Title: 感覚的に。
昨日の夜の外の空気がすごいよかった。雨上がりの湿気をたくさん含んでて冷たくなくてすごくいいにおいがした、気持ちよかったからすこし遠回りをして夜道を散歩してかえった。
ここのこと久しぶりに色んな友達と話す機会があってほんと今週はいい刺激をもらえた。やっぱり頭も心も体も使わないところは自然に衰える。たまには色んな所動かさないと動きが悪くなる。逆に使えば使うほどそこは自然に鍛えられる。
気づいたら見事にワイシャツの第1ボタンがきつくてしょうがないおれの首みたいに。
ここ数年で学んだこと。
人を見るときに、身なりや話し方や履歴書に書いてあることや、ゴールド免許や優秀な成績なんて、ほんの一欠片の参考にしかならない。
そういうものの価値で悩み始めた瞬間に判断を誤りがちになる。
最後はほんとに自分の感覚だと思う。
感覚というものの大切さをほんとに最近感じる。
普段あんまり意識しないけど人間は感覚に支配されてて、感覚は人それぞれ違って、そんでこれは説明のしようがない。
説明できないけど嫌とか
説明できないけど好きとか
誰かになにかをそういわれたときに
それがものすごいわかる場合と
全然わからない場合がある。
それが感覚だ。
子どもの絵をみてても思うことがある。
そのモノ自体には意味はないのに。
ああこれ好きだなとか感じることがある。
説明ができないけど、ああこれ好きだな。って。
人間なにかを判断するときには最後はそれを信じるしかないんだと思う。
それって、痛いとか、こわいとか、そういう自分の身を守るために備わってる本能的な感覚みたいに、いままでの生き方の中で間違いなく自分に必要だから備わってるものだと思うし、今の自分を最後に守ってくれるものなのかもしれない。
これはいつだって刻々と変化してるとおもうし、生き方次第でどんどん変わると思うし、あの時そうだったからじゃなくて、いまここ、この瞬間の気持ちが大切なんだと思う。
そう考えてみると、絵画や彫刻で言えば、万人が持ちうる潜在的で本能的な感覚をそのまま形にできるひとがきっと天才と呼ばれる人達なんだろう。
普通はアウトプットするときに、変化したり違う脳の指令がまざって摩擦のないまま出せないところをきっとそういう人たちは自分の中のそういう感覚を外に出すときに、、どこにも引っかからずにだせるんだと思う。だから潜在的に万人が、なんかわかんないけどその絵にほっとしたり、彫刻に心揺さぶられたりするんだと思う。
なんか文章にするとどうも思い通りに伝わってないようなきがする。文章力の低さがもどかしい。
しかしこんなことをもちゃもちゃ考えてるときに
アメリカの友達(バロン)がメールの中で
絶妙なタイミングで
「ちょっと、ちょっと、ちょっと、欧米か!」
とつっこんできた。
付け焼き刃のくせにこれが完璧なぐらい絶妙でちょっとむかついた。
POSTED @ 2007.02.24 |
Comment (0) |
Trackback (0)