• PHOTO最終更新日2010年10月11日



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Title: 恋愛観


すこし前の話しだけど。

めずらしく友達に恋愛相談をされたので自分なりにいろいろ考えてみた。

まえにおれの恋愛観はゆがんでるとなにか決定的に欠如してるといわれたことがあるけど。書いてみるとたしかにそういう部分もあるかもしれないと感じた。そういや一昨日ほんとにおれをよく知る友達にお前が興味あるのはいつもお前自身なんだよと言われたのを思い出した。

ながいので興味のある人だけどうぞ。

恋愛とは人が人に興味を持つということから始まるわけで
人が人に興味を持つってのは少なからずその相手がいままで
自分の獲得してなかった何かを持ってるということだと思う。

自分の幅とか人間性とかそういう枠を広げてくれるのは
いつも他人だと思う。他人というか自分以外の存在。

基本的に恋愛っていうのは相手が自分にないものとか自分に足りないものをもっていて
自分の幅を広げてくれたり補完してくれるからこそ
その人と一緒にいたいと思うんだと思うのであって
きっと感覚的に相手のなにかを欲していたり
補完したり補完されてなければだめなんだと思う。

でも時にその理由を無理矢理にこじつけようとする時がある。
感覚的に欲してる部分ってのは本当によく相手を見なきゃ見えない部分だと思う。

少なくとも容姿や学歴や職種とか料理ができるからとか
仕事ができるからとかなにかそういう物質的なモノに関わるところじゃなくて
もっと人間的なこと。

例えば話し方や声や話す速度。

その人がなにに怒りを感じるかとか。
なにに悲しみを感じてなにに喜びを感じるのかとか。

自分ならあきらめそうなときにそれを苦だと思わない感覚とか
自分ならもう投げ出しちゃうようなことをコツコツやる忍耐力とか
自分なら悲観的になって考え込んじゃう場面でなんとかなるよ。と笑える精神力とか

笑顔とか言葉の使い方とかモノの考え方とか。

失いようのない部分。
その人の人間性とか育ってきた環境で培われてきたモノというか
どんな場面でも変えようのないそのひと自身。

力をいれるわけでもがんばるわけでもない当たり前に持ってるモノ。

そういうものがちょうど自分のたりない部分にしっくりはまることが重要だと思う。

優しくしてくれるとか、理解してくれるからとか、話が合うからとかそういうものはそれだけじゃ失う可能性のあるモノに入ると思う。

他者に対して何かをする感覚はいつだって失いえる。
場面が変わってもいつだって適応されるとは限らない。
ようは自分自身、その人自身が自分の為にもっている
感覚こそが失いようのない感覚ということだと思う。

つまり、優しくしてくれる。愛してくれるという感覚はいつだってなくなり得るし自分次第、場面次第でもいくらでも変化しうるものだと思う。そういう不確かで曖昧な感覚だけに
自分を補完したり一緒にいる理由をこじつけるは違うと思う。

またなにか自分にできないこと。スポーツでも仕事でも
そういう姿をみて、自分にはできない!かっこいい!尊敬できるって
おもって好きになってもそれもまた失いえる部分を
好きになってるにしかすぎないと思う。

誤解があるかもしれないけどそういう側面はもちろんたくさんあるに越したことはない。

愛してくれて、なおかつ自分にできないことをしてる姿がかっこよくて
話があう。ってのはすばらしいことだけどどれも失いえるものだから
それだけじゃなくて絶対に失いようのない部分が自分の補完材料に
なっている必要があるんじゃないかと思う。

愛がなくなったら?仕事がなくなったら?話が合わなくなったら?

でもその人の表情の変化も怒るところも喜ぶところも
根本の考え方とか言葉の使い方とか呼吸は突然に失うことはない。

相手の好きなところを並べてみて

この人の持ってるこの部分は無くなりうるモノ。
この人の持ってるこの部分は無くなりようのないモノ。

そうやって残った無くなりようのないモノが自分にとって
大切なモノならまちがいなく自分にはその人が必要なんだと思う。

失いえる条件だけでは絶対に40年も50年も一緒にはいられないと思う。

目を凝らして一生懸命そのひとをみればみるほど
外側が目についてわからなくなっちゃうから

相手を目で見るんじゃなく心で感じることが必要なんじゃないかと思う。

とにかく人と人が関わって生きていくということは
楽なことではないと思う。

POSTED @ 2005.08.19 | Comment (0) | Trackback (0)

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  • 自己紹介:1980年1月9日生まれ。どこからを趣味と呼んでいいのかは模索中。好奇心は旺盛。