Title: よんじゅうなな。
結局は。
人は人である以上。
男も女も、老人でも子どもでも。
それぞれに見えてる世界は、自分の思いこみや、希望や、勘違いでなりたっている世界で。
大抵の場合、自分の弱い部分を否定したものが、自分の信じるもので。
自分の中の、覆い隠したいものを隠した結果が、周りのイメージであって。
怒りは、自分がぐらついている証拠で、悲しみは、かわいそうな自分に流す涙でもある。
信じるということは、裏切られたくない気持ちの表れで。
なんでもそうだ、大抵の自分の判断や、大義名分や美学や、きれいな部分にまとめられてしまうものの、ほとんどは、人間の一番きたない部分を覆い隠しただけのものなんだろうと思う。
それが、いいかわるいかとかじゃなくて。
それが根本的な事実であって。それに目を向けるか向けないかで、生き方はおおきく変わると思う。
それでもいいじゃん。それが人間じゃない。というかもしれない。
あんたのいうことには愛がないといえば、そうなんだ。
それでも、泣いたり怒ったり、人を信じたりしながら生きていくのが人間でしょう。なんて大義名分や、または、あなたはかわいそうな人だ。私は苦しみながらでも生きていくのです。苦しみながらでも人間らしくいきていくのです。
というのも、1つの妄想で。
そういう人に限って、土壇場で、自分ではないなにかに救いを求めるんだろうと思う。
でも自分の手にないものは、まず100%自分の思い通りにはならない。
それなのにおんなじことを繰り返していくんだろうと思う。
それが事実で、その現実を受け止めきれないから、いろいろな妄想でそれを覆い隠そうとするのが、人間の根源的な弱さであると思う。
これが現実。
もっともらしい理由や理屈でこの現実を、否定してもそれは、ただ自分に納得できる理由を、いいように作り上げて、自分を守っているにすぎない。
それでも、そんな人生は楽しいのかとか、周りがみんな自分のことしか考えてないのなら、そんな世界に絶望するとか、そういうものだけじゃない、中には、本当に人のことを想っている人もいるし、あなたのような味気と色気のない世界には住みたくないというなら。
あなたの世界は色鮮やかで、味気と色気に満ちてますかと聞きたい。
人を信じられないなんてかわいそうだというなら。
本当に信じられるものは、人間の弱さであって、そこに目をつぶらないことであり、相手の中にある弱さをしっかり認識しなければ、それは一方的な押しつけであり、信じてるではなく、信じたいであり、信じさせてほしいにすぎなくて、それは相手に対する過大評価だと思う。ただしいものをただしいように、理解することのほうが、よほど想いやりがあると思う。
この理屈をもって、議論をしたら、大抵の場合、相手はぐうの音もでなくなると思う。
思い描くような、世界なんてほんとうはどこにもないもん。
でもあると思いこみたいだけなんだもん。
乱暴で挑戦的な言い分だけど。自分がここにくるまでに了解した仏教のすべてはこれにつきる。
でも、現実を、ほら、これが現実だよ。あんたのそれは弱さだよ。なに言い訳してんだ、逃げてんじゃねぇ。といったら、大抵の人は、激昂するか、あいつはなにもわかってないというか。私はああはならないといって、逃げていく。
だから、その事実を相手が少しづつでも受け入れられるように、時に頷き、時に共感して、心を少しづつ溶かしながら、その時々で、相手の顔をみながら、話していくことを方便という。
まずは鹿に話してみたりして。
仏教のすごさは。
こういうことなんだと思う。
絶対に否定できない現実をつきつけたこと。
それに向き合うことに、取り組もうと考えたことも。
実際に取り組んで、危険性を十分に熟知したうえで、人に説き、説き伏せられたこと。
仏陀というのはすごいな。あたりまえなんだけど。
唯一神で片付けないということは、こういうことで、これでもかというくらいに、鋭く、そして、深い。でもその鋭さと、厳しさが、なによりも人間のことを心から思ってる証拠なんじゃないかと思う。
でもじゃあなんでそんなに現実に目を向けなきゃいけないんだってことで。
なんで妄想してちゃだめなんだってことだけど。
それについてはまた少し考えたい。
POSTED @ 2010.02.17 |
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