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Title: ぶっし
2009.06.30 仏子という言葉いい言葉だなぁ。 実の人間の親にはどうしても謙虚になれなかったり素直になれなかったりするのに、本堂でお経をしながらあみださんを仰ぎ見てるとこりゃちょっと子どもでいいかなと思ったりする。素直にきょとんとしていてもいいんだなと思う。わがままいったんねん。だだこねたんねんとか思う。こりゃ勝手な解釈だけど、きっとイタヅラ心が湧くくらいがちょうどいいんだ。 腕組んでたのしいことをウズウズしながら我慢して横目でみたり、そんなの子どもだぜなんてさめたこといってるよりもずっと素直で自然で人間ぽいと思う。 いまの自分の立場になってみると、自分が責任を取らなきゃいけないことっていうのがたくさんあって、愚痴るわけじゃないですがそういう立場自体につかれるということもあるわけです。 そうすると必然的に保守的にもなるし、温存したりもするし、なによりもたち振る舞いを大人にならなきゃとか、しっかりしなきゃとか、外側を装飾するのがうまくなってくるわけです。でも中身なんて清小のときとなんもかわってないんだ。 いっぱしの顔して理屈っぽいことばっかり思いつく頭なんかくそくらえだ。そうやってやわらかい部分が奥の方へ奥の方へおいやられちゃう。 最近自分よりも責任とってくれる人がいる場所ってすこし安心するんです。無責任なようだけど、自分が責任者じゃないところの方がのびのびいきいきいろんなことができたりするもんなんだ。そういうところの居心地のよさって、なんだろう安心感なんだろうな。ただ大事なのはその責任者を心から信頼できてなんだけど。 そうおもえば仏子というのは究極いつだってどこだって責任とってくれるあみださんがいてくれるわけで、いいんだよあとはまかしとき。なんだよね。 だから無邪気に生きてさえいればいい。 と思うんだ。これは曲解ですかね。曲解でもいいんだ。 ようはいつだって自分の力でなんでも解決したんねんを離れるところに安心があるってことかね。 へけけ。 Title: 必然。
2009.06.30 鬼気迫るという感覚。 最近思うのは鬼気迫っているかどうかということは、なにかを伝えるうえでも、自分がこれからなにをするかという時もものすごく核になってくる部分だ。 なんで鬼気迫れるのかといえば一種の自己防衛だからなんだと思う。そもそも自分の中の、無意識くらいの深い部分のことかもしれないけどそういう部分でなにか生命維持機能とか精神維持機能みたいなものが作用しなければものすごい力というのは生まれてこないんだと思う。その機能が多少なりでも働いてる時はほんとに腹の底からなにかがわいてきて力が出る。どんな相手でもどんなことでも伝えられる気がする。 人間は自分為にしか力を発揮できないと思う。最後の最後は与えられる側よりも与えている側のほうが満たされてるんだ。そうじゃなきゃ与えられるわけないんだ。いいか悪いかじゃない。人間はそういう生き物であるということをしっかりと認識するかどうかで。そのベクトルをコントロールしておけばいい。そのコントロールをする方法の一つが仏教でもあるんだと思う。 最近人の前で話すときにいまから話すことは自分の感動だ。だからその欠片の一部分でも伝わればそれだけでいいと思う。伝えるありきで話すんじゃない。伝わるかどうかは二の次なんだ。感動を述べる。震えた体感をすぼりだす。そうやって少しづつなにかが伝わっていくんだと思う。 なんかしぼりだすを打ち間違えてなまっちゃったみたいになったけど。なんかしぼりだすよりもすぼりだすのほうがしっくりくる。 もがいてもがいておぼろげながらわかってきたのは。大事なのは後付けの部分だということで。あきらめるというのはあきらかにみるということなんだと思う。 そして偶然は必然だ。 | コメントを書く (0) | Trackback (0)Title: 方便
2009.06.28 人間は方便を通さないと真実にはいきつけないなというのを今回三願転入について考えているときに改めてそのことを再確認した。 前にも書いたけど、1つの例だけど、家族のコミュニケーションがぎくしゃくしてるとして、家族会議を開いたらそれで解決するかといえば必ずしもそうじゃない。そもそも家族会議が開けるような家ではそこまでぎくしゃくもしないだろうし。 そこで真冬にエアコンをぶっ壊して、リビングにコタツを1つおくことでなにかが円滑に回りだすということはあると思う。これがある意味方便ということなんだろうと思う。 ベストキッドという映画がある。へなちょこダニエルさんに、日系人のミヤギさんが空手を教えるという映画なんだけど、それをふと思い出した。 ダニエルさんがミヤギにはじめて空手を習うときに、ミヤギさんは、車のワックスがけをしてきなさいという。ダニエルさんは言われるがままにそれをする。そして次には壁のペンキ塗り。そこでダニエルさんは切れるわけだ。こんなんで強くなれるわけないだろと。 そこで悪い奴との戦いになるんだけど、そこでやられそうになった時に、ミヤギが駆けつけて横からいうわけですよ。ダニエルさんワックスかける!ワックスふく!すると飛んできたパンチを軽々とその動作でいなしていくわけです。 そりゃ映画だよ。映画だからだよ。でも方便というのはそういうことなんだと思う。 人間は本当に深い部分にはそれだけをまっすぐに考えて、それだけに突き進んでたら見えないんだと思う。 たかがのらしごとでも。 たくさんの人と1つの作業するとよくわかる。その人の気の使い方、声のかけ方、視野の広さ、つかれてくれば本当の表情とか。それにお互いそういう中でしか育まれないものってあると思う。だから楽しいはだれかが与えてくれるものでもないし、楽しいはなにをするかということよりも大事なことがあるんだと思う。 しかし嘘も方便って、方便の意味がわかるとものすごい深い言葉だな・・・ まわりくどいけど、でも自分はこうおもうぜ!なんでわかってくれないの?はまだまだそこには我執があるってことか。それをどうやったらわかってもらえるか、そのためにはまずどの順序ではいるか。ああなんかドッキリを考えて布石をちりばめてる時ににてるかも。ようは直接的じゃだめな時もあるということか。 そう考えたら少し前に感じたことが今つながった。 少し前まで祈るだけで世界が変わるならもう世界は変わってるはずだ。なんて吠えてましたが、あれもあれからよくよく考えてみたら、祈ることではたしかに何もかわんない。超能力とかないし。 でも何かを祈ろうと思う気持ちを持つことで、手の届くところにいる人や、自分の周りだけにだけでもすこしいろんなことに寛容になれるんじゃないかと思う。 ようは祈るという行為に意味があるのではなく、祈ろうと思う自分に意味がある。だから祈りというのはベクトルは内側にむいてるものなのかもしれないということに気づいて目からうろこが落ちて、いままでの自分の視野の狭さと、みえていなかった世界と感覚があったことにうれしくもなった。 事実だけを、目見えるものだけを捉えるんじゃない。そこから。そこを通して自分が何を得られるかということは無限の可能性で、むしろこれは飛躍しすぎかもしれないけど、一つの事実にすべてがあるというところまで行きつけることもあるのかもしれない。 それこそが拈華微笑の世界か。 しかし深いな。深くて深くて。 しかしこんなことを何百年、何千年の間でたくさんの人が生涯をかけて考えてきて、そしてそういう人たちが一生をかけて、生涯をかけて残した経典がいまの世の中まで残ってるんだからすごいことだよな。人間ってすごいなぁしかし。 ありがたい。お経の本は粗末にできないね。お寺に育つとついつい慣れてしまってその辺がおろそかになってしまうけど反省しなきゃ。 | コメントを書く (0) | Trackback (0)Title: 三願転入
2009.06.25 三願転入についてまとめるいい機会をはるまげ君にいただいたので、個人的な三願転入の解釈を述べます。 ふざけた解釈ですがポイントはずれてないはずです。本山の人とかがみたらぶん殴られるでしょうか。 まじお釈迦様とかいう人悟っちゃったの!まじでおれも悟りてぇ。修行だ修行!なんなら庭に菩提樹植えちゃうぜ!とりあえず比叡山いこうぜ比叡山。 ここまでが双樹林下往生で19願、経典でいえばここの教えは観無量寿経に書いてあること。 そして数年。 いやでもまじ無理・・・・ってかさ。おれお釈迦様じゃねぇし。シッダルタじゃねぇし。恋とか好きだし。比叡山恋できねぇし。もう比叡山おりちゃうしかねぇ。 ああおりたわいいけど、おれまじダメ人間だわ。ああおれもうたぶん一生苦しむんだわ。おれみたいなダメ人間はもうひきこもるしかねぇ。ひきこもってPSPでもやるしかねぇ。六角堂こもっちゃうぜ。ハァハァ そこで右往左往としているところに阿弥陀さん登場。 ちょいちょいちょい。救ったろか。おっちゃんが救ったろか。わし阿弥陀いいまんねん。こまったら呼んでみて。10回くらい。あ~みださ~んって。そしたら全部チャラにしたるさかいに。もしそれであんたのこと救えなかったらおれ仏やめちゃうもんね。 ええまじでか!!呼ぶだけでいいんかいな!!ほな呼ぶわ。何なら10回といわずに何回も呼ぶわ。きちがいみたいに呼びまくったんねん。 阿弥陀さんまじあち~呼ぶだけでいいなんてなんていい奴だ!うへへへっへ。極楽はちょういいとこらしいぜ。最高の世界まじいきてぇ。 ここまでが難思往生で20願、極楽は阿弥陀経に書かれてるようなところだと思い描く。
な・・まん・・・だ・・・・ぶ・・・・ ってかこれまじで?!話うますぎだろ!!こんなんでほんとに救われるのかいな。極楽いけんの?まじで。ってかそんないい世界まじあんの。おかしいなぁ全然うれしくねぇ。 ああ・・・阿弥陀さんがあんなにいってくれてるのに。なんでおれはまたダメなんだ。 これじゃ比叡山おりたときとおなじやんか。ダメ人間ぷりがでてきたわ。 ああおれまじもう救いようない。もうおれあしたからメイド喫茶にこもるわ。阿弥陀さんも信じられないなんてもう救いようがないんだおれ・・・・ そこでニヤニヤしながら阿弥陀さん登場。 ちょいちょいちょい。兄ちゃん。 ほんとあんたダメ人間じゃの。せっかくすくったるっていってんのに。それも信じられんと疑いよってからに。あんたほんまどうしょうもないわ。まじだめ。ダメ人間。 阿弥陀さん・・・そこまでいわんでも・・・ でもな兄ちゃん。 それがな。に・ん・げ・ん そんで阿弥陀さんが肩に手を回してきて耳元で囁くんですわ。 「兄ちゃん。あとはまかしとき」 かっこいい!しびれる!そこで涙がとまらなくなるんですね。そのツンデレ攻撃にもう骨抜きです。 まじ理屈じゃねぇ。阿弥陀さん!阿弥陀さん!ああ阿弥陀さん! ここではじめて心から阿弥陀さんの名前が口をついて出るわけです。そしてこうつぶやくわけです。 ああ。あったけぇ。こんなおれなのに。あとはまかしときって・・・まじあったかいなぁ。理屈じゃねぇ。ああ極楽・・・ここにあったわ・・・ああこれに気付かせるために阿弥陀さん、わざとあんなまわりくどいこといったんだ・・・あいつ・・・にくいぜ・・・ これが最後の18願で難思義往生大無量寿経の世界というわけだ。 この流れとこの順序はまさに親鸞のたどってきた道なんだということがよくわかる。 そしてこの20願の存在する意味、そして18願をどううけとめるか。この20→18のつなぎがまさに聖道浄土のかわりめありというすばらしいところだと思います。 三願転入は難しいとこだけど、親鸞になりきって考えてみるとほんと真宗、親鸞にものすごく感情移入できる気がします。 まぁりくつじゃねぇ。 | コメントを書く (2) | Trackback (0)Title: 通過点
2009.06.24
今のうちにたたきのめされて、自分の力のなさを感じられるか。それは大切なことだと思う。そろそろ社会的にも認められてくる年かもしれないけど、でもたかだか29年しかいきてないんだ。なんもできねぇまだなんも。くそったれ。 今日。ひさしぶりに、くやしいなぁ自分もとりあえずあそこまではいかなきゃという場面にでくわしてものすごい収穫があった。 あるお坊さんが話し始めたときのあの空気の変わり方にはちょっとぞくっとしました。流れが変わるっていうのはこういうことなんだな。こういうことができる人とできない人がいるんだな。 なんだろう。 一言でいえばやっぱり。自分の心が震えなきゃ誰の心も震えない。これを肌でリアルに実感しましたとさ。 くそ。あそこはあくまで通過点だけど必ずすぐに通過してやる。 Title: ちっぽけ
2009.06.24
家に帰ってメールをチェックしていたらひさびさな友達からのメール。それを読んでたらなんかわかんないけどあゆが頭の中に流れてきたから、早速いきつけのituneshopであゆと大塚愛を買いあさる。 いやあゆいいね。リアルだね。リアリティがある。 恋はいいよ。恋は。 恋は自分の欠点を補うものです。だから自分の欠点に気づかないと本当の恋はできないんですよ。 人間のやわらかい部分。 人間関係というのはすべてバランスをとり合おうとするんだ。 それぞれのやわらかい部分を補い合おうとするんだ。 ちっぽけだと思える自分こそが最強の自分だ。 | コメントを書く (0) | Trackback (0)Title: freneza
2009.06.21
もし人間が一生のうちに一度だけワープできるとして、30歳までそのワープを使わずに残してる人なんているんだろうか。 自分にあてはめてみたらきっともう使ってると思う。絶対にもうない。 どうでもいいっちゃどうでもいい話なんだけど。 でも思うになにがいいたいかといえば、30過ぎても後生大事にそのワープを大事に持っているよりも、若いうちに一生に一回しか使えないようなワープをためらいもなく消費できるような生き方のほうがいいじゃんとか思うわけですよ。 ましてやそれが誰かとてつもなく会いたい人に会うために使ったワープならなおさらだ。 そんで30過ぎたおっさんがあつまって少しは酒がはいるときまってワープの話ですよ。 おまえワープ残ってる? まさか残ってるわけないじゃん。 昔遠距離恋愛してる彼女に気持ちを見せるために使っちまったぜ。今思えばバカだったな。 おれは中学の時にじいちゃんの死に目にあうのにつかったわ。 おいおいそれはいい使い方したな。 おれはいまの奥さんにプロポーズするときに使ったぜ。 おいおいまじかよ。さすがにそれは気持ち伝わるよな。 なんて話をしてるところで1人だけ。 おれまだのこってるわ・・・ とかいうやつもいるかもしれない。勝手にきっとあいつは残してるだろうなとか想像するわけですよ。 恋愛においてもきっとワープが残ってるか、それをなにに使ったかというのは大きな問題になってくるんだろうな。 ワープを残しているか否か。相手がいつなんの目的でワープをしたか。気になるところなんだろうな。 もしかしたらワープを残してたらそれでひと稼ぎできるかもしれない。そういう使い方をする人もいるかもしれないな。 そう考えるともしかするとワープ規制法みたいなものもできるかもしれない。小学生は原則ワープ禁止。みたいな。 ああなんてくだらない妄想。 きっとこういうくだらないことをおもいつくことで脳が自己防衛してるんだきっと。ああねなきゃ。 Title: 末法
2009.06.20
脳死の問題がいまあっちこっちで議論されているけど、お坊さんとしてどうおもうとかいわれても、正直それは管轄外だ。そういうのは法律家や政治家や知識人の人たちでやればいい。むしろそういう議論にあえて加わらないのが仏教に関わる人間の立ち位置じゃないかと思う。脳死は人の死ですか死ではないですか。これに即答でわからないといえる坊さんがどうしてこんなにも少ないんだろう。もっともらしいことばっかりならべたてて。もっともらしくそれは宗教者の管轄だみたいな顔してるけど、人の死が自分の理解や判別の中で白黒つけられると思っていること自体が人の抱える根本的な苦悩の種で、凡夫たるゆえんだろう。坊さんはそんなにえらいのか。そういう坊さんがたくさんいるから駄目なんだ。肩書もらえば仏教者かといえばそうじゃない。 それぞれの立ち位置や見る場所がかわれば、答えやとらえ方がたくさんあるような問題に正解なんてものはない。世間の物差しは時代や背景や立ち位置でころころかわるけど、仏教の物差しはころころかわっちゃだめでしょう。 宗教ははだれのためにあるんですか。人の死を判断できるような教えがどこにあるんですか。法に聞くのが仕事なのに、いつのまにか仏教者顔になって自分の判断で物事を判断してるから末法とかいわれるんだ。 なんてたまには愚痴ってみる。 Title: idealo
2009.06.15 静かに夜が明けてくる。 昔「夜明け前が一番暗いんだよ」ということばに救われたことがある。夜明け前に目が覚めて眠れないときはいつもその時のことを思い出す。 少しづつ明るくなっていく街を眺めながら本当に時間というものは不思議だと思う。たくさんの区切りを通ってたくさんの節目を通って、いまここに自分がいることがなんか不思議だと思う。 そんできっとこんな特筆するようなことのない何気ない今日なんて少ししたらあったかなかったかすらも忘れてしまって、あっという間に押しつぶされて消えちゃうんだ。 でも今は確実のそんな日々の上にある。 何をするか。何ををすべきなのか。 そんなことはもういい。 心のままに。 今日もまた日が昇る。 それはそれだけでもう十分に素晴らしい。 Title: えばふり。
2009.06.09 突然言葉に質感がこもってはっとするという瞬間がある。 それは音楽を聴いてる時だったり、ほろ酔いの帰り道だったり、天気のいい日の朝だったり、お経の最中だったり。 そんときはさら~と流れていった言葉が突然戻ってきてその意味になにかがこみ上げてくる。 そう考えたら、言葉なんてものはある意味では一種の記号みたいなものでそれだけで成り立つものなんかじゃなくて、そこにのせられているもの、そこにこもっているものとリンクしてはじめて本来の働きを取り戻すんだ。 その言葉を吐き出した人のチャンネルにリンクする。その瞬間に初めて自分の中の深い所にいろんなものが入っていくんだ。 ただただついてるテレビの内容はすぐにわすれちゃうけど。自分でチャンネルを合わせてみたテレビの内容は意外に覚えているようなもんだ。 うちのテレビのリモコンには12チャンネルまでしかないけど。せめてスカパーくらいはチャンネルを増やしたいものだ。
Title: lumo
2009.06.08 つきつめていくと世の中には感謝できないことは1つもないと思う。 自分のふがいなさと能力のなさと視野の狭さをまざまざと痛感しておれくそったれと思う。でもそういう出来事があってよかったと思う。そう思える機会と縁に恵まれて、そういう縁を与えてくれてありがとうと思う。 昨日はなんかすごく昔のことやいままでのことや、ここに至るまでの時間の長さとか、思いとか、そういうものが突然こみあげてきて、その1つ1つを思い返すに、縁というものの言葉の意味の不思議と、そういう些細なつながりで成り立っている世界にほんとに他力とはこういうことだとしみじみと感じる。 自分のできることや自分のわかることや、自分の世界なんてもんはほんとに奇跡的なバランスでなりたってるようなもんで、どこか1つの縁で180ど変わることだってある。 夜風に吹かれながら帰り道で「人の幸も不幸も人と人が出遭うことからはじまる」というあいだみつをの言葉をなんとなく思い出しながらこみあげてくるいろんなものをのみこんでのみこんでいえに帰りましたとさ。 そしてバランスというものの大切さも学びましたとさ。 そんで深夜にぼけっと一日を反芻しながら、なんとなく積んである本をパラパラとめくっていたら目に飛びん込んできた葉隠の一文 恋の至極は忍恋と見立申候。一生忍びて思ひ死にするこそ、恋の本意なれ。 これ恋のうんぬんだけじゃなくそこに込められたものは深いぜ。 剣の時代が終わって、どう生きるべきかという問題を突きつけられた武士の心意気、そこにこめられた想い。心の変化。葉隠深いな。 ベクトル曲がり角に直面した人間の心というものほど自分の中でわくわくするものはない。 その人がなにをしてるかじゃない。その人がどういう理由で動いているのか。なにをしててもいいんだ、そこにある理由が自分の中では一番の好物なんですよ。 ああ人間でよかった。 | コメントを書く (0) | Trackback (0)Title: あかすり。
2009.06.03 朝家をでたら家の前の通りにアジサイが咲いてた。ものすごく色鮮やかに。 ああきっともう何日も前から咲いていただろうに、自分がアジサイに気づいたのは今日だ。 でも思ったんだ。いろんなものを抱えているときは、大変だしはやく終わらせたいし、もう。何も抱えたくないと思うのにそれでもいつも気づくといろんなところに顔突っ込んでいろんなものを抱えてしまう悪い癖がなおらない理由は。やっぱり自分は人とつながっていることと、それと自分の知らない世界に触れること、それと自分の意見を真っ向からぶっこわせる人と出会うこと。そういうのがたまらなく好きで。そうやって自分自身の中にあるものがなんなのか知りたくて。それに全部が終わったときのなんだろう充実感とさみしさの入り混じったような感覚がなによりもたまらなく好きなんだ。祭りのあとのような。 しかし久々にたくさんの人の熱にあてられて久々にお腹からなにかが湧いてきた。 がんばってるなみんな。それぞれが悩んで、それぞれに希望があって、それぞれがもがいて、それぞれに道を探してる。 ああくそったれ。なんにもわかってないのにわかったふりをする自分はくそったれだ。なんもできないし。なんもわかんないし。なんもわかってない。自分ががいまわかってると思ってるものはぜんぶわかってない。 ざまあみろおれ。 ■ しかしつくづく人間っていうのは思い込みでいきているものだなと思う。 自分がここで自分をささえてる。ここから力をえている。自分はこうやったら機嫌がよくなる。逆にこうやったら嫌な気分になる。 そんな自己判断や自己分析もあくまで一面にすぎなくてたいていは思い込みなんだと思う。 なににたいしてもそうだと思う。自分の枠を決めるのは自分。 手を離したり足をだしたらたいしたことないことのほうがほとんどだ。 面白いな人間。 自分は自分が思っている以上に心と体は先を歩いているときもあるし。 自分の目安はかならずしも正しいとはかぎらない。 あるとおもいます。 ■ 最近パソコンに向かう時間が多い上に、読みかけの本が何冊かあるうえに、ファイナルファンタジータクティクスがものすごいおもしろくて、睡眠しているとき以外にはほぼ眼を酷使している。ほんとに自分の好きなことは目に負担がかかることばかりだなと思う。 そんでいよいよ頭痛がしてきたもんで整体にいった。 30分ほど施術してもらって外に出たら。 ものすごいよく目が見える。いろんなものが鮮やかに。気のせいじゃなくて。 ああ。世界はこんなに鮮やかだったんだと思うくらい。 でもその時に思った。 さっきまでの状態でしばらくあたりまえに過ごしてたけど、今になったらあの状態はあんまりよく眼がみえてなかったんだなと。 見えるようになって初めてあんまり見えてなかったということに気づく。 そんなもんだねなんでもかんでも。 宗教もそうだよきっと。 ■ 物事を理解するということは判別をするということ。判別するということは、過去の記憶と経験と照合してどこかにあてはめるということだ。 ってことはだ。忙しいとか時間がないってことを言い訳に、インプットを怠っていると新しいものと出会ったときに、それを理解しようとした時に、いままでにあったものでしか照合できないし、そうしたら物事を一辺倒な理解しかできなくなっちゃうんじゃないか。 自分のデータバンクの情報量を増やす方は体験や経験によってしか増えないし、いまの自分の世界にない価値観をどんどんインプットしたらきっと、理解するということにもものすごい幅が出るんだと思う。 でも。興味ないことはインプットできないから。まずは興味をもつことで、興味をもてるようになるということはいつもなにかに枯渇していることなのかもしれない。枯渇しているということはやっぱりどっかに穴があいてないといけないのかもな。 引き出し少なくなりたくない。そんなおじいちゃんにはなりたくないぜ。じいちゃんはいつも物知りではっとすることいえなきゃいけなんだぜ。だってうちのじいちゃんそうだったもんね。 ■ いくら押しても押しても駄目だからあきらめて寄りかかったら簡単に扉が開くこともある。 なんだろうねタイミング。というかきっかけというのは。 偶然なのか必然なのか。これすなわち他力ですか。 いろんなことを試しに試して自分の気持ちが上向きにならないのに、ほんと小さなきっかけでがらりと有頂天になることもある。 その逆も然り。 この繰り返し。 なんだろうね。 心というのはなんだろうね。 ■ フレミングの法則 ■ 絵本を読んでいて思った。 そういや絵本ってさ。野菜とか動物とか太陽とか月とかウスとか栗とか。 あたりまえなんだけど。 昔話ってそういうのがしゃべるのがあたりまえに書かれてる。 いままであんま考えたことなかったけど。ふと思った。 それを科学的ではないといい、それを子どもだましの寓話だといって片付けるのは簡単なんだけど。でも思うに昔の人はそういう感覚あたりまに身についていたのかもしれない。 なんだろう。 手塩にかけた野菜に思わず話しかけたり。 そういう感覚大事だと思う。 野菜は野菜。太陽は太陽。犬は犬。 まちがいない。 でもそれを知ってる人間が高尚な現代人で、木や動物に話しかけるような人間は未開の原始人なんだろうか。 そういう名前や種類動向じゃなく、声をかけて話すことでたくさんの縁の中で自分は生かされているんだなって気づかされることはあると思う。 もっと人間は対比したほうがいいと思う。いろんなことと。 人種とかじゃなくてもっと深く人として。 ■ 死を意識する、老病死の問題に向き合う、さらにいえば無常を自覚する。 そこに生きることへの感謝がわく。または生かされている自分へ気づく足がかりがあるようなきがしてならないわけです。 人は失ってはじめて気づくといいますが。 失って初めて気付かせていただいた。 この「いただいた」という気持ちが大切なのではないかと思います。 失うということはマイナスかプラスか。 そういうの。 あると思います。 | コメントを書く (0) | Trackback (0) |
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