• PHOTO最終更新日2010年10月11日



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Title: 今年終わり。
2008.12.31


もうすぐ2008年が終わる。

1年を振り返ってみて最後に思うのはやっぱありがとうです。

今年もつくづく自分は1人じゃなんにもできないなと思いました。

ありがとう。ほんとに。


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Title: アメよこ。
2008.12.30

年末がきたなぁと肌で感じるためにアメ横にいってきた。もう満員電車なみのメイン通りを押し合いへしあいしながらも中トロのブロックと明太子と酒の肴を購入。

別に同じものは買えるんだ近くのスーパーでも。

でもそれじゃ風情がない。あの活気の中で人ごみにもまれながら、心地よく疲労をしながら買うということに意味がある。

ソウルフードならぬ自分なりのソウルシチュエーションですよ。最近になって忘れかけてるけど自分の中にこびりついてるような、昔よく親戚やおじいちゃんおばあちゃんにつれられてきたところとか、毎年あった何気ない風景とかにものすごく感情移入してしまう。

さぁ今日は1日のんびりして年末年始に備えます。ゆったりと年が越せるな。と思いつつも毎年12時まで起きてられないここ数年。

今年はもうすでにお墓にはお花がたくさんあがってます。最近はよくお寺離れ宗教離れというけど、こういうのをみるとなんとなくほっとする。

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Title: 報恩感謝。
2008.12.29


今日でおじいちゃんが死んでちょうど7年になる。もし生きていたらと思うことはたくさんあるけど、あのタイミングで亡くなったから今の自分がある。

おじいちゃんの書いたものや残した言葉の1つ1つにもっともっと質感を感じられるようになりたいとこの7年で何度も思った。まだまだだけど少しづつそれを感じられるようになってきたとは思う。

本当に自分というものはたくさんの死の上にあるんだなぁとつくづく感じる。そしていつか自分の死の上にもたくさんの命が乗っかっていくんだろうな。本堂でお経をあげていてなんとなくそんなことを思った。

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Title: じぶんのことば。
2008.12.29

先日ある集まりの中で宗教を扱う何人かの人たちと話をした。死刑制度について陪審員制度について。依存と宗教の関係性。カルトとはなにを指すか。

その議論の1つ1つの内容はさておき、たくさん話をする中で感じたこと、「自分の言葉」というものを使える人とそうでない人というのがいる。

自分の中にある感覚を言葉にする時に、へんな擬音が混ざってもいいし、幼稚な例え話でもいいし、自分の感覚をできるだけなにかにおき変えずに摩擦の少ないままだそうとするということはものすごく大切なことだと思う。

きっと文章にしたら伝わらないかもしれないが、その瞬間、その人からでるなにかがその場にいるみんなの心を打つということは往々にある。

そういう言葉を使えるということはものすごく大切だと思う。こぎれいにまとめようとしないで爆発するみたいに言葉をはきだすこと。

仏教を学べば学ぶほど文章で何かを伝えるということには限界があると思う。目を見てたった20分で分かり合えることが文章にするとどうしても分かり合えないことがある。その間にあるものが人間の魅力であり奥深さであり、そこから「自分の言葉」が生まれる。自分の言葉っていうのは自分にしか生み出せない言葉、間とか音域とか、空気の吸い方や吐きかたまで。その目に見えないなにかを意識的に自分の中で落としていきたい。

意識的に。

自分の中にわいてくる怒りやいら立ちやもやもやとか、ぜんぶを凝視して意識してそれがなんなのか暴き倒してやりたい。そんで自分がなんなのか、自分の中になにがあるのか、そんでどこにいきたくてなにがしたくて、人間ってなんなのか、答えは出なくてもいい、一ミリでも前にでたい。いまは考え付かないような感覚を感じたい、あの頭をがつんとたたかれてぱぁと心がじんわりするような感覚をまだまだ何度も何度も味わいたい。

自分は考えても考えてもわかりそうになっても、するすると逃げていくようなものに興味を持つことができて、考えるのが楽しくてしょうがないようなものを見つけることができて最高に幸せだとおもうし、それを胸をはって仕事だといえるというところに生まれることができて最高に幸せだと最近つくづく思う。人間はおもしろい。

まえにまえに。


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Title: 夏ミカンをぶつけてみた。
2008.12.26


この時期になるといつも自然といままで書いたものをざっと読み返す。読み返すことで自分の歩いてきたことや考えてきたことの過程をたどる。そしていまの自分が足踏みしてないことに安心をしたり、時間のなさに焦ったり、自分の小ささを反省したりする。

リベラルとか保守とか。自分らしさとか、誇りとか、プライドとか、かっこいいとか。

そんなものに頑なな自分の言葉を読み返してみて、ここ数年で自分の中で変わったなと思う部分は、変わるものは守ろうとしても変わるし、変わらないものは変えようとしても変わらないと思えるようになったこと。

自分が意識的に守れてるとか保ててるなんてものはいつだってなくなるようなあやういものでしかない。それが流れでそれが移ろいでそれが出会いで別れでもあるわけで。自分がいくらがんばっても自分の中にある流れや今の自分の周りを取り囲むすべての要因をひとつづつ変えることなんてできない。

あがいてもうけいれても、最後は人間死ぬだけで、慈善事業をしてても、世界の経済を動かしてても、一人でもたくさんの人に囲まれてても、がんばってもがんばんなくても。さみしくてもさみしくなくても。

最後はたった一人ぼっちで、最後の最後に笑えるかどうかは自分次第だから、だれかに笑わせてもらわなくても、いつだってこんな自分に笑える自分でいたいと思う。


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Title: へのつっぱりにも。
2008.12.26

人間にはいろんな側面がある。

全部をみんなに理解してもらうなんてことは無理だし、同時に自分の目に見えてる一面なんてほんの一部でしかない。

何年付き合っていても、相手のたくさんを知っているつもりでも、それが全部だなんてほど人間は単純じゃないしだからおもしろい。それなのにみんな自分の目に映る一瞬や一面や一言やそんな場面をつぎはぎしただけでその人のイメージをつくる。

人も自分もそう。

つぎはぎした場面だけで出来上がったイメージの中で生きる中で、自分自身が後付けでそのイメージになってしまうことだってある。でも世の中そんなもんなんだっていうことに、なんてことなしに思えればいい。

変わった。なんてのは見せる面が変わっただけで、そもそもその人が持っているものにすぎないし、なんにも変ってないんだと思う。むしろ自分に見せてくれる面を変えてくれたってことはうれしいことだと思う。

変わるといえば人は常に変わり続けてると思うし、1日1日でも自分の中にあるものに何かが乗って、なにかが削られているわけで昨日と今日も、今年も来年も、おんなじ判断基準なんてどこにもないのに、なんとなく妄想された自分を自分でつくりだしてかってにそこをさも正しいかのような価値基準を生み出す。

いままでと違う面がみえたときにドキドキしてわくわくするのが人間関係で、みせる面が変わったくらいで一緒にいるのがおっくうになるような人なら一緒にいないほうがいい。

いつだって自分の中にある世界は本当に小さくてなにもみえてなくて、自分の思う正義も善も、夢も希望も矛盾も絶望も。

ぜんぶがへのつっぱりにもならんですよ。

たいしたこたない。

そうおもえたら世界はものすごく広くて自由なものなんだと思う。

あなかしこあなかしこ。

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Title: 年の瀬
2008.12.24

時代や社会の思惑からドロップアウトした人や言い方は悪いけどそういう求められているものに矛盾やずれを感じて、そして社会に不適合といわれはみだしものみたいな扱いをされる人がたくさんいる。いつの時代にもそういう人はいる。

天皇陛下万歳の時代にこんなことをして日本が勝てるかと叫んだ人や、エコノミックアニマルになれなかった団塊の世代やひきこもりも登校拒否もホームレスも。

そういう人に時代や社会や常識はそういう人には価値がなくてそうじゃないことの方がいいことなんだと口々に言う。それを聞いてみんなああはなるまいと必死に社会や規範や常識にしがみつこうとする。あれはだめなやつだ。ああなったら終わりだと必死に食らいつこうとする。

今年1年を振りかえって感じるのは、みんなそうやって食らいついて、社会や規範についていこうと頑張ってきた人たちに限界がきたみたいだ。今年1年でアメリカのテロの犠牲者の10倍以上もの人が自殺してる国がまともなわけがない。

きっと日本人はがんばりすぎたのかもしれない。がんばって歯を食いしばりすぎたのかもしれない。耐え忍ぶことは日本人の誇りなのかもしれないし、民族性なのかもしれないけど。人一人の心が耐えうることのできる現実を超えたのかもしれない。

思うに、がんばってがんばってもどうにもならないことがあるってことや、自分の力でいくら抗おうとしても変えられないことがあるということをしっかり認識することは大事だと思う。実際よく考えればすべてが思い通りになって今がある人なんていないはずだし。でもその現実を悲観してあきらめるのではなく、そんなどうしょうもない自分をしっかり認めてこの社会には適合できないなぁってしっかり理解しればいいんだと思う。

あらがってもあらがわなくても、目の前にはいいことも悪いことも普通に起きる。考えても考えなくても自分の目の前に起きることはいいことばかりではない。考えたらすこしでもいい方向に進むかといえば必ずしもそうじゃない。

人生は思い通りにいかないことのほうが自然なんだということを知った時にはじめて、自分はいろんなものから解放されるんじゃないかと思う。おもうにそこではじめて自分は無限で自由でなににもしばられないんだって心から思えるんじゃないかと思う。

安穏で平穏であるということは、手を離すってことだと思う。戦わないということだと思う。

そう思ってるのにそんなことしてたら飢え死にしちゃうぜ。社会不適合では飯は食えないぜ。そんなこといっても家族や恋人はどうすんだってきれいごとじゃ生きてはいけないぜ。

ってすぐにいろんなものが自分にのしかかってくる。

でも究極そうやって生きていこうと思って生きること、先とか後とかに意識をおかずに今をしっかりみつめて今できることだけをしていく、もしそれで失うものがあるとしたら、きっとそれはいつか自分を苦しめる一つの要因なんじゃないかと思う。

必死にがんばっていなきゃ手におさめておけないものは手放してもいいんじゃないかと思う。

きっとたくさんのものを失っても、なんにもなくなっても、周りからなんていわれようと、誰よりも安らかで誰よりも安穏で平穏で幸せなんじゃないかと思う。

頭であれを失ったらああなってこうなって、きっとみじめで周りからああ思われちゃう。なんてことはただの妄想の一つでしかない、妄想にとりつかれて物事を正しい目で見れないのが人間。

そんな自分に気づけるかどうか。

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Title: Winnie the
2008.12.23


大きな仕事が何個か片付いて少し時間ができたので。

ituneの中の曲を整理して、インターネットのお気に入りのサイトを整理して、ついでにデスクトップに散らばってるファイルをまとめて、予定を手帳に書き写す。まだ読んでない本をひとまとめにして、ばらばらになってる漫画を全部そろえ直して、ついでに部屋の模様替えなんかしちゃって、観葉植物の植え替えなんかもして快適になった部屋で買ったままで開けてないDVDと本で夜長を過ごす。地味だけどこういう作業はほっておくと知らぬ間にどんどんたまっていってて無意識に心に負荷をかけてくるので、できるときに片づけておくに限る。

こういう地味な目に見えないような細かい要因の積み重ねが自分の環境をつくる。なんとなく気乗りしなくて文章が書けない時もこういう目に見えないものが積み重なったことが少なからず原因になっているんだと思う。

少しづつ少しづつ。でも確実に今年という時間が少なくっていく。街はそわそわしはじめて、イベントに追われてみんな忙しくあっちこっちへ歩きまわる。意識も少し先少し先へと意識が先に先にいってしまいがちな時期だからこそ、今この時間にできるだけ意識をとどめて大事にできたらいいと思う。

そんなことを考えながらなんとなくふと思い出した言葉

「なにもしないんじゃない。なにもしてないことをしてるんだ。」うるおぼえだけどクリストファーロビンのいなくなった森で言ったぷーさんの言葉。

大事だよねこういう発想は。ただ実践できるかといえばそうじゃないけどさ。

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Title: あおくさい。
2008.12.12


おなか周りすっきり。

体重も3キロ落ちて。

体脂肪率も5%落ちて。

ダイエットが成功したのはいいんですが。

ものすごい膝が痛いです。

しかも飲んだ後に夜風に吹かれながら散歩をしていると激しく痛みます。ものすごい最高な時間なのに膝のせいでおじいちゃんみたいな歩き方になります。

これ絶対膝の皿が割れたと騒いでるのに誰もとりあってくれません。

はいはい。大袈裟。盛りすぎ。で片付けられます。

まあ実際のところ盛ってますけど。だって盛った方がおもしろいんだもん。なにごとも大げさなくらいがおもしろいしその辺はご愛敬ですよ。

ところで最近、というかここ1年自分なりに学んできた中で思ったのは、これこそいやいや今さらですかといわれそうですが。

自分が好きなものは青臭いものだ!ということです。そんで自分を動かす原動力もそこなんだということです。

そんな自分を押し込めようとしたりなにかに昇華させようとしたりして1年をすごしてみたけど、でも1周して確信ですよ。

やっぱ人間好きなものは好きだし、理屈よりも青臭さですよ。それは自分の中の大事な部分みたいです。

青春とか恋とか月9とか。

青臭くて笑っちゃうようなものが大好きで、みんなでわいわいするのが大好きで、馬鹿な話で盛りあがるのが大好きです。熱いものが大好きです。ドッキリとか大好きです。というよりも好物です。

そんなことばっかりに囲まれて楽しいなぁといいながら生きていきたいです。

実年齢と精神年齢の差に開きがあったっていいじゃん。

立場とか責任とか環境とかそういうもので自分にも気付かないうちに小さな化学反応みたいなものが自分の中で起こっていたのかもしれない。

そんでその液体が爆発してドリフのコントみたいに真っ黒でアフロになって口から煙を吐いてそんで振り出しにもどるようなもんだ。

生きていく上で成長する上で立ち位置はそんなに重要じゃないみたいです。

どこにいてもなにをしていても歩いても歩いてなくても成長はできるみたいです。

まぁしかしまとまりのない上になにが言いたいのかわからない文章だ。

まあいいか。

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Title: 食味
2008.12.10

いかに目の前にあることに意識的なれるか。少し先でもすこし前でもなくこの一瞬にどれだけ意識をもってこれるか。刹那的だということは言い換えればものすごく瞬間に意識を置いているということなんだと思う。

食べることも口に入れた食べ物に意識的になるかならないかで味は全然違うし、食べ物に対する気持ちも、食べ方だっていままでとは劇的に変わる。食べるということに意識的になればなるほど日本料理のすごさとか深さに気付かされるような気がする。味わうと一口にいうと簡単だけど味わうという言葉の持つ重さはいままで自分が思ってたよりも重いということに気づかされた。

ほんとに食べ方っていうのはものすごい重要だ。

せっかく素材の味を最大限に引き出せるように作ってくれてるのに醤油をたくさんつけたら台無しだし、一つ口にいれて味わう間もなく次のものを口に入れるなんてのはありえなし、意識的に食べられるようになってはじめて到達できるうまい料理というのがあるんだろうな。

むしろ正しく食べられないうちはきっと本当にうまいものにであっても気づけないのかもしれない。目の前を仏陀が通り過ぎても何とも感じなくてただのおっさんだと思ってやりすごしてしまっているようなもんだ。

意識的になる。たったそれだけでいろんな感覚が一変する瞬間がある。自分がかわることでこんなに世界が変わるんだと思ったら、ものすごくいろんなことが楽しくて魅力的にみえる。

よくどんな道にはいるにしても型というものを大事にするけど、型というのははじめはなんでこんなことを何度もやらされるんだと思うかもしれないけど、型に血がはいってはじめて形になるとお茶の先生がいってたけど、作法や所作というものに込められているものっていうのは、どれだけその瞬間に意識的になれるかということなんだと思う。

それこそ食べ方もそうだけど、そういう一つ一つのしぐさや動作を一つの形として形式化してまとめるという文化をつくりあげた日本は本当にすごいと思う。やっぱり日本人ってのはすごい。

思うにわびさびもそうだけど、日本の文化の根底にあるものは、やっぱり意識の置き方が瞬間的であるということなんだと思う。今の重みをどれだけ感じることができるかというのは日本では大切にされてきたんだろうと思う。そうじゃなければ生み出されない言葉が日本にはたくさんある。

なんてことをダイエットをしながら思った。

ああおなかすいた。

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Title: 裁判員制度
2008.12.07


裁判員制度が始まる。自分の身の回りにも何人か裁判員の通知書が届いた。

法治国家ですから人が人を裁くことにいまさら反対してもどうにもならないけど、その小さな苦しみの火種みたいなものを国民中にばらまかなくてもいいのに。人が人を裁くということが人間の心や価値観にどんな影響を与えるかということにもっと深く疑問を持たなくていいんだろうか。

さも自分は正しい人間であるかのように人を裁くこと。そして人を裁いたことに対してあれはあれでよかった。しょうがないよあの人は裁かれて当然となんの疑問を持たなくなることの恐ろしさ。

あの人は死刑になってしょうがない。自分は正しい。自分の価値観は正しい。あいつは悪者。

そんな考え方や価値観が蔓延していくのがものすごく怖い。

この制度が始まってしまった以上は裁くということだけが価値観やなにかの基準に照らし合わせられて淡々と作業的に進められるのではなく、せめてそこに携わった時に、裁く側と裁かれる側を隔てるものがなんであるのかということにもしっかりと目を向けられるような制度になってほしいと思う。

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Title: さいごのとりで。
2008.12.06


やっぱブルーハーツはすごいなぁ。

自分がふわふわと漂ってるといきなり目の前に現れて頭をがつんとなぐって冷たい水をぶっかけて去っていくようなもんだ。

自分の原点はここだと心底思える。それにあの頃から何百回何千回と聴いたこの音と声は間違いなく細胞レベルで自分の中に溶け込んでるんだと思う。

もちゃもちゃとぬるいことばかり考えはじめるとなぜかいいタイミングでブルーハーツが流れてきておいおいおまえさんどこへ行くんだいといっているような気がする。

くそったれ。

ありがとう。

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  • 自己紹介:1980年1月9日生まれ。どこからを趣味と呼んでいいのかは模索中。好奇心は旺盛。