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Title: 一里塚
2010.12.30 ばたばたとあっというまにもう30日。 今年を振り返る。 今年は良くも悪くも、自分がどこまで通用して、どこから先ではまだ通用しないのかがわかった気がする。そんなことを経験する中で、いままで自分の中で、やってみるまでわかんないじゃんとか思っていたときがあったけど、でもそれは、まだ自分の扱いをわかっていなかっただけで、打てるか打てないかわかんないといってバッターボックスに立つようなものだったんだろうと思う。 一人で野球をしてるならそれでいいけど、野球は一人ではできないし、生きていくことも全く同じだと思う。 結果には必ず原因とプロセスが繋がっている。 やってみなくても今の自分でその球が打てないことをまずわからないと、そこから先にはいけないのだと言うことがよくわかった。 今の自分では打てない、ではなぜ打てないのか、どうしたら打てるようになるかというプロセスを踏んで、球を打つことだけに専念して、やっと自信をもってバッターボックスに入れるようになるんだと思う。 プロというのはそういうことなんだろうと思う。というとあんたはプロではないだろうと言われそうだけど、自分は自分の扱いに関してはプロでいたいと思うし、自分の扱いで誰かに右に出られるのなんてごめんだぜと思う。 野球に人生を例えてみるものの、たいして野球は好きではない。 それと、すこし形が見えたのは、自分がどういう人間になりたいかというより、どういう人間にはなりたくないのかということ。 1年のなかでいろんな決断を迫られた中で、いやな気分がするときと、そうじゃないときをよくよく反芻してみれば、そこからあぶり出しみたいに自分が浮き彫りになったような気がする。 もうすぐ31歳になる。 毎年言ってる気がするけど、来年はもっとわがままになる。好きなことを好きな人としたいだけして、いやなことなんてぽいだ。青臭くて、暑苦しいことをさらりと言いながら、神楽坂あたりで好きな人とおいしいお酒を飲んで、たのしくへらへらとすごそうと思う。 そうやって生き続けられるために必要なものが自分の身につけなければいけないことであり、必要とするものなんだと思う。 なんか大学を卒業して来年でちょうど10年。 いろんな経験をして、右往左往したり、いろんなことをかじりまくってきて、ぐるっと一周して、あの頃と同じところに着地したような気がする。 同じところだけど同じじゃないところ。 # 男の人が女の人に指輪を贈るときに。 男の人の中にある気持ちも、女の人の中にある気持ちも、それは一種の布施の心に通ずるものがあるんじゃなかろうかという話。 # キリスト教をディズニーランドに例えるのであれば、仏教は花屋敷だ。 これは安易な例えのようだけど、奥が深いのです。 # 理論が伴っていないと感情移入できないという傾向は、物質社会と資本主義の大きな弊害で、本当に心動かされるのは、理論の伴わないモノだということを習慣の中や、生活の中で感じられないことが現代における心の問題の根底に繋がるんじゃないかと思う。 おてんとさまがみてるんだよ。 # 例えばワンピースを読んでいて、ルフィに思い描くモノは、ああなりたい、ああありたいという願望であり憧れである。 だからほんとのこというと、本当の意味ではルフィの言葉には感情移入できない時がある。それが言えればいいけど、自分はルフィみたいにはなれないよ、無謀にもマリンフォートには飛び込めないよと思う。 そんなことを思いながら、手塚治虫の漫画を読んでいて感じたのには、手塚治虫の書く主人公の言葉には感情移入できるモノが多くて、なんかヒーローがヒーローじゃないし、悪いやつがただの悪いやつじゃなくて、ちゃんと理屈の伴わない行動までも描写されている気がする。 漫画というのは本当におもしろい。 世相をよく反映しているんじゃないかと思う。 # 生きていると、自分の生活や見えてる世界がすべてで、その中で見えた自分の未来に悲観したり、絶望したり、追い詰められたりすることがあるけど。 でも世界は自分が思っている以上に多様性があって、生き方にも、価値観にも、経済システムですら、まだまだ自分の知らない世界がたくさんあって。 自分の一回り外側には、まだまだ自分の居場所や可能性が1億万通りくらいあると思う。 自分は中学や高校の時には、その閉鎖的な世界がすべてだと思っていたし、そこで社会や将来や先を予想しては、生きてくのなんてこんなもんかとか思ったり、所詮人生なんてとか思ってることがあったし、もちろん大学でも、働き始めても、気を抜けば周りを取り巻く環境に息苦しくなったり、閉塞感を感じて、もうこんなんなら、生きててもしょうがないなとか思ったこともあるけど。 今になって思うのは、自分は何も知らないと心から思えることはすべての救いになる。 無知の知というのは、ただの哲学的な考察を表す言葉だけではく、最近その言葉に血が通った気がして、あらためてその言葉のすごさがわかったきがする。 # ツイッターをやっていて。 多くの人が、(そうではなくて手の内をさらけ出している人もいるけど)両手を後ろに隠しながら、手の内を明かさないでいるくせに、でもそれがなんなのか興味をもってほしくて、共感してほしくて、チラ見せしあっていて、でもぐいぐいこられるとめんどくさいから、そのちょうどいい距離の心地よさを構築しているようにみえる。 そう見えたら、もしこんなにたくさんそういう人達がいるんだとしたら、そこに仏教の入り込む余地というのはまだまだあるなと思う。 なんか、宗教離れとか、無宗教とか言うけど、それはそもそも、なにを宗教というか定義づけもしないステレオタイプの人のつくりだした妄想みたいなもんなんじゃないかと思う。 人が寂しかったり、共感を求めたり、感情的になったり、そういう人間の本来持ちうるすべての行動原理には理由があって、その理由に目を向けて、自分の説明書を作っていくような作業をどう呼ぶかは自由だけど、自分はそれを宗教と呼ぶし、仏教と呼ぶ。 自分の目には、今の世の中宗教や仏教を根源的に求めている人が多いように見える。 なんか室町時代の人々の閉塞感と、今の世の中の閉塞感ともしかしたらどこかで通じるところがあるんじゃないかという気もする。 # その人と話していると、なんで自分の口からこんな言葉がでてきたんだろうとか、どんどん自分の中でいろんなことが繋がっていく感覚になる人がいて。 そういう人は本当に大切で。 これからもそういう人と繋がっていたいと思った。 持論だけど、やっぱり人は会話によって成長すると思うし、コミュニケーションを通さないと得られないものというのがあって、その中心になるのは、会話で、会話とは一口に言うものの、磨こうと思わなきゃ鈍るし、習慣として意識的じゃないと駄目で、それ自体を楽しもうと思えなきゃ伸びないのかもしれないと思う。 自分はもっと会話をするのがうまくなりたい。 会話は磨けば絶対にどこでも通用する武器になる。 # どこかで、建造物の高さや大きさを競うのは、衰退の兆しだという記事を読んだけど。 スカイツリーがいろんなところから見えるようになったのはなんだかうれしい。 こないだついに家の窓からスカイツリーが見えるようになったし、谷中のあたりからもみえるし、上野動物園からも見えるようになった。いろんな自分の好きな場所にスカイツリーが顔を出してきて、なんかちょっとうきうきする。 たしかに、高さや大きさよりも大事なモノはあるかもしれないけど。 でも自分はこうやって無条件にわくわくできて、すげ~!と思えることはとても大事だと思います。 # さて今年も終わり。 明日はアメ横に買い出しに行こう。 この時期の風物詩。 # 正月や冥途の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし。
Title: 歩く花
2010.12.25 野に咲かず山に咲かず、愛する人の庭に咲く。 「歩く花」を聞きながら、旅情をそそられながら、旅に思いを巡らせる。結局今年は夏に島に一週間いったくらいで旅らしい旅はできなかったなあ。年末のアラスカもあらぬ理由でいけなくなってしまったし。 来年こそは旅に出たい。 いつからか年をとって、日にちを選んで、理由を見つけなければ旅に出れなくなったけど、でもそんな不平不満を言いながら、いまの自分を憂いていることに時間を費やすのはナンセンスだ、今できる中でできる旅のプランを現実的に練り直す。 まだまだみたい場所も、行きたい場所も、感じたい気持ちも、叫びたいこともたくさんある。 やりたいことを思いっきりやって、なおかつそれが何かに貢献できて、評価されるような生き方をしたい。あいつはいつも楽しそうだなと言われてのほほんと生きていくのです。夢見がちでなんぼですよ。ジャンプだって読み続けますよ。 今日からは歩く花ですよ。 淀んでたまるか。と若気の至りのような気持ちが消えないまままもなく31歳になろうとしているわけです。 ガードレールを跳び越えて、センターラインを渡る風、その時その瞬間僕は一人で決めたんだ。一人で決めたんだ。とヒロトも言うのです。 なんか今年感じたことの1つに。 大人になって、社会に出て、いろんなことが見えてきて、たくさんの人と接すると、その中で自分というものがまざまざと浮き彫りになってくる。 自分よりもすごいやつとか、できるやつがたくさんいて、くそうとか思うんだけど、でもそこに言い訳するのがうまくなって、それを環境とか状況のせいにして、自分はここでいいのさ~ふふんとかすました顔をするのがうまくなる。 自分には守るモノがあるからとか、もういい大人だからとかいって自分を納得させる。 しかも新しいことに挑戦したり、身につけなくても、たぶん死ぬまで困ることがないくらいの経験をそれなりにしてきて、持ってるモノだけである程度いろんなことがこなせるようになると、底上げすらめんどくさくなる。 でもそんなのくそくらえだと思い続けたい。 変わったとか、いまさらとか、どうしたのとか、まだそんなこといってんのとか、そんなことしてんのとか言われても、どんどんいろんなことを吸収したいし、まだまだ先に行きたい。 だからいつでも変わり続けたいし、自分をの身を置く環境も状況にも意識的でいたいとおもう。 足をひっぱる要素はさようならだ。 好き勝手に生きて、維持できないモノはなんにもいらないのだ。 最後には、脳みそと心臓だけが動いてればそれでいい。 自分の人生はどうころんでも一度だけ。 ヒロトがバンドが解散して、新しいバンドを組むって言うのは、あたらしいアルバムをリリースするようなモノだと言っていた。 生きてるモノはいつだって変わり続けるんだ。 そこをたんたんと、てくてくと、歩いて行けるようにもっと強くならなきゃと思う。 根っこが消えて足が生えて、野に咲かず山に咲かず。 | コメントを書く (0) | Trackback (0)Title: ここ数日。
2010.12.20 先日、仕事の帰り道、道の真ん中で車が動かなくなった。 ガス欠だったんだけど、夜中に知らない街でガソリンスタンドを探し回った。 その次の日おじさんが亡くなって。 そのお通夜の日に、ぎっくり首になって、首が動かなくなった。 その首が癒えないまま、昨日は神楽坂で記憶をなくした。 ほんとにこの年の瀬はばたばたしてる上に、なんかふわふわと気持ちがしてるからこんなことになるんだろうか・・・もうふんだりけったりだなぁ、なんかこういうときには、なんか悪いものでもついてるんじゃないかとか、お祓いでもしようかなんてことをいいたくなる気持ちもわかるなぁと思ったけど。 でも考えようによっちゃ、ガス欠になって、知らない人が、車を押してくれたり、ガソリンスタンドのお兄さんがものすごく親身になってくれたりして、すごい人の温かさに触れることができたし、おじさんが亡くなったのは悲しいけど、この悲しみで冷たい水を浴びせられたみたいにはっとして、我に返った気がして、自分の中の仏教がまた浮き彫りにさせられたし、首が回らなくなったのだって、身体をいたわって、メンテナンスするいい機会だったと思えばいい。 ただ神楽坂で記憶をなくした件については、ただ失態にすぎず、今のところいい要素がおもいつかないのだけれど。 いやしかし、なにがよくてなにが悪いかなんて、目に見えるところだけじゃわかんないんだって思うようにする。 そんなここ数日の総括 # おじさんたちが亡くなるたびに、世代交代っていうのは、漠然とやってくるのではなくて、こうやって目に見える形ではっきりやってくるんだなと思う。 いつまでもだれかの背中を追っかけてるばかりじゃなくて、もう自分がしっかり立つ番なんだなと思うし、今度はだれかに背中を追わせられるような男にならなきゃいけないのかなと思う。 なんか大それたことをいうようだけど、最近思よく、自分がいままで培ったもののを、世の中とか誰かとか何かのためにどうやったら還元できるだろうかと考えることがある。 おじさんたちが残してくれたものを引き継いで、次の世代に残したいと思うし、そこで自分の中に芽生えたものを少しでも目に見える形で、種として蒔きたいという気持ちがわいてきて、そういうのってもしかしたら、自分たちの世代がいろんな意味で時代の中心になる時期が来たということなのかもしれないと思う。 なんかまだ漠然としてるけど、来年はそんなことを実感できる年にしたい。 # どんなに正しいことも、振りかざしたらそれは正しくなくなるんだと思う。 正義も善も、愛も希望も、エコもなんでも、そこに絶対論理はなくて、ようは大事なのはその使い方のほうなのかもしれない。 # 言い訳はしないにこしたことないけど、それはできそうにないから、せめてその頻度を少なくしようと心に決めた。 言い訳はしてもいい、でもできるだけ最小限にしようと思う。 そんで言い訳を最後の逃げ道にして安心するのだけはやめようと思う。 # 三人称になってやしないかい。 ここにいるのは自分とあんたなのに。 # 昔ザウスという室内スキー場があった。 そんでCMでは湾岸スキーヤーなんてフレーズが流れていたっけ。 なんの前触れもなくそんなことを思い出した。 あの頃はなんか今よりも世界が広く感じていたような気がする。 # さらりと熱いことをいえる男になる。 今日、りんごをかじりながら、改めてそう思った。 # 見落としてしまうようなところに目を見張るだけで、ものごとが突然うまく回り出すと言うことを経験で学んできて、ほんと大きな問題の原因はほとんど、見落としてしまいがちなところをみんなが見落とした結果なんだろうと思う。 #
そんなものは足を動かし続けてれば自然にわかるもんなんだなきっと。
Title: ポルシェ
2010.12.20 おじさんの話 先日おじさんが亡くなった。 おじさんはポルシェの神様と呼ばれたメカニックで、1964年に開催された第2回日本グランプリでは、練習走行でクラッシュし、誰も直せないほど大きなダメージを受けた式場壮吉のポルシェ904GTSを徹夜で直した。 そしてそのポルシェはGT2を制した。 おじさんはネジ一本でどこのネジかもわかったし、エンジンの音だけでどこが悪いかわかるそうだ。ポルシェの運転もものすごくうまかったそうだ。京都まで直したポルシェを納品するのに3時間でついたという逸話も残している。 今でも、ポルシェ・フリークの間では伝説のYメカニックとして語り継がれているそうだ。 おじさんは寡黙な人で、自分からそういう話をしないから、大きくなって周りからそれを知らされたときにはびっくりした。 そんなおじさんはうちにくるといつも車の話をしていて、小さいときはそれが全然おもしろくなくて、つまんないと感じていたけど、気づけばいつの間にか自分も車が好きになったし、大きくなるにつれ、いつも目をきらきらさせて車の話をしているおじさんはかっこいいと思ったし、自分もああやっていくつになっても目をきらきらさせていたいと思うようになった。 大学の時に自分がはじめて中古のワーゲンを買うときには、中古車のオークションにまでついてきてくれて、エンジンをあけて隅々までみてくれて、はやく車がほしいのに、おじさんは納得のいくものがみつかるまで妥協しなくて、毎週オークションにいってくれ、車を買うまでに3ヶ月以上もかかったこともある。 そんなおじさんの葬儀をしていて、なんか、いつも人前で法話とかしてるくせに、いざ火葬場にいったらいろんなものがこみ上げてきて、どうしょうもなくなって。 なんかえらそうに仏教だ何だと語ったところで、なんも意味ないじゃん、えらそうに人前で生だの死だの語ったって、自分一人どうしょうもないのに、なにが救いだ、くそう。と思った。 そんでこうやって人は宗教にであって、こうやって仏教にであっていくのかもしれないなと思った。 なんかおじさんを通して改めて自分自身の中にある仏教が浮き彫りになって、こういう経験をするたびに自分の中の仏法に血が通っていくのかもしれないと思った。 この想いを忘れないようにしようと思う。 そんでおじさんの残してくれたものを次の世代に必ず伝えようと思う。
Title: エルビー
2010.12.16
こうやって1日が終わって1週間が終わって、1ヶ月が終わって1年が終わかと思うと、やばいなぁ、残された時間ってそんなにないなぁとか思う。 ここ数年の時間の体感スピードは確実に、中学生や高校生のころとは違う。 あの頃の1週間のどんなに長かったことか。 流れている時間は同じなのに、意識だけでこんなに体感が変わるなんてと思うと、意識の置き方というのは本当に大事だなと思う。 先に先に先走る思考をすこし手の届くところにとどめておく術をもう少し学ばなきゃと思う。 そんでそこでできた余裕の中で、たくさんの誰かの中の自分のイメージの多様性の収束とそのぶれ幅をもっと小さくするための方法を考えたいと思う。
Title: ラグビーのこと。
2010.12.16 何の脈絡もなく思い出したことがある。 大学4年生の時、たくさんの新入生の前で部員勧誘も兼ねてラグビー部の紹介をする機会があった。学生時分でそんな大人数の前に立って話すのはものすごく緊張して思い返してみても、なにを話したかよく覚えてないけど、もしそこに戻れることができて、もう一度そこに立たせてもらえたらこう言おうと思う。 ラグビーはよく3Kと言われます。 きつい・きたない・くさい まさにその通りです。 どこをどうとっても汚いですし、それに痛いしきついです。 それに何よりもくさいです。部室なんか最悪です。 それにスクラムの中とかものすごい臭いです。 でも、それがどうしょうもなければないほど。 その思いを一緒に経験できた仲間というものは何にも代え難いです。 自分がラグビーをやっててよかったと思うのは、試合中でも練習中でもなくて、いつもその友達と一緒にあほなことをしているときです。 だからもし、そういう思いをしたい人がいたら。 ぜひ一緒にラグビーしませんか。
その時には自分でもわからなかった思いを、いまこうやって言葉にできたり、何年もたってあのときに自分の言いたかったことはこういうことなんだと反芻してみると、悔やまれることはたくさんあるけど、でもその時にうまく伝えられなかったという悔しい思いがいまの自分に繋がってると思うと、やっぱ人生は一度きりでよかったと思うし、楽しいと思う。
Title: わにみたいなもんだ。
2010.12.13
そんな反省をしていて思ったのは、人が成長をするときに、必要なのは「こだわり」なんだと思う。自分の中の「こだわり」を持論という武器にして、それをあちこちにぶつけてみて、刃こぼれしたり、たたき直しては、ぽっきり折られてはまた研ぎ直して、自分の手にぴったりくる形になるまで、自分の中の「こだわり」をたたきまくる。そんでもう身体の一部みたいになって、どこでもすらりとそれを使えるようになって、ある程度まで通用するようになることが大事なんだろうと思う。 でも今思うのは、 そこから先に行くときは、その武器を手放さなきゃなんだろう。 いうなれば、ある程度の段階までいくのには「こだわり」がどうしても必要だけど、さらにその先にいくには「こだわり」は邪魔になる。 これも一如。 メリットには必ずデメリットがある。 自分がいいと思ったもの、結果を出してきたものに胡座をかけばそこで終わりだ。 いくら研ぎ澄ましても、それを握っている限り見えない世界がある。 MHPにたとえるなら、弓で狩ってばかりいて、熟練してきたらそこに過信してしまうけど、太刀じゃなきゃ得られない素材があるということだ。 それと自分が胡座をかかないために必要なのは、やっぱり悔しがることだと思った。 年をとって著しく減るのは本気で悔しがることだ。 腕くんで、涼しい顔して、まあしょうがないよ。とかいうのはくそくらえで。歯ぎしりするくらいに悔しがれるようなところにいないと自分はすぐ怠けるから、これからもできるだけあちこちにかみつきながら、悔しい思いをしていこうと思う。 まえにまえに。 Title: 収穫
2010.12.08 少し遅めの稲刈りをした。 はじめて籾殻から苗を育てて、それを田んぼに植えて、ほんとにいろんな苦労をしながら無農薬で育ててやっと収穫。 ほんとに一握りの稲しかとれなかったし、お米もお茶碗一杯分にしかならないけど。 でも自分でもなんにもないところから米が育てられると言うことがわかったし、ほんとにこの1年、米からいろんなことを教わった。 アームストロング船長の言葉を借りるなら、 「この一歩は小さな一歩だが自分にとっては大きな一歩だ」 ということなのです。 来年は豊作を目指します。
Title: はーもにー
2010.12.08
なんとかっこいい台詞なのかと思った。 先日あるお坊さんが「後ろ指指されてもいいんです、これがいいことか悪いことかは今後の人たちが決めてくれますから」と言っていた。 なんか最近思うのは世論とか支持率とかはとても大事だけど、でも本当になにかを変えようとか、自分の思い描く世界を作ろうとしたときに必要なものは、なによりもその最大公約数と戦う覚悟と腰を据えて向き合うこと何だろうと思う。 でも少し前の自分なら、じゃあ戦いだ!戦だ。ホラ貝吹くぜ。かかってこいよとか思ってたけど。 でも今はそうは思わない、戦うとはイタヅラに敵を増やすことではなくて、多くの敵の中でも平然と強いていられる胆力を身につけることと、自分の手の届くところの人に影響をして、少しづつ味方を増やしていくことなのかもしれないと思う。 流れに逆らえばいつか力尽きる。 力尽きたらなにも変えられない。 流れがあるとしたら、そこにダムを造るような関わり方ではなく、そこにしっかり流れながらその流れを少しづつ変えていく、そんな風に世の中に関わっていきたい。 それと、例えば既製品のプラモデルを作れば1時間くらいで完成させられるけど、自分がプラモデルの原型を作り出したら、きっと何ヶ月もかかると思う。 なんか最近思うのは、自分の完成させたいものの多くが、とても時間のかかるものばかりで、せっかちな自分にはそれがどうにももどかしい時期があったけど、でも思うのは、自分がちゃちゃっと1年くらいで完成できちゃうものなんかたいしたものじゃなくて、それのもってる波及力なんてたかがしれているんだと思う。 いま自分の完成させたいものは本当に何年もかかるようなことばかりになってきて、時に気持ちが切れそうになるけど、そういうときにはじっと自分の気持ちの火を絶やさないようにして、細くでも自分の気持ちを切れないように保つ術も身についたと思う、その中で1つのことをやり続けていくことの大切さとか、その中でしか感じられない楽しさを少しづつ実感できるようになってきたと思う。 成功のコツは駄目な時をどうのりきるかというところにあるのかもしれない。 兎にも角にもここ数年で、だいぶ自分の扱いがうまくなってきた。 きっとまだまだこれからもっと、自分の扱いがうまくなるんだろうけど、でも自分をここまで乗りこなせるようになるまで30年かかったのかと思うと、なんとも自分という生き物ほど手のかかるものはないとか思う。 | コメントを書く (0) | Trackback (0)Title: ぼいぱ。
2010.12.07 忙しい忙しいといいながら、抱えているタスクをずらっと並べてみると、そうたいした仕事量じゃないということもある。 なんか年末なのもあるけど、気持ちばっかりが先走ったり、気をもんだりしてそわそわと落ち着かない上に、脳の回転がにぶっててどうも効率が悪い。 1つ1つを丁寧に片付けていけばいい。 あとはなるようになる。 と自分を落ち着けてみる。 さて、2年前になんにもない土地を耕して、種をまいて、畑を作り、ビオトープをはじめて、小屋も建てて、今年は田んぼもできて木登り用の木も植えて、おもいっきり泥遊びをできる場所もつくった。 正直言うと、はじめになんにもない土地を前にしてた時に見えていたものの数倍もいろんな効果があったり、いろんな関係に繋がったりしていて、その中で自分のやりたいことや、伝えたいこと、それがこうやって「見える化」されてきたような気がする。 来年からいよいよこの2年の経験と実績を使って、本格的に教育の真ん中に「実体験」をかかげていこうとおもう。ほかのどこにもまねできない幼稚園をつくってやる。 この1年で宗教に関わる上でも、教育に関わる上でも、いろんな人を見てきて、いやと言うほどいろんな種類のお坊さんや、教育者をみてきて、その中でいろんなものを取捨択一して、自分の中のこうありたい姿というのがよくわかった。 ああはなりたくない、ああはいいたくないとか、あんなことを子どもに強要しなきゃいけないなら幼稚園やめた方がましだとか、あんなことを言わなきゃいけないなんて、そんなのはもはや坊さんじゃないとか、いろんなところに悪態ついたり、文句ばっかりいってきたけど、なまじ文句ばっかりいってたわけじゃない。 いままではとにかくいろんな情報を手当たり次第に吸収して、いろんなところに顔出しては飲み明かして、自分の中に取り込んで、あっちにいったり、こっちにいったり、自分の中でのブームみたいなものに右往左往してたし、どうにも自分の立ち位置を決めかねていたけど、いまはもう、なにが自分には必要な情報で、なにがいらない情報なのかがよくわかった。 自分探しの終わりはなんとも、こんなあっけないものなのかもしれない。 結局人間は無理したって長続きなんかしない。 好きなものを見つけられればベストだけど、見つけられなければいかに目の前にあることを好きになれるかなんだろうと思う。 もう好きなこととやりたいことしかしない。 そんでその姿勢を一番の武器にする。 それをさせてもらえるすべてのご縁がありがたい。
Title: チャコペン。
2010.12.04 昨日お寺にきた方が、帰りに「それではよいお年を」と言って帰っていった。 まだ少し気が早い気もするけど、でもここのところあまりに忙しくて、すっかり日常とか時間の流れに実感が伴ってなかったけど、その一言で、ああもう今年も終わりなんだと思って、残りの日々をもう少し落ち着いて味わわなきゃと我に返った気がした。 それと、ある人が「私もう、あらかんですから」と言っていた。 あらかん・・・あらかん・・・ 阿羅漢・・・ 阿羅漢って・・・もしやこの人は千日回峰行でもやりとげたのかと思ったら、あらかんとは、アラウンド還暦のことだそうだ。アラサーみたいなもんでアラ還だそうだ。 南無。 * 忙しいときは、暇にしている人にイライラして、暇なときには、忙しい人をみて、もうすこしのんびりすればいいのにと思う。 ほんと自分ってば凡夫だな。 南無 * なんか、やっぱ熱い人のもってるパワーというのはすごいなと思って、自分はそういう人が好きなんだなと思う。 周りが熱くなってる時に熱いことをいうのはたいしたことないなと思って、できれば周りの誰も熱くなってないのに、しれっと熱いことを言えるような男になりたいと思った。 そういうのってかっこいいなと思う。 口火になれるくらい熱いじいさんになろう。
* 最近思うけど、最大公約数のくくりで議論して世論に迎合するのは、ナンセンスなんじゃないか。特にお坊さんはそういう議論の進め方をしてはいけない気がする。 最大公約数の人が迷っているから、そのために仏教があるんじゃなかろうか。 南無 * ちゃこぺん 南無 * まもなく今年が終わる。 そんでまもなく31歳になる。 としくった。 南無 * 狩りまくり。 南無 * 人生を楽しむぞ。 南無 * 漫画を貸してくれてありがとう。 | コメントを書く (0) | Trackback (0) |
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