• PHOTO最終更新日2010年10月11日



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Title: 土脉潤起

こんなに本格的に雪がふったのはいつぶりだろう。

寒いのは苦手だけど雪はいい。雪が降らないと思いだせないことや雪が降らないと感じられないことがたくさんある。

あたたかくなったり急に冷え込んだり、温度差があると人間の体にはやっぱり目に見えない部分でもたくさんの負荷がかかってるんだと思う。温度差があったり、俗にいう季節の変わり目には亡くなる人が多い。お寺にいると本当に肌で感じることの1つに命と気候や季節の関係というのがある。ああこれは通夜葬儀がはいるだろうなという予想は大方外れることはない。

お寺にいてそういうことを肌で感じて、たくさんの人の死に立ち会ってきてるとはいえ、数日の間に、何人も親しかったおじいさんやおばあさんが亡くなっていって、この間笑顔で話したばかりの人たちの死を目の当たりにすると気持ちの整理をつけるのに時間がかかる。

人は誰かの死を通してしか死というものを肌で感じることはできない。死を目の当たりにするたびにああ人間は確実に死ぬんだなと当たり前のことがお腹の中にず~んと響いて、そのおじいさんやおばあさんが亡くなっても世界は何事もなかったかのように回っていくことになんか、つめたい水を頭から浴びせられたような気分になる。

原始仏教の経典の中で仏陀は妄想という言葉をよく使う。

生きていると日々の生活のことや、仕事のことや、友達のことや、大切な人のことや、ほしいもののことや、おいしい食べ物のことや、そういうことばっかりを考えて生きている。でもそれは一種の妄想の1つであって、そういうことを考えているということは同時に自分自身や、生きているということ、命とか、簡単にいえば生老病死の根源的な問題に向き合っていないなによりの証拠だという。確実に目の前に迫っている問題を素通りしてるにすぎないという。

これをすぐには腹からわかることは難しいけど少しづつその言葉に質感を感じることができるようになってきた気がする。

どんなに着飾っても、若くても、楽しい仲間に囲まれてても、大好きな人がいても、いつかは病気になって老いて死んでいく。

バブルの時代にはダンディーで羽振りも良くたくさんの仲間に囲まれていた人も、いまは口からよだれをたらして、つえをついて、デイケアの人に付き添われてしか外に出られないとか、夫婦仲良くおしどり夫婦で幸せでも、奥さんが痴呆になって施設に預けていまは一人で暮らしているおじいさんもいる。そういう人生の過程をたくさんまざまざとみると、本当に世界は無常だと思う。泣きたくなるくらい世界は無常だと思う。

でもそれが人間だし、それが生きていくということなんだと思う。どんなにきれいごとをいっても最後は白骨になっておしまい。そんだけなんだなと思う。

世界が無常であるということを嫌というほど見せられれば見せられるほど、今という時間、今という瞬間がどれだけありがたいことで、幸せなことなんだと気付かされる気がする。

今はもう明日にはない。

人の死を通して自分の中に生死の問題をしっかりと見つめることが自分の職業であり仕事であるとほんとうに最近はお腹から思える。

「あわれというも中々おろかなり。されば、人間のはかなき事は、老少不定のさかいなればたれの人もはやく後生の一大事を心にかけて・・・」

寒さと白骨の御文が身に染みる・・・蓮如さんの言葉は本当にストレートだ。

思うに仏教はある種クールダウンともいえるような気がする。

なむなむ

POSTED @ 2009.02.27 | Comment (0) | Trackback (0)

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  • 自己紹介:1980年1月9日生まれ。どこからを趣味と呼んでいいのかは模索中。好奇心は旺盛。