• PHOTO最終更新日2010年10月11日



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Title: 明珠在掌
2007.04.27


最近じゃブログも主流になってきて、昔からよくしってる友達とか、あんまり知らなかった人とか、自分の身近でもものすごくブログを書く人が増えてきた。

ほんとみんなの書いたモノを読んでると刺激になる。

一見すると現実と文章とギャップあるなぁと感じることも多いんだけど、でもこれがよく読み込んでみると、案外みんな文章ににじみ出てるものがあの頃と全然変わってなかったり、言いたいことや感じてることは全然変わってなかったりする。それぞれが年相応に色んな事を感じて、経験して、あの頃よりも語彙もふえてるし、いっぱしのセリフを並べ立てても、そいつはやっぱりそいつで、確実にあの頃にあったベースの上に積み重ねられてるんだなと思う。

こういう機会でもなかったらこの人こんな風に感じるんだなとか、いいこというじゃんとか、きっと内面を知らずに通り過ぎてしまった人もいると思うし、いつも近くにいる友達でも改めてやっぱりこの人たちと一緒にいてよかったなぁ。とかやっぱり文章は内面を十分に映し出すものだと思う。

そういう文章に触れるとなんかものすごく安心したり、思わずつっこみたくなったり、なんか嬉しくなる。
もちろんその反面、変わらないみんなに焦ったり、自分を見直したり。

ああこんなんじゃおれだめじゃんって思ったりする。

明珠在掌

ほんとに青い鳥だ。

何もかも。

自分を成長させてくれるモノや、自分を押し上げてくれる世界をさがしまわって求め回ってても

もしかしたら結局それはいま自分の立っているところなのかもしれない。


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Title: ジェネレーションギャップなんて飛び越えてやる。
2007.04.27

新緑もまぶしく日も長くなって活動できる時間が長くなればなるほどテンションが上がる。

最近、若い子とカラオケに行き「純恋歌」歌ってといわれ、しぶいね!長渕好きなの?というと湘南乃風なんだけど・・・といわれ、チェリーいいよね~という会話に横からはいりスピッツ聞くんだ?と言えばYUIなんだけど・・・といわれ、世の中は自分の思ってる以上に速いスピードで動いているんだなぁと感じる今日この頃。

しかし愛川欽也には負けてられないので生涯現役を貫けるように車ではYUIと大塚愛をヘビーローテーションで聞いてやる。

でも高校生の頃には27歳なんていえばだいぶ年上に思えたもんだけど蓋を開けてみれば意外にこんなもんなんだな。

たしかに視野は広がったし、あの頃見えなかったモノもたくさん見えるけど、でも視野が広がっただけ見えにくくなったものもたくさんあるわけで、どちらがいいとはいえないけど、でも意識して見えにくくなったところにもしっかりと目を向けられるような大人になろう。

大人になろうって・・・

もういい大人なんだけど。

そういや幼稚園にいると子ども達はよく大人になったらとか いう。

大人になったら・・・

いつから大人になったのかわかんないんだけど、でもこの年になって僕は子どもです。なんてまじめな顔でいったらはり倒される。

どこからみても名実共にもう大人な自分は、あの頃思い描いてた大人像とどれだけのギャップがあるんだろう。

あの頃大人になったらなにになる。
大人になったらこうしようとか。

思ってたことの何%がいま叶ってるんだろうか。

くそったれだと思ってたものになってみて思うのは、おれがくそったれだと思ってたのはきっとその存在や年齢じゃなくて、歩み寄ろうとしなかったり自分の経験の上にあぐらをかく姿勢に対してなんだと思った。

今になっても、英語の授業中に、学歴がなけりゃだれも相手にされないぞ。勉強もできないやつは何やっても駄目な奴だといったくそったれへ思う気持ちは健在だし、今になっても1mmだって理解したくも理解しようもない。

おれはそうはならない。

いつだって先頭に飛び出してやる。
楽しいことを目の前にして腕を組んでなんか見てられるわけない。

ペース配分くそくらえ。

すくなくともおれの周りにいる小さな目に、大人も捨てたモンじゃないなと思わせられるような大人になってやる。

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Title: 足下を確認する作業。
2007.04.20

自分の中でもまったく気がつかないうちに大切なことを見失ってることがある。

そんなときにいつも自分を見直す機会をくれるのは
やっぱり友達のなにげない言葉だったりする。

人は人によって傷つけられたり、失望したり、ものすごく腹が立ったりして、うんざりすることもたくさんあるけど、でも人によって救われたり、足下を確認できたり、また歩き出せたり、すごく強くなれたりもする。

やっぱり自分は誰か人と関わることでたくさんのことを学んできてるから
これからもたくさんの人に関わりたい。

人に何かを伝えたり、育んだりするってのは、自分の体温で世界中を暖めるような途方もないような作業だ。温度はいつだって高いところから低いところに流れる。

考え続けて感じ続けて、そのたびに壁にぶつかって、乗り越えたり、逃げたり、考えるのやめたりして。でもまた同じ様なことでつまづいて。それって大変で苦しいことなんだけど、でもそれをどこまでやめないでいることがきっと自分の体温をあげていくんだろうと思う。動かなかったらきっと体は冷えていく。

もしもこの世でおこるすべてに理由があるとしたら。

いまの自分に起きることはなにかをあきらめさせたり、挫折させるためじゃなくて、さらに前にすすめるために起きてるんじゃないかと思う。

こうやって足下を確認する作業を怠るとやっぱり本末転倒になる。
ここでやっと軌道修正。

このタイミングで自分を見直す機会をくれた友達に感謝。

やっぱりいつだって人生は青い鳥だ。

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Title: 断片的なものがつながるということ。
2007.04.19


すこし前におじさんが亡くなった。

おじいちゃんの兄弟だから普通はそんなに近くない親戚なんだろうけど、いつもお寺にきてたし、うちの親戚はみんな近いから、小さい頃から遊んでくれて、いろんなことを教えてくれて。おれにとってはほんとにおじいちゃんみたいなものだった。

戦時中は海軍に志願して出兵して生きて帰ってきて、お寺のためにたくさん尽くしてくれて、戦後は講談社の写真部にいた人で、戦争の話もおれが生まれるずっと前のお寺の話しもよくしてくれた。遊ぶのが大好きで、裏表が無くて、口がものすごく悪くて、おれもついこないだまで、幼稚園いい加減にやってないだろうな!なんて顔会わせるたびに言われてたし、死ぬ前の日まで看護婦さんを怒鳴るような人だったのに、でもいつも周りにたくさんの友達がいる人だった。

最後に50年来の友人が挨拶をしていた。

あんなにいい男はみたことがありません。
数少ない本音でしかつきあえない男でした。

本音でつきあえる。じゃなくて。
本音でしかつきあえないっていうのがなんか妙に心に残った。

自分にもこの人と同じ血が流れていると思うと嬉しかった。

火葬場で棺が釜の中に入って蓋が閉められたときに涙を流すのは、きっとそれで終わりだと思うからで、なにか自分やこの世界から切り離されたところへいくって思うから切なかったり、寂しかったりするんだと思った。

でも、なんか亡くなったおじさんを見ても、骨になっても、なんかそこにあるのは、誤解されるかもしれないけど、ただの亡骸で、ただの骨にしか思えなかった。

実感がわかないだけなのかとか、認めたくないだけなのかと思ったんだけど、そうじゃなくて、そんな逃避的で断片的な感覚じゃなくて心からそう感じて、

なんか、ああ生きてるってのは
きっと物理的なことだけを指すんじゃないなって素直に思った。

心臓が止まって、息をしなくなって、骨になっても。

おれの中に、おじさんの言葉も、顔も、声も、生き様も。

そういうのがぜんぶ生きてて、それが間違いなく吸収されてて
なんか言葉にすると安易でありふれた表現なんだけど

きっといつでも会おうと思えば会えるんだよね。
今でも。明日でも。きっとおじさんと同じ年になっても。

全然終わってなくて続いてるんだよね。

物理的には終わったけど逆にいつでも会えるじゃん。とすら感じた。

清沢満之という方の臘扇記という本の中に

われらは死せざるべからず。
われらは死するも、なおわれらは滅せず。
生のみがわれらにあらず。
死もまたわれらなり。
われらは生死を併有するものなり。

という一文がある。

はっきりいってちんぷんかんぷんで
この人の書くものはものすごく学術的なのに
でもものすごく宗教的で
すごく深くて正直難しくて

はっきりいって意味不明だったんだけど

おじいちゃんが好きだったから意味わかんないなりにも
読んだりしてみたんだけど結局いみがわからず
何度も挫折してたのに

火葬場で、この一文を突然思い出して

ああ。これってそういうことかも。って思った。

それが正しいか間違ってるかはわかんないんだけど
なんかきっとこんな感覚のことを指してるんじゃないか
って思った瞬間になんかすっと心が軽くなった。

生きるってことは、息をして、心臓が動いてるだけを指すんじゃなくてすごくおぼろげだけど意識や、観念やそういう輪郭のないものの中にこそあるのかもしれない。

目に見えるものしか信じられないのは、人間がいかに枠にとらわれて、生きるとか、死ぬとかを人間のものさしでしかはかれてなくて、生きることにしか目を向けてないからじゃないかと思った。

これを読んでる人の前におれが居なくても

きっとその人の中でおれが生きてるのと同じなように。

家のパソコンの前だろうと、トイレの中だろうと。

目の前にいようといまいと。

それが東京でも極楽でも。

おんなじなんじゃないかと思う。

そう思えば、墓や仏壇にはには魂なんかやどんないし、
ただの骨しかないわけだ。

手を合わせるのはどこでもできて、
その人にあうことはどこでもできるんだと思う。

きっと宗教ってそういうことなんだと思う。

書く言葉や言ってることは同じでも、はっと気づいたときに断片的なものがつながって自分の中でぱぁっと明るくなって。同じ言葉や文字をまったく違う感覚でとらえられるようになって、あそこに書いてあったのははこういうことか。この感覚はあそこに書いてあったあれじゃないかって。宗教に触れるってのはこういうことの繰り返しなんだと思う。

これを言葉にするのは難しいし、ましてや同じ経験をしてない人に同じように理解をしてもらおうなんてことは途方もないことだとおもう。

お釈迦様だってはじめ悟りの境地を1人で楽しんで人に説いてもどうせわかってもらえないとあきらめようとしたくらいだから。

でもこういう瞬間に立ち会うたびに、自分の中が明瞭になって。

すごくここに生まれてよかったと思う。

この文章を何年、何十年後かに読んで、きっとあの時の自分にはまだ欠片しかみえてなかったと思うかもしれないし、ああ全然わかってなかったなと思うかもしれない。

むしろそうであって欲しい。

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Title: 形容できないこともある。
2007.04.16

きっと言葉にしたら、暖かいとか、安心とか、大切とか、愛おしいとか

そういう言葉の中にあるんだと思う。

そのどれもがあてはまるのにどれでもなくて。

言葉を使っては表せない気持ちって言うのがある。

感覚でしかわからない気持ち。

きっと人それぞれ自分でしかわからない心。

その気持ちがすごく確信的で絶対的で
間違ってないってわかってるのに

それなのに曖昧でおぼろげで

ものすごい安心なのにすごく不安で

考えれば考えるほど言葉遊びで

最後には千日手になる。

きっとホントの瞬間はこういうもので

不安なのはきっと今はわからないだけなんだと思う。

きっとこれから何度も感じられるわけではないであろう気持ち。


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Title: 谷川俊太郎を読んでいて感じたこと。
2007.04.10

少し前に谷川俊太郎の本を買った。

読む。というよりはいつも手の届くところにおいておいて時間のあるときにぱらぱらと眺めては閉じ、また眺めては閉じる。

本当にこの人は言葉を肌で感じていて、楽しんでいて、気持ちがのっていて、すごく気持ちのいい言葉を書く人だと思う。自分がこういう言葉を書けるようになるのはあとどのくらい広い視野と時間が必要なんだろうかなんて思いながらいろいろ考えてたらふと思った。

詩でも絵画でも、なんでもそうだけど、芸術や創作ってのは個性を表現するモノだ。と言われればそうかもしれない。岡本太郎も爆発するくらいに個性的だし、目を見張る奇抜なデザインや独創的な言葉こそが創作であるといえばそれはそんな気もするんだけど。

でもよく考えてみると、それは人間の根本にもとからある感覚に訴えかけているもので、奇抜だけど原始的なものの現れなんじゃないかと思う。そうじゃなかったらたくさんの人が感覚的にそれを受け入れられるはずがない。

前の日記でも書いたことがあるけど、芸術とは自分の頭の中にある感覚をどこのフィルターも通さずにそのままむきだすことなんじゃないかと思う。だから有名な芸術家の多くが晩年子どもの描いたモノや紡ぐ言葉に近づきたいと言うのはそういう所からなんじゃないかと思う。

感覚的に受け入れられるモノは無駄がなくて、そんで自分とか、なにか主観を通さない徹底的に個性を押し殺したニュートラルなものじゃないだろうか。

そもそも感じるっていうことは、自分の中の経験や、感情やそういうものとなにか媒体が結びついてはじめておきることだし、決して無から起きるわけじゃない。

創作者の個性をとおした媒体じゃそういうものとは結びつきずらいけど、徹底的に個性を押し殺した中で生み出されたモノは自然と見る側や読んだ側の中にある何かに結びつくじゃないかと思う。

結局、媒体はなんでもいいけど、そういう外的要因と自分の中の既存の感情や経験が偶然にぴったり合わさるってことをインスピレーションと呼ぶんじゃないかと思う。

それを生み出す要因は、ニュートラルでいて、力まずにいて、だれにでもあるものをスムーズに表現することで、それができる人を芸術家を呼ぶんじゃないだろうか。

これはきっと書くことにも、撮ることにも、描くことにも、ぜんぶに通ずるんじゃないかと思う。

つまりはこれを見ろ!これを感じろ!おれはこう思うぜ!っていう主張でなにかを伝えようとするんじゃなくて、その媒体が、言葉でも写真でも、彫刻でも絵画でも、それが受け手のなかにあるものに結びついて、

それが受け手の中からあぶり絵みたいに感情を浮き彫りにさせる。

だから人は芸術に心を揺さぶられるんだと思う。

そしてそれをできるってことが芸術を生み出せる人間の優れた点じゃないかと思う。

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Title: ほんや。
2007.04.08

久しぶりに本屋にいった。

本屋のシステムがどうなってんのかわかんないんだけど、本屋も結局小売店なんだしそれぞれ特色だしてもいいはずなのに本屋ってのはどこも同じだなってずっと思ってたんだけど、最近は個性のある本屋が増えてきた様な気がする。

本屋にいるとほんと気づくと1時間なんて軽く過ぎる。そんで本を買うってことは、ものすごく贅沢で有意義な気持ちになる。本を買う時にこそ、人生は無駄にこそ意味があるんだと感じることができる。

無駄か無駄じゃないかの判断はきっと、生活や日常に必要か必要じゃないかってことで、無駄遣いかどうかってのはきっと自分にしかわからない基準なんだと思う。などと今日の本を買うにはあり得ない出費を自己肯定する。

日常生活には谷川俊太郎も廃墟の写真集も、アラーキーも必要ないけど、時にふとたちどまったり、空を眺めたり、電気を消して真っ暗な部屋で星を眺めるみたいに、

明日には関係ないけどそういうものに触れることで培われる心こそが、きっとここ一番で折れない心だったり、痛みを分かち合える心だったり、前にでる力を育んでくれるんだと思う。

必要ないけど必要なことが人生に彩りと広がりをくれる。

しかし谷川俊太郎の言葉はほんとうに気持ちがいい。あんなに言葉を楽しんで、言葉を感じて、言葉に自分をのせられる人はいないんじゃないかと思う。あんな風に感じて書けたらどんなにいいだろう。あんな風に書けるようになるには、あとどのくらい広い視野が必要なんだろう。

こんな詩がのっていた。

空が愛おしい 空を抱きしめたい
自分はこんなにちっぽけなのに。

本当に切実な言葉だと思う。


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  • 自己紹介:1980年1月9日生まれ。どこからを趣味と呼んでいいのかは模索中。好奇心は旺盛。