• PHOTO最終更新日2010年10月11日



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Title: 罪を憎んで人を憎まず


小泉首相はやっぱり支持できる。
たとえそれが地盤を固めるためであっても
今回の靖国参拝についての公式発言は
支持できる。

靖国参拝について戦没者を追悼する気持ちを持つことが
なぜいけない。靖国参拝について他国の干渉するところではない。
罪を憎んで人を憎まずとは中国の孔子の言葉でしょう。

おみごとです。ここまできっぱりと言ってのけた総理大臣は
初めてじゃないだろうか。
戦犯がまつられてるというが
それこそまさに罪を憎んで人を憎まずでしょう。

歴史的背景も戦争という罪もそんなものは国政の問題で
人としての気持ちを他国が干渉すべきではない。

「今回はここまでで言いたいことは言い終わりました。
ここから先は書き始めたらとまらなくなったおれの気持ちです。
めちゃくちゃながいので興味のある人だけどうぞ」

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戦争における罪とはそもそも
戦争自体を引き起こした背景にあるんじゃないだろうか。

戦犯戦犯というがそこまでいうなら東京裁判についてだって
もっと言及すべきじゃないか。インドのパール判事やウェッブ裁判長が
のちにあの裁判は間違いだったといってるじゃないか。

中国との問題について

東京書籍の発行する日本の教科書にこう書かれていた。

「日本の中国侵略」

1927年、中国では蒋介石の率いる中国国民党が南京に国民政府を樹立し
中国の統一を進めました。満州の日本権益を確保するため
満州を中国から分離することを主張していた軍部(関東軍)は
1931年9月18日、奉天(現在のシェンヤン)郊外の柳条湖で満鉄の線路を爆破し
それを機に軍事行動を開始しました(満州事変)。
満州の主要部を占領した関東軍は1932年3月に清朝最後の皇帝溥儀を元首とする満州国を建設させ、
実質的に支配するようになりました。
当時の犬養内閣は、満州国の承認に反対する態度をとりましたが1932年5月15日犬養首相は
海軍将校の一団により、首相官邸で暗殺されました(五・一五事件)。
これにより、政党政治はその幕を閉じました。一方国際連盟は満州事変の調査を行い
1933年総会で満州国承認の取り消しと日本軍の撤兵を決議しました。
これに対し、日本は国際連盟を脱退しました。

【東京書籍】

まず満州という国について。
満州国はもともと中国のものであるという認識を持っている人がいるなら
歴史認識が浅いと思う。
そもそも満州とは中国とは切り離された独立国家だったはずだ。

60年代ソ連首相フルシチョフは中国に対し
古来中国の国境は万里の長城であり、中国の国力がそれを越えたことはなかった。
理不尽な主張を続けるならば、それは宣戦布告以外の何物でもない
といった歴史認識は正しいといえる。

ではなぜ日本は満州にいたか。
それは日本は日露戦争勝利後
ロシアが中国(清国)から借りていた遼東半島、
ロシアが満州で得ていた鉄道経営の権利をロシアに代わって
日本が借りる条約を中国とのあいだに結んでいた。
鉄道を守る日本の軍隊(関東軍)が鉄道の敷かれている周辺に駐留するようになったのも
この条約に基づいてのことだったはずだ。
つまり正当な外交政策の基に日本は満州に駐留していたのだ。

そして中国国内で清朝が倒され中華民国が設立されると
ナショナリズムの高揚と地方政府主導による反日プロパガンダが起こる。
特に反日教科書によるプロパガンダは効果を発揮した。
当時の中国において中央政府の力はほぼ無力だったといわれるが
地方政府は日本が外交交渉で獲得した権利を無視し権利の行使を認めなかった
それが共産党の思惑と合致することとなる。

中国政府は一方的な無効宣言をだし
関税自主権、治外法権を回復する運動をはじめる。

そして当時満州でもっとも力をもつ張作霖も
条約に違反し排日運動に力を入れていました。

これは江戸幕府が西洋列国と結んだ日本にとって
不利な条約を幕府が倒れた後
明治政府が引き継ぎ50年以上も
黙って外交交渉をつづけてこれを解消した
日本にとっては納得がいかなかったはずである。

そして日本が満州にこだわらなければならなった理由は
日露戦争以降のロシアの動きを懸念していた日本にとって
満州はソビエト共産主義に対する最後の生命線であったこと。

そしてなによりも世界恐慌のなか経済的に生きのびるために
アメリカ、イギリス、ソ連はそれぞれ外国からの輸入品を締め出した。
その政策は外国と貿易をしなければ生きていけない日本にとって苦しい状況であった。
そこで満州に産業をおこし経済的な自立をはかろうと考えていたこと。

それぞれの国の思惑が錯綜し
昭和天皇はじめ中央軍部が戦線不拡大を表明する中
関東軍ははげしい排日運動に腹を立て中央軍部を無視し
張作霖を謀殺し、それを引き継ぎ排日運動をつづける息子の張学良を追い出し
満州全土を治める。これを満州事変というが

その発端となった石原莞爾を中心に起こった柳条溝事件。
この事件は多く取り上げられているが
それ以前の排日運動のなかで起きたテロ行為
中村大尉殺害事件や万宝山事件については
とりあげられず、支那事変もしかり、路溝橋事件は
よく取り上げられるが通州事件や
大山中尉殺害事件などはあまり取り上げられることはない。

つまり排日テロや工作に
ついに現場の日本人が切れたわけだ。

それこそ
「事件は会議室で起きているんじゃない!
現場で起きてるんだ!」と言った気持ちだっただろう。

そして満州国の全土を統治することに成功した関東軍
のちに日本政府は軍部や世論におされ
これを認め満州国を承認することとなる。

これが俺の歴史認識の中のおおきな流れ。
たしかに中央軍部を無視して戦線を拡大するなかで
多くの問題があったことは事実だと思うし
戦うということは相手を倒すと言うことだから
戦いを始めた時点で明確な正義はどこにもなくなると思う。

ただ何をもって侵略というかは
それぞれの解釈だと思う。

満州事変において中央軍部で関東軍の統率がとれなかったこと
は事実だと思うしのちにこの満州事変が支那事変発生時
に駐留軍の統率を乱す原因になったのも事実だ。
そのことをふまえればはっきり日本は間違ったことをしていないとはいえない。
しかしこの背景は当時の国際社会の行動基準としては
けして低いものではなかったはずである。

そして国連リットン調査団の査察、国連脱退。

これが後に欧米列強の警戒心を生むこととなるわけだが
さすがにこのままその話しに突入はできないな・・・・
松岡洋右のこととかも書きたいんだけど・・
また機会のあるときにします。

これはおれの気持ちだが
そもそも中国は自分の領土の
認識をはっきり持ってないんだ。
チベットしかり台湾しかり内モンゴルしかり・・・
ソ連首相フルシチョフの言葉こそ
正しい歴史認識だと思う。

ここまで書いてほんといろんなことが次から次へと
ひっかかってこれだけ書くのにすごい体力を消耗した・・・・

だからなにが言いたいかというと
いろんな要因あっての戦争だ。
罪を憎んで人を憎まず。
戦争における罪とは
国家間の思惑であり
決して個人にあるものではない。

POSTED @ 2005.05.18 | Comment (0) | Trackback (0)

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  • 自己紹介:1980年1月9日生まれ。どこからを趣味と呼んでいいのかは模索中。好奇心は旺盛。