Title: 玄鳥至
惜しむ間もなく潔く。そして最後の最後にその散りざまにまで美しさの余韻を残していく。日本人が桜に理想の生き様を重ねる理由がよくわかる。
あっというまに葉桜の季節。さっそくツバメも飛んできた。
幼稚園では始業式に入園式も終わり、月曜日からは戦場さながらの大騒ぎになるんだろうな。さぁ今年も新学期が始まる。今年もたくさんの発見と感動と反省に出会えたらいい。
今年はたくさん外に出よう。
昨日砂場で遊んでて思ったんだ。砂場で繰り広げられたあの遊びには自分の好きなものが全部つめこまれてる。
なにつくろうか。から始まって。お団子作ろう。もっと水入れたほうがいいよ。水はこれに入れてこよう。できたらなににいれようか。竹の器を使おうよ。したに桜を下に敷き詰めようよ。お団子の中にもこっそり桜入れよう。できたら誰に食べてもらおうか。今度はお山作ろうよ。上からこのお団子転がしてみる?じゃあちゃんと道をつけようよ。じゃあここでジャンプさせようぜ。いや甘い。ここは竹を使った方が絶対によく転がる。
なんてことを砂だらけ泥だらけになって4歳のこ5歳のこと真剣に議論して、みんながそれぞれ自分で役割をみつけたり、それなりにもめたり、妥協したり、みんなで誰かに賛成したり、シャベルをとり合ったり、それをジャンケンで解決したり。
ほんの1時間の砂場の遊びだったけど。久しぶりにもんのすごい楽しかった。PS3やDSなんかよりもものすごい充実感あった。
なにが楽しいのかといえばわかんない。なにかは。でも楽しむっていうのはそういうことなんだと思う。楽しいことを選んでするんじゃなくて目の前のことをいかに楽しむかで、楽しいは自分の気持ちなんだと思う。
その辺は娯楽の全くない中高でいかに楽しむかにだいぶ苦心したおかげで培われたものもあるのかもしれないけど。
いつの間にか楽しむは選択するもので、楽しむは誰かやなにかがもたらしてくれるものだと思いがちになっちゃうけど。楽しいはどこにでもあるわ。
そう考えたら食べるのもそうかも。おいしいものをたべるのではなく、いかにおいしくたべるか。そこに苦心しなきゃ心の底からは満足なんてできないのかもしれない。
最近芝生の手入れや、土をいじることが多くなって、いままで自分はそういうことは向いてないと思ってたんだけど、けっこう向いてるのかもしれないと思う。それか年をとったからかもしれないけど。
なんかいろんなことにこぎれいになるのはもうやめたい。もともとこぎれいじゃないでしょ。と言われそうだけど・・・
地べたに座って土いじったり、砂だらけになるのは、ものすごく肩の力抜けて、その感覚はなんかアジアを旅するのに似てるのかもしれないけど、どこにも力がはいらなくていい。
そんなことを帰りの車で考えながら走ってたら、うちのかわいいIPODのシャッフルででてきた選曲がこれでもかというくらい心にグッときて、Geniusにもほどがあるぜ。と思った。
人間らしくありたいなんて。それは人間の台詞じゃないだろ。
僕らしくなくても僕は僕なんだ。君らしくなくても君は君なんだ。
今度のがNo,1だろ。
ヒロトはすげぇなやっぱ。なんなんだろう。この心のやわらかい部分ををわしづかみにして、頭をがつんと殴られるような感覚は。なんだかわかんないけど。すげえ。やっぱすげえ。
感性というか感受性というのは、研ぎ澄ましたらどんどん研ぎ澄まされていくと思うし、研ぎ澄まされたら、いままで感じなかったことや、見えなかったものがたくさん見えるようになるんだと思う。でもそれはきっとどこかでそれを遮断して、研ぎ澄ますのをやめないといけないラインというのがあるんじゃないかと最近思う。
しかしこうあったかくなってきたらどこかへ行きたい衝動がむくむくとわいてくる。今年こそ知覧にはいきたいし、電照菊もみてみたいし。夜行ものりたいし。とりあえず南か。
POSTED @ 2009.04.11 |
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