Title: だれのせいでもない。
思い残すことはなかったと思います。というのを聞いて、
きっと自分は、
やりのこしたことはないか?ときかれたら、
あれもこれもやりのこしてるとおもう。
でも、
きっといま思いつくあれもこれも全部やっても、
また、
やりのこしたことはないか?ときかれたら、
またあれもこれも思いつくんだと思う。
そんできっと、やりのこしたことだらけで死んでくんだろうと思う。
でも、そのほうが中途半端な自分らしくていいと思った。
*
自分がいいなと思える人の多くは、きっと自分の弱さを素直に認められる人か、それを絶対に認めない人のどちらかなんだろうと思う。表と裏くらいに両極端でも、そこにあるベクトルはまったく同じ方向を向いてるんだと思う。
*
性善説か、性悪説、どっちだと思います?と聞かれて。
昔からことあるごとに考えながらもそのまま放置してたけど。
なんとなく最近思うのは、
人間のむき出しの欲望とか、抑えきれない感情をむき出しにすることは、人間本来もちうることで、創造も破壊もどちらの動機付けも自分の中に抱えているのが人間で、それを理性でカバーしながら生きていると思う。
でも、そもそも人間のむきだしの欲望や、感情のままに他者を排する行為も、それが必ずしも悪かどうかは分からない、子どもたちを見てれば思うけど、むき出しの感情で他者を傷つけたり、自分の主張を押し通したりすることを悪だと決めつけることはできないし、その経験がなければ、人は優しさもいたわりも、慈しむこともわからない人になってしまうかもしれないし、どうしても他者を排さなければいけない時もある。
なんかまだごちゃごちゃしてるけど、
いうなれば、性善説も性悪説もどちらでもなくて、両極端に答えを求めること自体が本質とはずれていたのかもしれない。
そもそも善にも悪にも定義がないのに、本来から備わっているのはどちらかという問題に取り組むこと自体が間違ってたかもとか思う。
つばはいてゴミ箱蹴っ飛ばしたあとに、花を水をあげるようなもんで。
どっちが先に備わった感覚ですか?って。
そんなのはどっちでもいいのかもしれない。どっちが先かよりも、そのどちらもが自分の中にあるということを知っておくことが大事なんじゃないかと思う。
人間の中にあるものは、0とか1とかじゃない。
0でもあるし1でもある。
*
ごちゃごちゃとまとまらないものを、そのままだしてもいいんだと思う。
それをちゃんと紡げる人がいると思う。
そういうのが得意な人が。
*
たいした理由なんてないよ。なんて言ってみるものの。
なにかにとらわれたときの自分の思考のなんと閉塞的なこと。
簡単に深みにはまる自分を嫌というほど体感として感じるたびに、
腑に落ちていくことが増えていく。
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昨日から鼻水がとまんない。
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POSTED @ 2010.05.19 |
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