Title: 深炒り。
旅にでて、初めての街にはいるときの感覚と、昼休みに、昇降口で靴紐結んで、校庭に飛び出す時の感覚は結構似てるかも、と突然思った今日この頃。
もうすぐ寒露だってのに、この首の皮一枚みたいな暑さが、せつなくも嬉しかったりする。
最近なんか楽だなぁと思う。
物理的な部分じゃなく、気持ちの部分で。
なにをのほほんと。と言われても仕方ない。
なんか耳たぶの最後の皮の一枚をプチっと安全ピンが貫いた時のような感じ。
いまだ気を抜くといろんなものの期待に答えたくなる欲や、評価してよ、自分をみて欲がむくむく頭をもたげるけど、でも比較的その辺の折り合いもうまくつけられるようになったし、所詮自分のできることなんて自分のできること。以下でも以上でもないもんね。
そんな自分を続けながらも、自分の周りに人が増えていく方がよほどありがたくて、謙虚でいられるような気がする。
手を抜くのも自分でなんで、がんばんなきゃ維持できないものはポイです。
でも、がんばんなくてもできることを増やすのは怠らないようにしなきゃ。
頑張ってできることが10個あるよりも、頑張らなくてもできることが3つでも4つでもあるほうがいい、という価値観にシフトするようなもんで。その3つ4つがきっと自分にとっての適正で、それを仕事につかえるなら天職とよべるんじゃないかと思う。
頑張るという言葉には、我を張るという意味もあるんだろうと思う。我を張らなきゃいられない場所よりも、我を張らなくてもいられるこの場所がここちいいもんね。ここちいいい場所には、いつまでだっていれるわけで、そこでできることを探せばいい。
失望も期待も、それにこたえようとしたくもなるけど、そもそも希望も期待も、そもそも、そんなもん相手の欲求であり願望にすぎないわけで、答えなきゃいけないというのもまた自分の願望で妄想みたいなもんだ。
しかしこの気持ちを言葉にするのは難しい。
似たような話をなにかの折りにある人に話したところ。
頑張って、我を張っても、そのプロセスで人は成長したり、そこから学ぶことがたくさんあるじゃないですか。頑張るのをやめたなんて、怠け者のいいわけですよ。
わかんないとか、あきらめるとか、そんなのは逃げです。
逃げて逃げて、そこから得るものなんてなんにもないです。
そもそもあんたは、のほほんと生きていけるから、そんなこと言えるんですよ。私はがんばっていきていくんです。そうやってがんばることに意味があるんです。
と言われました。またこれピシャリと。
その気持ちはわかるんだけど。自分はお爺さんじゃないけど。そういうのは若さゆえにいえることだと思います。若さゆえにいえる言葉はものすごく熱いし大好きだから、そういう気持ちは大事だけど。
これからもっといろんなものを見て、いろんな経験する中で、力の抜きかたとか覚えてくれたらいいなと思う。
そしたらきっと、「こんなに頑張っているのに」とか言わなくて済むようになると思う。
こんなに頑張ってるのに、なんであの人はわかんないんだろう。こんなに頑張っているのに、社会はバカばっかりだ。自分はこんなに頑張ってるのに評価されない。
自分が頑張ってるから、誰かを許せなかったり、誰かや何かを許容でないということは、もったいなくて切ないことだと思うし、誰かを許せないで生きてくよりも許せていきてくほうがよほど穏やかで安穏だと思う。
誰かを許せない自分で、生きてくのは苦しみを生むだけだと思う。そんなの頑張っているという言葉で、自分の首を絞めてるようなもんだと思う。
例えば、いくら頑張っても、不条理にも、誰かに誤解されてしまったり、旦那や奥さんが痴呆になったり、突然癌にもなるし。そんな極端な!といえばそれまでですが。
頑張っても乗り越えられないことはたくさんあって、まだ自分が、頑張って我慢すれば、乗り越えられることにしかぶつかっていないだけなんだと思えればいいんじゃないかと思う。
頑張ることやは前へ進む力だということ自体がもう、既成概念にとらわれてるだけだ。
ちなみに我慢も全く同じだと思う。我慢なんて我の慢心とかいて我慢だとはよくいったもんだと思う。
我慢してる人に限って、私はこんなに我慢をしているということを口にする。
いやしかし伝えることの難しさ。
ほんと仏陀ってすごいよなぁ。
きっとこんな議論をばしばしぶつけられて、きっとたくさん誤解とかされて、あいつバカだとかいわれまくって、堕落したとか、逃げ腰とかいわれたりしたんだろうなぁ。
中道を解くというのはほっんとに誤解を生みやすく、水掛け論に陥りやすい。
仏陀の、議論もしない、論破もしない。くるもの拒まずさるもの追わず。
無言をもって答えとする。という姿勢の重さと、腹の底にある強さみたいなもんはすごい。
人間は自分の意に添わなきゃ、あいつはバカだとか、わかってないとかいうけど、そもそもそこで簡単にわかるほど仏教は単純なもんじゃないし、それでもあの手この手で伝えながらも、決して媚びるわけでも、へりくだるわけでもなく、芯をずらさずに説くこと。
これって並大抵じゃできないし、そもそも教学どうこうとか、知識どうこうだけじゃないプラスαの部分の占める割合が相当大きいと思う。
長く遠く。遠く遠くへ。
前に前に。
POSTED @ 2009.09.29 |
Comment (0) |
Trackback (0)