Title: 帆
いま自分の中で掴みかけてることをなんとかわかりやすく自分の中に落とそうと何度も反芻する。
それは例えば玄関のドアを1枚隔てて、内側は自分の家で、外側は外。そんで自分の家にいるときの心と、外にいるときの心は、そのドアを1枚隔てることで置き方を変えてるな。ということについて。
それは権利とか法律の話ではなくて。
物理的なそのドア1枚で自分の心は、自動的に切り替わっている。習慣のように無意識にでもそういう変換を自分自身でしているんだと思う。
でもよくよく考えてみれば、家にいても落ち着かないこともあるし、外にいてもものすごく落ち着ける時もある。ドア1枚でうまく切り替えられない時もある。
そんな微妙な揺らぎにいちいち意識は止めないけど、そもそも空間を隔てるものなんてのはないはずで、あるならそれは物理的なものではなく、自分の中にあるんだろうし、本当は、物理的な境界線で変えられる心なんてものはないはずなのに、日々、なんの疑問も持たないで、たくさんの物理的な境界線で無意識に心まで変化させて生きているわけだ。
何日か、その瞬間、その空間における自分の心の置き方というのを、ながめていると、自分の心がいかに、無意識にたくさんの境界線に触れるたびに心を変化させているかがわかる。
そんでその変化はなんで起きるのか、なんで自分の心はそこで切り替えをするのか考えてみて、それがわかってくると、逆に自分の心持ちや、意識の置き方しだいで、空間も境界もなくなって、気持ちや心を小分けに区切らなくても済むんだと思った。
そしたらなんか、いつも短パンに雪駄で歩いてるみたいに楽になった気がする。
もしかすると夏に気持ちが楽なのは、外と内の境界があいまいだからなのかもしれない。とか気づかされて、冬が嫌いで夏が好きな人は、もしかしたら自分の中に他人にむやみに踏み込まれたくないパーソナルスペースの割合が大きいのかも、とかいう推測をたてて、思考が脱線しそうになったのを流して、それはまたの機会に考えることにする。
とにかく物理的なもので、境界線や、きまりや、ルールを決めているから社会はうまく回る。でもそこで無意識に心までも変化させていて、心を小分けに変化させるということは、無意識にいろんなものを消耗しているんだと思う。
そんでその摩擦による消耗を減らすのに、環境がとか、立場がとか、誰かがとか、原因をそこにおいて考えると、いつまでも問題は解決しないんだと思う。
変化が自分以外のものによってもたらされていると思っているうちは、変化の本質がなんたるかがつかみきれてないのかもしれない。そもそも変化をしていないものはないわけで、それを変化だと受け止めるのは自分自身の問題という意味で。
逆にそこの視点を変えたら、自分の置かれた環境も立場もなんにも変わらないのに、そこにある問題を解決させることはできるんだろうと思う。原因の因は、外にはないんだと思う。最近こういう話をすると自虐的だといわれるんだけど、でも本当に苦しいことを根本から取り除こうと思ったら、いいわけできる事実なんて1つもないということを受け入れるしかないんじゃないかと思う。
わかりづらいか。
まだまだぼやけててつかみきれないけど、もう少しのような気がする。これがもうすこしつかめたら、どこにでも応用がききそうな気がするんだけど、手が届きそうで届かなくて、届いたらまたするすると逃げていく。
そういやどこかにもそんなことが書いてあったな。
今これを書き終えて席を立とうとしたら、偶然にもIpodから流れてきた歌詞が、
「あなたが誰でなんの為に生きてるか、その謎がはやく解けるように」
だって。
そういや、今週のSWICHの特集、尾田栄一郎×桜井和寿の対談おもしろかった。創る人たちの会話というのは、言葉じゃない部分でお互いを読みとって理解し合ってる部分なるんだろうなと感じた。
POSTED @ 2009.11.24 |
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