Title: Engaged Buddhism
たっぷりはった熱めのお湯にとびこんで、両手で顔を洗う。
ウーともヴゥーとも似つかない声を絞り出して、今回の旅は終わり。
遠足は家に帰るまで遠足ですといいますが、遠足はお風呂に入るまでが遠足です。ある登山家が、なぜ山に登り続けるんですか?と問われ、下山して帰ってきた時の風呂が最高に気持ちいいからといっていたけど、その気持ちがよくわかる。
今回、タイのチェンマイにある、マハチュラコン大学の建てた、MeditationCenterに籠ってきた。世界各国タイ、ミャンマー、ネパール、スリランカ、インド、チベット、ブータン、ラダック、韓国、中国をはじめ、たくさんの上座部のお坊さんや、各国の在家信徒の人たちと生活を7日間生活を共にしてきた。
毎日瞑想三昧で合計何時間瞑想したんだろうか。言葉にすると安っぽくなるから、その辺は熱をもって話したいので、face to face で話すとして(ここの話だけでそうとうおもしろいよ自分でいうのもなんだけど)
本当にこの7日間、自分の意識の置き方、日本の抱える問題や各国の抱える問題とそれに向き合う気持ちとか、ほんとうにいちいち金槌で頭をぶんなぐられるような感じだった。
アージビカ教の話とかミャンマーの現状や、インドのカーストの話や、津波の後のいまのスリランカの現状とそこで活動する人たちの想いとか、タイ仏教の現状やチベット問題についてとか。日本の抱える自殺の問題とか、ほかにもかききれないくらい。
たくさんの話をリアルにきいて、テレビのニュースがもう自分の中ではただのニュースじゃなくなった気がした。
そして今回一番強く感じたこと。
やっぱり仏教は実践なんだ。
実践というと、社会的な活動とか、どうしても物理的なものばかりが取り上げられがちだけど、そうじゃなくて。進むべき道に悩んでいた自分にインドネシア人が、自分のノートにある言葉を書いてくれた。
buddism is being not only doing
いまここ。
いまここにいる自分と心。
世界の抱える問題の前線で、活動を続けるたくさんのお坊さんたちや信徒の人たち、自分のつたない英語をちゃんと最後まできいてくれて、真剣に目を見て話をしてくれて、誰ひとりとして、日本からきた若造の話を聞き流してる人がいなくて、(むしろ聞き流してほしい時もあったのに)そんな姿勢1つ1つに、仏教のすごさというか、実践することの大切さとか、そんなものをまざまざと見せられた気がした。
実践とはあくまで自分の中にどう落としているかどうかということなんだろうと思う、それさえできていれば、どんな行動でもそれはEngaged Buddhismになるんだろうとおもう。
熱は高いところから低いところへ流れる。
今回、自分が誰かに熱をわけてあげられたかはわかんないけど、いま自分の心の中はものすごくあったかいし、たくさんの熱量と気持ちと、経験と意識もって帰ってこれたと思う。
きっとこれから先の自分の人生の中で、確実に自分の核をつくる要素になるであろう大事な想い。自分の進もうとしていた道や目指していた仏教の道の先に曇っていた霧がすこしはれた気がした。さぁと背中を押された気がした。
たくさんの宗教や人種、それぞれを取り巻く環境や立場があるけど。
やっぱりみんな一緒なんだよね。
なに人でも、笑ってて泣いてて怒ってて。
だから答えだって1つなんだと思う。
今回の旅はこれで終わり。
ただいま。
これから時間をみつけて、この旅の間に描きためたメモを反芻しながら、大切なことからどうでもいいことまで、少しづつ切り取って書いていこうと思う。
POSTED @ 2009.11.17 |
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