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Title: 6Pチーズ
2008.03.28
かなり昔から。 朝ごはんこれだけでもいいくらい。 そんな6Pチーズを今日も食べていて。 なんか違和感感じました。なんか食感が違う。こうなんていうか濃厚さというか・・・ そのとき気づきました。 あ。 薄くなってる。 絶対薄い。 もう何年も6Pチーズを食べてきて体で覚えている食感が間違うはずがありません。 ふと箱を裏返すと。 「内容量を25gから20gへ変更します」の記述が・・・ ああ。 こんなところにも原油価格高騰の波でしょうか。 値上げするくらいなら内容量ダウンですか。わかります血のにじむよな企業決断。 でも6Pチーズの魅力なんですよ。 あの厚さ。 あの食感。 歯形がつくような断面。 はやくもとの厚さに戻ってほしいです。 I'll be backといってほしいです。 | コメントを書く (0) | Trackback (0)Title: 小春日和。
2008.03.27
「三寒四温」寒い日と暖かい日が繰り返して春になる。この時期がそういう気候なのは昔から変わらないんだな。何十年何百年も。しかし昔の人はうまいこという。 さくらが咲くっていうだけで嬉しくなる。さくらが咲くだけでなんかどきどきするしわくわくもする。こんだけ感情に直結して直に心に揺さぶりをかけてくる花は他にない。 早速さくらをみにいつもの散歩コースで上野へいった。 満開のさくらをみながら。やっぱ死ぬなら春か夏がいいなと思った。冬にだけは死ねない。 ついでに久しぶりに上野動物園も散策。久々にはいった動物園はなんか懐かしい感じがした。なんか遺伝子に刻まれているというか。小さい頃からおばあちゃんやひいおばあちゃんに何十回もつれてこられてるからだろうか。はっきり覚えてるわけでもないのに、でも頭のどこかでところどころこびりついて消えない光景があったりする。 建物や施設やみためがいくらきれいになっても。そこに集まる人の気持ちや憩う人たちの種類が変わらない場所っていうのがある。 銭湯とか。上野公園もそうだし。動物園も。 いまでも孫の手を引くおじいちゃんおばあちゃんがいて、子どもをつれた若い夫婦がいて。そこらじゅうでヨチヨチあるく子どもがいる。 きっと十年二十年前もおなじ光景だったんだと思う。 そこに集まる目的。そこにあつまる人の種類が変わらない場所っていうのは、きっとそこに人が生きていくうえでほんとうに大切なことがあるからなんだと思う。 最近は建物やみためが変わって、たしかにきれいでおしゃれでそれはそれでいいんだけど。でもそこに憩う人の種類がかわったり、そこにあったはずの光景がなくなってしまった場所がたくさんある。時代の流れといえばそれまでだけど。 大切なのはやっぱり。目に見えない部分をいかに守れるかでしょ。 そんなことを考えながら動物園をふらふらして。いろんな動物をみていて思った。 動物園にいる動物は幸せか不幸せか。 これはきっといろんな答えがあるんだろうけど。この答えに即答できない時点で幸せとはなんなのかとか。生きていくっていうことがどういうことなのか自分がぜんぜんわかってない証拠なんだと思った。 まだまだわからないことだらけだと思った。そこらじゅうに自分のわからないことが転がっていると思った。 ちょっと話がずれるけど、こないだスカパーがみたくてお店にいったらお店の人にアンテナ立てればみれますよといわれた。 その時おもったのが、目に見えないところで自分の身の回りには電波がいりみだれてるわけで。携帯の電波にラジオにテレビに無線に。もうそれが全部見えたらこんがらがってぐちゃぐちゃなくらい入り乱れているだろうに受信するものがなければなんの意味もない。 なるほど。電波じゃなくてもそうかもしれないと思った。 自分の身の回りにはきっとありとあらゆる出会いや情報や、自分の五感を刺激してくれる発見であふれているかもしれない。 でもぼけ~とつったててもなんにも受信できない。アンテナをたててはじめていろんなことを受信できるんだきっと。そういわれてみればそういう経験はたくさんある。 たとえば真宗というアンテナを立てて歩いていると一つ一つの出来事や風景にそういうものを発見することができるし、そうじゃなくてもなにかアイディアを煮詰めながら歩いていたらふとなにかをみてひらめくこともあるし。 思考というのは答えをだすことよりも頭の中にいつまでもとどめて練り上げて発酵させていくぐらいの心持ちの方がいいのかもしれない。 そしてなによりも大切なのはちゃんと自分でアンテナを立てておくことなんだと思った。 そんなことをつらつら考えながら帰宅。 さっそくDSでシムシティ2をしながらおれならいい街をつくれるとぶつぶついいながら街づくりをする。そしてそれに飽きた頃にやっと1巻を借りることができた「HEROES」をみた。 うん。おもしろい。 まぁ一つだけ気になるのがヒロナカムラとアンドウの日本語。特にアンドウの日本語が下手すぎるのと日本の描写があまりにもチープでおもわず笑いそうになります。所詮日本のイメージなんてそんなもんだよね。 でもこれなかなか面白いです。 ヒロナカムラいい味出してる。あのキャラがいなかったらおもしろくなかったかも。 さてさっそく今日は続きをみよう。 | コメントを書く (0) | Trackback (0)Title: かるくこなせるってのはかるくこなせる程度の中身しかないってことだ。
2008.03.22 なにごとも。ずっと上に高めていこうとおもったら。ある程度まできたら一回ぶっ壊さなきゃだめなんじゃないだろうかとかずっとおもってたけど。 それ間違いない。 確信した。 ある程度までできるようになってしまうと。力をいれずにできるようになるし、そのうち無意識でもできるようになるけど。 でもそうなったらその方法でたどり着ける限界なんだと思う。 ある程度のレベルになってこなせるようになると、もう十分だなっておもってしまうし、それがその位置でも十分人並み以上にできてしまったらなおさらたちが悪い。 なにごとも。 できる。わかった。なれた。 と思った瞬間に実はなんもわかってないしこれ以上は成長できないって証拠だわ。 なんでこんなふうに思ったかということを書こうとおもったけどものすごくながくなりそうだからやめておこう。 でもこれ間違いない。絶対だ。 自分の身をもってああ、間違いないって確信する瞬間の感覚をひさびさに味わった気がする。 一回ぶっ壊してまっさらな気持ちで望みます。 目をつぶってしきりなおします。 まえにまえに。 自分の言葉はどこにある。 言葉は飾り物ではないです。 言葉ってのは滲み出して絞りだして。 なぞるものでも。心をこめて音読するものでもないです。 それをわすれたら腐っちゃう。 かるくみてたら。かるい言葉しかつかえないようになる。 かるくこなせるってのは。かるくこなせる程度の中身しかないってことだ。 だいじなのはかたちのないぶぶん。めにみえないぶぶんを軽視しないことなんだと思った。 ■ 自分のいちばん大切にしたいことは。 感じることと。それをもっともらいい表現にしないことです。 できるだけ摩擦をすくなくして表に出すことです。 そうやっていきていきたいです。 それが生き様になれたら幸せです。 こんやはつきがきれいだ。 Title: おひがんはいります。
2008.03.16
みなさんたまにはお墓参りでもいかが。 暑さ寒さも。 こないだの大雨を境に急にここちよい気温になった。 ■ お彼岸の法話の原稿もまだ書き終わってないのに、ひたすらDVDみて現実逃避。いやぁ北八先生おもしろいなぁ。劇団一人最高だな。 こないだ借りた「大日本人」は・・・すこし残念だった。途中まではなかなか深くて伝統とか文化とかそういうものを考えられそうな流れだったのに・・・落ちがね・・・きっとおれのレベルがまだまっちゃんに追いついてないんだきっと。 ■ 今年夏に最南端を目指そうかという漠然とし旅への欲求がむくむくわいてきた。気候のせいだ間違いなく。あとは時間と後ろめたさとの戦いに打ち勝つだけです。いくぜ最南端。 ■ 「ほんとの瞬間はいつも死ぬほどこわいものだから逃げ出したくなったことは今まで何度でもあった」 ほんとの瞬間はいままでたくさんあったのに。いろんなことができるようになっていろんな経験をしていくなかでどうやらほんとの瞬間を感じるということににぶくなったみたいだ。 最後にそれを感じたのはいつだったか。 焼肉かけてフットサルの試合をしたとき以来か。。。 終わらない歌を歌おう。声を大にして。 ■ 「信心」とはなにかということを考えいてふとおもった。 信じるという言葉。それを使う場面ではそれは100%の確信がないときだ。むしろ多少なり疑う心があるときにしか出てこないんじゃないだろうか。 あなたを信じる。明日が晴れると信じてる。信じるは希望的観測にすぎないんだろうか。信じているという言葉は自己暗示みたいなものなんだろうか。 100%の確信があるときに信じているは使わない。 間違いなくここは地球だというように。 ここが地球だと信じてるという人はいないはずだ。 疑いようのないものには断定をつかうはずだ。疑いのあるものにしか信じるを使わないんだとしたら。 一体信じるとはなんなんだろうか。 信じるというものにはまじりっけがないとなりたたないのだろうか。信じるは逆説を抱えた単語なんだろうか。でももしその疑心もひっくるめたものが信心だとしたら信心は純粋なものではなくなるわけで。まじりっけのない信心に結びつくためには確証のある何かが必要なんだきっと。それは脆弱な自己なのかその自覚なのか。 そもそも疑うから信じるのか。信じるから疑うのか。 深みにはまって言葉遊びをはじめたらそれはそのまま宙ぶらりんにして放置するということを学んだので、もう考えるのやめた。 これこそえぽけーです。 うっすいカルピスのんでお風呂でお坊ちゃま君でも読もう。 ともだちんこ。
Title: くだらなくていいんだって。
2008.03.10 むだだって。 意味ない意味ない。 くだらない。 しょうもな。 馬鹿じゃないの。 でもそこに人生かけたら。 ちょうかっこいい。 ちょうたのしい。 いみのあるものだけがかちじゃないですよ。
Title: 雀始巣
2008.03.09 久々にマック(マクド)にいった。友達はやっぱポテトは揚げたてが一番うまいなぁと言ってたけど。やっぱポテトはレジから席に持っていくときにつまみぐいする1本が一番うまいと思う。 ■ 家族というのは。時にわずらわしく。時にせつなく。時に嬉しくもある。しかし切っても切れないつながりというものほど厄介なものはない。家族のあり方ほど逆説を抱えた関係は他にはないと思う。むしろたくさんの逆説を抱えられるからこそ家族というものが成り立っているのかもしれない。 ■ DVD3本。 「墨攻」の中の逸悦のセリフが妙に頭に残った。「自分が他人に問い始めた時は自分が迷っている証拠だ」たしかにそうなんだよな。墨家というものをもうちょい調べたくなった。しかし中国の思想家というのはほんとうに奥深い。やっぱり中国人が最も得意とするのは外へ目を向けるのではなく内へ目を向けることなんじゃないだろうか。と思ったけどでも外へ目を向けがちな民族だからこそそれに反比例して内へ目を向けさせる思想が生まれたのかもしれない。何事も逆説とバランスの中に。 しかしアンディラウはしぶいなぁ。朝起きてアンディラウみたいになってたらいいのに。 ついでになんとなくメカものが見たかったので「ベクシル」と「トランスフォーマー」を立て続けに見た。内容はさておき。もうきっといまの技術で映像化できないものはなにもないんだと思った。でもきっとその技術を得たことで同時に失ったものもあるんだろうなと思った。ああいう映画を見ると妙になんとなく安っぽくてもあの手この手をつかった昔の邦画がみたくなる。 ■ 何かを手にしたら同時に何かを失っている。その失ったものがなんなのかにもしっかり目を向けるべきだ。 ■ 最近たまたま身内が脳死になった人の話をきいていて、真宗が脳死をどう捉えるのかという問題にぶつかった。これは深い。むずい。考えれば考えるほど倫理と宗教というものは相反するものなんだと感じる。 Title: 蟄虫啓戸
2008.03.03 総括 ■ 先週一杯のんだ帰り道。夜道を歩いていて顔に当たる風がこころなしか暖かくなっていて、ああ間違いなく春はそこまできているなと感じた。 またこれその日は何が良かったのか酔い方が絶妙で、きっとどっかでなにかが一つ狂ってもだめだったんじゃないかというくらい、ここ数年にないくらい気持ちのいい絶妙な酔い方だった。 かるく千鳥足で帰る夜道で感じたのは、この時期の夜道のぬるさ。匂い。音。この空気には昔を思い出させる効果があるんじゃなかと思う。たいていこんな夜道で思うのは未来のことではなく過去のこと。過去とはいっても哀愁とか郷愁とかそういうノスタルジック気持ちとも少し違う。懐古というよりは回顧というような、一つ一つの事実を反芻するような感覚。 頭の中にたくさんの思い出が思い浮かぶと同時に、いまここで思い浮かぶということはこれはもう自分の中ではもう思い出になったんだなと気づかされるものもある。 心は自分の意識の思うところよりもすこしはやく前に前にすすんでいるのかもしれないと思った。 肌でなにかを感じること。そういう時間のすごし方をするということは、なにげない日常をすこしだけ豊かにしてくれるんじゃないかと思う。 そういう何気ない時間。合理的ではない時間は。 ものすごく大切だと思う。 やっぱのむのはやめられないななぁ。 ■ ああしたらきっと悪いことがおきるとか。これを続けていたらきっと駄目だとか。不幸になる方法はいくらでもおもいつくのに。幸せになる方法ってのを考えてみると具体例が思いつかない。 不幸ってものは明確なのに幸せというのは明確じゃないのは、きっと幸せというものじたいが曖昧なもので、しかもいまよりも幸せになっても人間はきっと次を目指すだけで今の幸せには目を向けないからなんだと思う。不幸には敏感で。不幸にはすぐ目を向けるのに。 ■ 子守唄をうたうと子どもは安心して眠りにつくことができる。これは科学的にも証明されているそうで子守唄は子どもをリラックスさせる効果があるという。でもそれはあくまで母親であったり父親であったり、祖父でも祖母でも。その子にとって安心できる人でなければ意味がないそうだ。そんでさらにそれを録音してカセットテープで流しても駄目だし同じ声のトーン。おなじう唄い方で他の人が唄っても駄目だそうだ。 一言で言えばそこには目に見えないなにかの働きがあるからで、その目に見えない働きとは、信頼とか安心とか。目に見えない想いだったり。子を思う親の気持ち、親を思うこの気持ちであったり。それも一方通行じゃなくて、双方がつながってはじめて生まれるものがあるんだと思う。 言葉や気持ちは目には見えないけど確実に存在していて、科学では目に見えたものしか肯定しないけど、そこにある思いや気持ちを通じ合わせること。「想い」いうものが間違いなくそこにはあるんだということなんだと思う。 仏教では「感応道交」という言葉がある。 おもうこと。おもわれること。これがつながるというのは簡単なようで難しい。想うだけでもだめで、想われているという自覚がなくてもだめだし。 そこから生まれるものが、「信心」であったり「回向」というものに結びついてくるんだということなんだろうか。 ■ 小学生の授業で道徳というのがある。なにげに道徳大好きで、新学期に教科書が配られると道徳と国語の教科書だけは数日で読み終えた。 でも最近になって思うに。「道徳は正しい。道徳は社会の模範である」いじめはだめですよ!ずるいこともだめですよ!品行方正にいきましょう。と小学生のときに教えられたはずなのに。 そんな社会はどこにもない。 この資本主義の競争社会に放り出されて品行方正なんていってたらあっという間に取り残されてしまうし、なんか品行方正なんてきくと一種のプロパガンダなんじゃないかとすら感じてしまう。 大人になるというのはそういう矛盾とか逆説をまざまざとみせつけられて、それを自分なりに処理をしていくことなんだと感じる。 ようはその処理の方法が大切なんだよな。 ウィキで道徳と調べると。 普遍的倫理や普遍的道徳といったものは存在しない。このことを忘れると集団的エゴイズムに陥ることになる(しかし、差別や蔑視、権力者の圧力、宗教などの洗脳による状況を引いて考える必要があり、その場合の道徳の差異は思われているほど離れているわけではない) こんな一文がある。 集団的エゴイズムに陥ることがあるというのはわかる気がするけど、宗教による洗脳を差し引くと書いてあるが。宗教による洗脳とはどこまでを指すんだろうか。 仏壇を叩き壊したりお札をやぶっても、お地蔵様におしっこかけてもなんにもおきないけど。それに引け目を感じるのも一種の洗脳なのかな。宗教心を洗脳と片付けてしまうのは簡単なんだけど、そこが微妙に定義しづらいところではあるだよな。 ■ うまいもの。おいしいものというのは大切ですよ。 前に酢豚の記事を書いたけど、うまいものには感覚を一変させる力もあるし、いろんな感情をゆさぶる効果があると思う。 人生を語るのに必要なのはうまいもんだ。 といいきってしまっても過言ではないくらい。 うまい酒があればこれにもう越したことはない。 うまいもんにうまい酒、そんで気の合う仲間。そんな時間はまさにプライスレスですよ。 まぁ若干最近「うまいもの」の定義が偏りがちでレパートーリーに幅がないのが悩みですが。 ■ とにかく話す。なんでもいいから発してみる。 そしたらいろんなことが回りだす。間違ってれば正してもらえる。声を出さないとなにも回りださないし動き出さない。発することがどれだけ大切か。 ■ さて年度末でばたばたばたばたしてるし、お彼岸に向けて原稿もあげなきゃいけないし、ああ忙しい忙しい。といって毎年毎年。忙しいとは心を亡くすと書くな。よし心だけはなくさないようにしようという反省を何十年も繰り返している。時間がない時間がないといっているときに、本当にないのは時間ではなく心のゆとりなんだなぁと痛感します。そしてどうもこの時期になるとおれがいつもいうのは、ああ無駄話がしたいなぁ。世間話がしたいなぁだそうです。 腰にもいい感じに疲労が蓄積してきているようで、まだぎりぎりのところでもっていますがそろそろバンテリンの出番でしょうか。 そんな体に反比例するように暖かくなってきて起きる時間もはやくなってきたし、テンションも徐々にあがりはじめて、いろんなものがむくむくと起きだしてきました。はやく桜さかないかな。 おもしろいくらい毎年同じ時期に同じことを感じ、同じことをいってる自分がいることに気づけるということはこうやって文章を書いていてよかったことの一つかもしれない。 あと気候によって変わるのは気持ちと装いだけでなく。聴く音楽もだな。ということに先ほどipodから曲を選ぼうと思って気づきました。 さて。 3月は息とめたまま駆け抜けます。 ■ | コメントを書く (0) | Trackback (0) |
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