感じることができた。

ものすごくレベルを下げて話をしているのも十分に伝わったし、あの時間で通訳を通してでは限界があるのもわかる。でもその中で完璧な位置で難しくも噛み砕きすぎずも仏教というものの本質をとらえていたと思うし、あの語り口やたとえ話は本当にわかりやすく入りやすかった。そしてなによりもすごいなと思ったのが話の導入の仕方と前置きだった。

自分と同じものを読んでる。自分と同じものを扱っている。ダライラマ法王も自分でいっていた通り自分も同じなんだ。という言葉がものすごく意味をもっていた。遠い人じゃない。なにか不思議な力を持っているわけでも神格化されるような人でもない。一言でいえば、こんなこというのははばかれるのかもしれないけど、自分とおなじ一求道者で宗教者なんだということがひしひしと伝わってきた。今回の話をきいて、ダライラマ法王の言葉に新たなことを吸収したり、学んだりということではなく、いま進んでる道にどんと自信がもてたというか、背中をどんとたたかれた気がしたと同時に自分もあんなふうに宗教を扱えるところまで行きつけるんだろうかとおもった。

自分にはあれだけ確かな言葉で宗教を語れない。あれだけ強いものを言葉にのせることはできない。同じ言葉にのっている重みの違いっていうのをまざまざと感じた。あれだけ仏教を、哲学的に論理的に語れて常識の枠の中からはみださずに真実を伝えることができる人はきっとほかにはいないと思う。あれが仏陀の資質みたいなものなんだろうか。

最後の質疑応答である禅宗の僧侶の質問に対して、法王は竜樹の中論の中の18章24章26章にあなたの答えが書いてあるといった。それがものすごく気になって中論を読んでみようと思った。

今回感じた一つは竜樹の中論もそうだけど、宗派の垣根をこえて宗教を扱っていくことの重要性というか、宗派の違いはあれど自分たちの扱っているものは同じであるという認識を宗教を扱う人間は持つべきだと思った。

真宗の人間はすべてではないけど宗派に偏っている人がおおいと思う。もちろん自分の知っている人の範囲だけだけど、親鸞教団を連発する人とか、親鸞によりすぎて本質を見失っているんんじゃないかとすら感じる人もいる。真宗はピラミッド構造で頂点に親鸞がいると、しかし禅宗というのは何かに頂点があるわけじゃない分幅もあるし、解釈に余裕もある、ピラミッドというよりは台形に近い。といった人がいた。それを言われた時にはよくわからない言葉だったけど今になってすこしその意味がわかったような気がした。

宗教の本質は自分の中にある。宗教の本質は単純でいてシンプルなもの。ということがものすごくよくわかった。

本当に話がきけてよかった。この法縁に感謝。


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Title: のぼうさま
2008.11.02

いづくにもあれしばし旅立ちたるこそ目さむる心地すれ。

日帰りとはいえ、久々に降り立った京都の空気が心地がよくて、なんか冷たい水で顔を洗ってはっとするような気持ちと同時に、なにかがおなかの底から湧いてくるような感じがした。

他のどこにいても感じられない気持ち。

最終にちかい新幹線での東京への帰り道で読みかけだった「のぼうの城」を一気に読み終えた。

今年読んだ本の中でベスト3に入るくらい面白かった。ひさびさに残りのページ数が少なくなることにさみしさを感じほんとに読み終わりたくないと思った。

いつもこういう系統の本を読むと思うのが、きっと自分が戦国時代に生まれていたらものすごく短い生涯を思いっきり生きられたんじゃないかと思う。

命を賭けてでも守るべき誇りと誇りを捨ててでも守るべきもの。そんな大切ななにかと、それを全うできるだけの力がほしい。

そんなこんないろんなことを思いめぐらせていたら、新幹線がちょうど小田原を通り過ぎた。

あの城で繰り広げられたであろうドラマを思い描きながらひとりで缶ビールを飲んでいる時間がものすごく贅沢なもののように感じた。想像だけでうまい酒が飲めるなんて、なんて安上がりなんだろう。


毎年のように日記にも書いてるかもしれないけど11月1日は全国の幼稚園にとっては大事な日です。次の年の入園者が確定する日でもあり、新入園児の子たちの面接をする日です。

朝から何十人も面接をしていて感じたこと。

一言で子どもって言ってしまえばそれまでだし、あたりまえのようだけど、一人として同じ子どもはいないわけで、生まれてから3年しかたっていない人間にあれだけの違いがでるということに改めて驚かされる。

はきはきと受け答えができる子もいれば、お母さんから離れられない子もいる。淡々と無視をする子もいるし、だまって固まったまま動かない子もいる。部屋中を走り回ってる子もいる。

一番印象的だったのははきはきと受け答えをして、入園の許可証を渡して、お母さんが「よかったね」って言った瞬間に涙が止まらなくなって号泣した子。

きっと緊張の糸がきれたんだと思う。はりつめるほどに緊張してたんだと思うと、すごいなぁ3歳の子どもにそれを押し殺してあれだけの受け答えができるんだと思ったらものすごく感動した。

バラバラで一緒。

この時点であるそれぞれの個性をなくすことなく大きくなってほしいなと思う。つまんない常識や価値観やしがらみなんかで、あんなに素直な個性を無くさないでほしいと思う。子どものもっている大切な部分には学ぶことがおおいと最近本当に心から感じる。今の自分にないものだらけだ。

ほんとこうやってたくさんの子どもを目の当たりにでいることは幸せなことだと思う。幼稚園に子どもを送りだそうとする親と真剣に話ができることもすごく幸せなことだと思う。

そんな面接を終えて次の日にはお寺で齢90を過ぎたおばあちゃんと話をする。3歳から一気にものすごいギャップだと思うんだけど。

でも90も過ぎると人間一回りして、こちらの感覚的な部分だけどいろんなものの手放し方とか視野の深度とかが子どものそれとものすごく近いことに気づく。もちろん内容は全然違えども話しているこっち側の意識の置き方が全く変わらないってことに気づかされる。

自分の中で抱えている大小様々な夢の中でチベットへ行くことがもうかれこれ8年くらい前に叶ってからずっと引っかかっていたもう1つの夢。

ダライラマにあいたい。

こんなことをいうと怒られそうだがどことなく、うちのおじいちゃんに似ているような気がしてからなのかどうかは定かじゃないけど、もうかれこれずっと思いつづけて一度直にダライラマの持っている空気、人間性、声や間を自分で直接感じてみたいと思っていた。

それがもうすぐ叶いそう。

楽しみというかうれしいというか。なんだろう。漠然としていてたとえようがない気持ちだけど。そこからなにか一欠けらでも自分の中に取り込んで今後の糧になるものがみつかってほしいという願いなのかもしれない。

さていよいよ明日は。

世界大会へ向けた東京地区予選です。70分の3ゲームの勝ち星で優勝を決めるそうです。世界ランカーも来るそうです。

初参戦だけどかなり楽しみです。

久々に血が騒ぎます。

ああちなみに。

フットサルじゃないですよ。

モノポリーの話です。

最近モノポリーをできる友達がすくないのでまともに練習できてませんが、世界のレベルがどんなもんか胸を借りるつもりでがんばってきます。

ここんとこ急激に寒くなってきてそろそろ冬眠の時期です。モノポリーの大会で全力を出し切ったらちょっと温泉にでもいってきます。募集も終わったし年末に向けてここいらですこし休息です。

書かなければいけない原稿を3つも抱えてるのに。締め切りが迫っているものばかりなのに。。昔から宿題は追い込まれないとできないんですよ。

まぁ1つは締切昨日ですけど。

すきなものをすきだって胸をはっていえること。

すきなものをすきだと迷わずにいえること。

あたりまえのようだけど最近になってやっとできるようになったような気がする。


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  • 自己紹介:1980年1月9日生まれ。どこからを趣味と呼んでいいのかは模索中。好奇心は旺盛。