Title: 法縁
自分の中で一つ答えが出たので、やっと文章にできる気がします。
すこし前に身近な人が亡くなりました。
身近っていっても実は名前も顔も知りません。
でも間違いなく自分の手の届くところにいる人でした。
mixiとは別にもう1つGREEというのをやってます。
その中で 6月くらいに突然メッセージをもらいました。日記を見てくれてそれに対するコメントと感想がすごく丁寧な言葉でかかれていていました。
その人は48歳の女の人で病気で入退院を繰り返しているそうでした。日記を読むととても前向きで明るくてとても入退院をしてるなんて思えないくらいのエネルギーがある人だなって感じるくらいでした。
はじめは読んだ本のこととか、日常のこととか、娘さんの話とかそんな短いメールをやりとりしてました。
ちょうどお盆の時期に自分の家がお寺であることを伝えたら長いメールがきました。
そこには
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元気がうらやましい。私もパワーもらいたいです。病気と無縁な生き方ができるようにしたいです。
与えられた課題が何か。どんな時も冷静に考えるのはつらい時もある。まして体がつらい時は自分の事でいっぱいいっぱいで。この世に生まれてきたのは修行のため?楽しむため?RYOさんはどう思いますか?お寺さん的には死後はお釈迦様の所に行くのですか?
■
こんなことが書かれていました。
このメールをもらって正直自分がなにを伝えられるんだろうと思ったしなにをどう伝えようかものすごく迷ったけどものすごく時間をかけて自分にできる限りの気持ちで返事を書きました。
最後にちゃんと伝えられたかわかりませんがもっと勉強してしっかりと伝えられるようになったらまたメールしますと書きました。
そのメールにその人は
私も今をしっかり受け止めて感謝していきたいな。
生きている不思議死んでいく不思議 。
という一文とともに
でも何が何でも死にたくないと言う強い信念は絶対必要です。
と書かれていました。
おれが書いたことは死んだら極楽にいけますよとか。いまに意味はありますよ。なんてことは書きませんでした。
一言で言えばいかに今をみつめるか。いかに今を生きるかということを書きました。どちらかといえば抗うことよりも受け入れることを伝えました。おれがいうのもおこがましいのはわかってます。でも自分の思う限り感じてきた限り、少なくとも人の生死に近いところで27年間育ってきて感じたことを伝えました。
正直自分の伝えたいことがしっかりと伝えられたのか。伝えるべきことはあってたのかものすごく気になったし、なによりも文字でなにかを伝えるということはものすごく怖いことだと感じました。
そんなやりとりがあってそれからもたまにたわいもないことでメールをやりとりしていました。
そしてつい先日その人の日記が更新されました。
題名には「娘です」と書かれていました。
■
本日、10月16日
10時22分
お母さんは亡くなりました。
たったさっきのことです。
私は母に頼まれた訳でもないのですが
たまたま一昨日、危篤状態の時に母の携帯をかまったところ
グリーをやっていることを発見しました
みなさんからの励ましのコメントも見れない状態になった母は、
もうすぐ最後だから…
と声にならない声でしゃべっていました。
私はみなさんからの励ましのコメントをお母さんに一言ずつ伝えてあげるべきだったのでしょうか。
お母さんは私に
「大好きだよ」と言ってくれました。
多分皆様のことも大好きでしょう。
母の日記、前向きな姿勢にはとても関心しました。
皆様も病気に負けずに頑張って下さい。
お母さんも何よりもそれを思っているはずです。
また更新しますー…
お母さんは笑っています。
きっと天国から家族をはじめ、皆様に向けての笑顔だと思っております。
■
この日記を読んで。
いままでやりとりをしたメールを読み返してみました。
読んでみてものすごく後悔しました。自分の手の届くところにいて少なくとも自分になにかを求めてくれた人に自分はなにかを伝えられたのかとか。そのメールで少しでもその人が楽になれたのかとか。
自分で送ったメールを何度も読み返したけどいま思うにあの時その人が聞きたかったことはおれの書いたことではなかったような気がしてなりませんでした。
宗教というものを扱うというのはものすごくジレンマの中に立たされることがあります。
その人の求めてるものが必ずしも教えや教学にはかかれていなくてもそれを言葉にして伝えてもいいんだろうか。 死に際してその人が信じているものにそれは違いますよと伝えることが必ずしも正しいとは限らないんじゃないだろうか。
きっとあの時。
死んだら極楽にいけますよ。
でも生きることには大切な意味があります。
死にたくない!って強い気持ちでいないとだめですよ。
がんばってください!!!
というべきだったのかもしれないと感じたし、ものすごく自分の無力さに悲しくなるし、本当にこのままでいいんだろうかと感じた。手の届くところにいる人だけでもなんていいながら本当は自分の手の届くところにいる人さえ守っていけないのかもしれないと思った。
自分が伝えた言葉でその人がすこしでも楽になれるなら、その時を救えるならそれはそれで大切なことかもしれないと思った。
そのときにその人にあう言葉を選んで伝えられる力がもっとほしいと思った。
◆
この文章。ここより前はその当日に書いたものでここで終わっていました。
その日からいろいろ考えました。
ここから先はそれから感じたことです。
自分の伝えたかったことのどれくらいがその人に伝わったかどうかはわかりません。 でも自分の答えたことは自分がいままで感じた仏教、宗教のすべてです。
きっとあそこでおれが自分の判断で極楽にいけますよといって。
生きることに意味はあります。強く生きたいと思っていれば大丈夫です。
がんばってください!!
といってしまったら。
きっと新興宗教とかわらなくなってしまうし、なによりもおれの言葉でその瞬間を救えてもきっとそれは救われたことにはならないんだと思います。
自灯明法灯明という言葉があります。
自らをともし火とし法をよりどころとする。
自分にはだれかを救える力はありません。一瞬でも自分の言葉で誰かを救おうなんてことを考えてしまった自分はなにもわかってなかったと思いました。
自分にできることは立ち止まらないこと
たくさんのことを感じること
自分の生き方をしっかりと法や知識と照らしあわせて非僧非俗の立ち位置を忘れないことだと思いました。
とまったらそれで終わりなんですよ。
この法縁を大切にします。
前に前に。
POSTED @ 2007.10.22 |
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