Title: nacio-
疲れのせいなのか、それとも気候のせいなのか、眠くてしょうがない。気を抜けばいつでも寝れそうなのに、でもいざ寝ようと目をつぶると寝付けない。
どどどっという表現がぴったりなくらい、日常が押し寄せてきて、捌くだけも精いっぱいなのに、軽くいなせないような問題が次から次へやってくる。
最近、はっきり気づいたのは、仕事の内容や、まわってくる種類が、確実に数年前とは違うということ。そういう年になったんだ、ということを任される仕事を眺めながら気づかされる。
自分はやっぱり人に関わる仕事が好きだし、目に見えないものを扱う仕事が好きなんだと思った、信仰とか教育とか、自分の感性とか想いとか、そういう漠然としたものを、目に見える形にしていくという作業が好きだし、向いてるんだと思う。そういう仕事はどんなに立て込んでも苦しくない。
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そんな中、はじめて裁判所に提出する意見書というものを書いた。
詳しい訴訟の内容はさておき、同一性保持権と信仰ということについて、そして、お寺の存在意義について。
この意見書で、判決が大きく左右されることはないかもしれないけど、自分にとって、こういう機会でもなかったらここまで、ちゃんと向き合って考えなかった問題かもしれない。
今回のことで強く感じたのは、お寺があり、仏像があるから、そこに信仰があるのではない。信仰があるところに、お寺があり、仏像があるんだ。
この順番が逆になってしまった、それは形骸化されたものになってしまうし、お寺の存在意義とはずれてきてしまう。
もっといえば、坊さんがいるところに教えがあるのではなく、教えがあるからこそ、坊さんがいるんだ。
ひさびさに脳みそ沸騰するくらいいろんなことを考えて、夢に出てきてうなされるくらい、信仰というものについて考えて、自分自身の足元を確認するいい機会をいただいたと思う。原点とか、「そもそも」ということを再認識するということは本当に大事なことだと思う。
しかし、今回こういう形で文章を書いてみて痛感したのは、いかにいままで自分が、なににも縛られず制約のないなかで、自由気ままに文章を書くことになれすぎていたかということだ。
文法も「てにをは」も勝手に好き勝手書いてる時は、そんなに意識しないけど、今回誤字脱字はもちろん、正しく「てにをは」と文法を使うこと、さらには、いかに簡潔にわかりやすく書くか、ピンポイントで読む人を意識して、1つの目的をもって書く文章が、こんなに難しいとは思わなかった。
でもそう思えてよかった。
また書くことが楽しくなった。
はじめてサイトをつくって、こうやって好き勝手なことを書き始めて、今年でちょうど10年、今回のことはありがたい気づきだったと思う。
でも自分のために書くときは、できるだけそういう制約なしで好き勝手に書きたいけど。
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今回の選挙をみて、率直に感じたのは、
幸せの押し売り合戦みたいだなと思った。
こっちは、これあげますよ!
じゃこっちは、それにおまけつけます!
みんなのために!
国民のために!
そんで選ぶほうは、幸せの選択合戦。
自分の生活にプラスになることが豊かで、幸せであることなんだと思いこんじゃうし、そもそも知らないうちに、さも二者択一のなかから、選ばなきゃいけないかのように刷りこまれる。
国民全員が選挙をボイコットしたっていいのに。
ここでも「そもそも」が大事なんだと思う。
政治はなんのためにあるんだ。
国とはなんのためにあるんだ。
国民はなんのためにいるんだ。
豊かってなんだ。
幸せってなんだ。
いまの日本は、神風もびっくりだ。
本末転倒の極みだ。
POSTED @ 2009.08.30 |
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