Title: rooster
宗教や信仰を深めていくということは、感覚の世界だ。
いうなれば感覚の共有なのかもしれない。
夕焼けを見たときの感動を人に伝えるときに、自分にできるのは、夕焼けのところまで足を運んでもらうことしかできない。
その道筋を説くのが仏法なんだと思う。
それぞれの宗派がそれぞれの方法で、同じ感覚を目指しているようなものなんじゃないかと思う。
悟りも感覚の問題なんだろう。
夕焼けを見たとき。誰かを好きになった時、なんでもいいけど、自分の中に湧いてきた様々な感覚の中の1つとして、悟った時の感覚というのがあるんだと思う。
夕焼けを見たときの感動を伝えようと、赤だとか、すごい色だとか、どんなに説明しても、それは理屈で、なんとかそこでわかった気になっているか、わかった気になろうとしているのがほとんどなんだろう。
いままで悟りなんてものは自己申告じゃん。と思ってたし、そんなの意味あるのかい。なんておもってたけど、違うわ。
その感覚がどんなものかわからないけど、そういう人がいて、対峙したとしたら、きっと自分のところと同じところにいないのはわかるし、その人の行動や言葉にすべて、自分にない感覚を味わえるんだと思う。
それが言葉が通じようと通じなくとも。
例えば、めちゃくちゃきれいな夕焼けで感動した自分と、おんなじくらいきれいな夕焼けをみて感動した誰かとは、たとえば多くを語らなくてもわかりあえるし、
きっとこの色なの?と夕焼けを見たことない人に、赤い絵の具を渡されたときに、いやいやいや!と笑いあえるんだろうと思う。
それがつうじあうということなんだろう。
いま自分の中にある感覚が信仰の中でどのへんなのかとか、わかんないけど。
いま自分の中にある、気持ちや感覚に近いものを味わったことがある人となら、目でも言葉でも、きっとこの感覚で、マンガの話をしても、宗教の話をしても、車の話をしても、ゴルフの話をしても、わかりあえるんだと思う。
きっとその人と、真っ白なキャンバスを前にいっしょに大笑いできるかもしれない。
雨の日にずぶぬれになっても大笑いできる気がするし。
これがここにあるとしたら、これはここだよね。そしたらこれはこのへんじゃない?なんて、茶碗や湯飲みや箸を机の上に並べて大笑いできるのかもしれない。
感覚をわかりあうということは、なにを話しても端々にその感覚はにじみ出るし、そこに通じた同志ではわかるものというのがあるんだと思う。
これはなんでもそうだけどね。
ラグビーやったことやったことある人たちでわかりあえる感覚を、やったことない人にはわからないし、でもやった者同士では、ツーカーでわかるようなもんだ。
感覚を共有したものどうしでわかるツーカーの感じ。
ここ数カ月で自分の中でつながった、点と点はけっこう強固で、いっこうにほどけそうもない。むしろこれであっていてくれともおもうし、あっていてもあっていなくてもいいともおもうし、あってないほうがいいかもとも思う。
味わったことないこういう感覚が、もっとたくさんあるのかと思うとたまらんと思う。三昧の境地とかどんな気持ちなんだろうか。味わってみたい。
いままで自分にとっての善知識はなんなんだろうかと考え込んだことがあるけど、おぼろげにいま思うのは、自分にとっての善知識は、この環境すべてなのかもしれない。
POSTED @ 2009.09.19 |
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