Title: 史実というフィクション。
後悔するぐらいなら、言わなきゃいいのにとか思うものの、でもきっとこれから先も後悔してでも言わずにいられない自分とつきあっていかなきゃいけないわけで。
これが自分ですからね。というしかないもんね。
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その人と話したり会ったりすると、自分の中にある言葉とか断片的だった点がつながって、自分の中で思いもつかなかったところへ結びついていけるような人がいて。そういう人は自分にとってすごく重要だったりするわけで。でもじゃあその人はなんなんだといわれれば、自分の頭は既成概念の中から一番近いものを探そうとするんだけど、おもうに、人と人との関係において、同じものはどこにもなくて、それこそ大きくカテゴリー分けしてしまうことで本質を見失ってしまうものの1つじゃないかと思う。
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人間は理解不能なものにしか感情や心を揺り動かされないんじゃないかと思う。いうなれば、自分に近い相手に興味を持つということも、同時にその相手の中に、理解しきれない自分自身を見ているからなんだろうと思う。
ただその揺り動かされた感情が、愛情なのか、、畏怖なのか、尊敬なのか、そのカテゴリー分けも同じで、その感情のカテゴリー分けにしたがって、関係や呼び方を決めてしまうということは、よくよく考えればなんてもったいないことかと思うし、それぞれは紙一重で、どこにでも転がりうるものであると思う。
これが言葉のデメリットであり、限界でもあると思うし、自分の足を引っ張る大きな要因でもあるんだと思う。
好奇心が湧くというときにそこの根底にあるものはきっと理解不能であり、理解不能な感覚を自分で楽しむということが好奇心の根底の部分になんだろうと思う。
自分がだれかに興味を持つ時には大抵、相手に投影する自分への興味がそうとうな割合で含まれてるんじゃないかと思う。
子どもをみていてもそうだし、親が興味を持って、感情が揺り動かされるのはきっと理解不能だからで、理解できてしまうものに人間は本気にはなれないんだろうと思う。
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その人はなんでそんなことをいったんだろうとか。なんでこの人はこの人と付き合っているんだろうとか。なんでこのタイミングでこういうことを言ったのだろうかとか。
誰かを見ていてそこにある要因を何度か反芻しながら線でつないでいくと、小さな言葉の使い方や、行動や、物事の考え方とか、そういう要因の1つ1つがきれいに結びつくことがあって、そこからこすり絵みたいに、浮き彫りになってくるその人の人間性や方向性を一個一個掘り下げていくことではじめて見えるものがあるなと思う。
そういうものが見えてくると、人と関わることはやっぱりおもしろいなと思う。
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皮一枚ひんむいたらみんなぐろてすく。
とある人のブログに書いてあって。そういう感覚を持ってるか否かっていうのは大事なことだと思った。
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切り口として、念仏と祈りを結びつける方向性は間違っていないんだと思うんだけど、でもそれは決定的に違っていて。
それがなにかと説明を求められた時に、真宗的にいうなれば、「如来よりたまわりたる信心」ということだと思うわけで、じゃあそりゃなんだと、その感覚をもっとかみ砕いて言葉で伝えるには、まだまだ自分には、言葉に体感が追いついてなくて、なんて説明していいかわからない。
こういうときに、自分は仏に出遭うのかもしれないと思います。
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みんながいいというと、そうじゃないものの中に理路整然とした価値を見いだしたくなるひねくれた性格なので、なんか相手が真っ向からであればある程、大勢であればある程わくわくする自分がいるわけで、でも最近、これはすこし直した方がいいと思うことがある。
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みんな一緒にありたいと思うのは、ただ自分が安心したいだけで。
はなから平等なんてどこにもない。
生まれた瞬間に優劣にさらされてて、人間は口ではなんとでもいえるけど、優劣をちゃんと判断してからじゃないと行動できない生き物だと思う。
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いい感じの疲労と寝不足でふわふわとしたところに湧いてくるものに感謝。
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言葉でこうやってなにか悶々と書くのも好きだけど、これはあくまで備忘のためであって、やっぱり会話しながらいろんなものがつながりつながってくる感覚を得ることは、自分が生きていくうえでの優先順位でかなり上の方にあるなと思う。
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ああねむ。
POSTED @ 2010.04.07 |
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