Title: うちあげはなび。
もし自分が今この場で、いきなりかき消えたとしても、きっと明日から世界は何事もなかったように回っていくんだろうっていうことがすごく嫌だったし、それがすごく怖い気がしてた。
でも今は、ここで自分がかき消えたとしても、明日からなにごともなかったように回る世界でよかったと思うし、そこで生きてることを幸せと呼ぶんだと思えるようになった。
きっと言葉やロジックでこの心境の変化を伝えることはできないと思うし、いつ消えてもいいんだということではないんだけど、簡単にいえば、世界は思っている以上にたくさんの要素で成り立っているんだなと思ったら、すごく楽になったということ。
世界を変えてやるぜなんて、意気込んでいるうちは、きっと世界は変えられなくて、でも世界なんてその気になればほんとはいつでも変えられるんだということ。
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人から言葉を送られて思うのは、言葉をもらうと、その言葉にその人の生き方がのっかってるきがして、言葉を贈られると、そこにその人の生きてきた道の欠片みたいのが見える気がする。
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俳句を詠む気持ちがわかった。というと変だけど、なんとなくああ俳句いいかも。と思った。
例えば30を目前に、自分の進むべき道や、方向に悩んでいて、どうしょもないとして(自分はそんなことは全くないけれど)その気持ちを、酒を飲みながら、いやぁおれさぁもうすぐ30なんだけど、もう正直道とか悩んじゃってさ~どうしようかなぁ~お前はどうすんのよ人生?
なんていう言葉を、ぶちまけるんじゃなくて、
例えば、
初霜を 踏みし 我が歩の ゆくすえぞ
とか、朝の庭で、その短い言葉の中に、また季語を踏まえて、その中に自分の心情をぴったりとくるように頭ひねって、それを詠むなんて、なんて素敵なんじゃないかと。
それに、それを詠まれたほうも、
落葉の 木々に 芽吹きし 春の音
な~んて詠み返しちゃったりして。
そんな数行のやりとりを、しながらお互いの心を察し合うなんて、なんて素敵なんだろう。
無駄なものをそぎ落として、しぼりだした一滴の美学。
明智光秀の時世の句に、下の句がなかったと聞いた、利休が、光秀殿のわびさびは、そこまで極まっていたのか・・・という場面を思いだした。
いかに少ない言葉で、心情をぴったり表現させるか。
日本のそういう控えめでいて、感じ取る力を必要とする文化のよさをもっともっと肌で感じたい。
誰かを想って一句詠んだりしたい。
忍ぶっていう文化はいいなぁ。ほんと。
POSTED @ 2009.12.02 |
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