|
Title: L缶
2010.02.26 朝家をでる時間に、空が明るくなってきて、春は確実にそこまできてるなと感じる。この生温かい風がに吹かれてると、いろんなものがふわっとほぐれる気がする。 はるよこい。 こないだ悶々といろんなことを考えているときに、なんかいろんなことがバタバタとやってきて、体が疲れてたり、負な気持ちにとらわれているときこそ、自分の中から生まれてくる言葉や感情は、すごくクリアでリアルだなと思って。 それはきっと、どこかに逃避を求めてたり、なんとかその思考を断ち切ろうとして、そこに反作用する力が、現実をリアルに見せるんだろうと思った。 どうでもいいやというくらいの開き直りが色眼鏡を外させて、どうにでもなれという気持ちが、フィルターを通さずに現実を見せるんだろうと思う。 いうなれば、究極に負にとらわれてる自分の見えてる世界は、瞑想しているときに見えてる世界に近くて、覚悟を決めて家を出た時にみえた景色とも似ている。 人間ってば、意識の置き方でこんなにもコロコロ見え方のかわる世界に住んでるんだな。とか思ったりするわけです。 | コメントを書く (0) | Trackback (0)Title: 心の救急車。
2010.02.25
ベストがでたんでさっそく買ったんですね。 全曲、擦り切れるくらい聞いてるのに、また最近車の中でひたすらブルーハーツを聞きまくっているわけです。 いやしかし。 やっぱ自分はブルーハーツに支えられてきたといっても過言ではないなぁとか思っちゃうくらいに朝から、ぐっときて鼻血が出そうなくらい。 しんじまえとののしられてこのばかとひとにいわれて。 うまいぐあいによのなかとやっていくことができない。 れっとうせいでじゅうぶんだ。 でもいま自分はどちらかといえば、最近、死んじまえともこのバカとも言われなくって、うまいぐあいに世の中とやってるわけです。 かといって優等生かというとそうでもないわけで。 昔はこばてぃ(担任の先生)に、お前まだ学校にいたのか。はやくやめてね。とか、お前に人の怖さ教えてやるよとか。バカだのなんだの、しまいには、学歴のない奴は社会では誰も相手にしないぞなんて台詞でぶちきれた自分は勉強なんかくそくらえだとおもったわけで。 今思えば、ほんとにあそこの先生たちはすごかったな。いまどき漫画でも辞書で生徒をなぐる学校ないぞ。ほんとなんだったんだあの日々は・・・たまに夢でみるくらいだからな・・・いやほんと懐かしい日々だ。 なんか卒業してからなにか、世の中ぬるくて物足りなかったり、自分を極限に追い込みたくいなったりする衝動に駆られたりするのは、あそこに原点があるんだろなきっと・・・ でもいまとなってはよかったと思う。あの時期をあそこで過ごしたことで、大抵のことは耐えられる精神力が培われたんだろうし。まあ同時に失ったものもたくさんあるんでしょうが・・・ そして今や、自分もこんな中途半端な大人になってしまったわけです。 へけけ。 なんの話だっけ。 そうそうブルーハーツが胸にしみるばいって話で、あの頃を支えてもらいましたって話。 Title: 手を握る。
2010.02.24 一度狩りというものがしてみたいと思っていて。 先日ぽかっと1日休みができたので、初心者の自分が狩りなんてできるんだろうか、ましてやこの時期に・・・と心配だったものの、いろいろ調べた結果、狩りをさせてくれるという所を見つけたわけです。 リアル狩りです。 都内から車を走らせること数時間、いろいろな事情があるので、狩りの様子や内容は、詳しく書けませんが、某県某所の山の方へ向かいました。 そして狩りを開始しました。 ピリピリとした空気の中で、狙い澄まして獲物を狩るわけです。 ちょっとリアル過ぎて不適切な表現ですが、駆り立ての肉は新鮮なんで、生で食べれるんですね・・・駆り立ての獲物の肉を、むしゃむしゃと貪ったんですが、これがうまいのなんのって。口のまわりは真っ赤で、まるで悪魔の儀式みたいでしたが、これはやばいですよ。やみつきです。 これを食べたらもう店頭にでパックになってるものなんて食べられないです。 まあ、今回狩ってやったのはいちごなんですけどね。 * そんで先日、セグウェイにも乗ったんです。前々から乗りたい乗りたいといっていたんだけど、やっとその機会に恵まれまして。 これまたまじすごいです。未来の乗り物です。 あれに内蔵されてるジャイロも、センサーも制御システムも、信じられないくらいすごい。これは口ではなかなか説明できないけど、いままでに味わったことない乗り心地です。 ほんとにそのうち、アキラでマサルが乗ってたような乗り物ができるんじゃなかろうか。 でも問題は重力なんだよな。人間が重力から解放されるような、いうなれば反重力装置みたいなものはできないんだろうか。それが発明されたら、いままでの文明は全部がひっくりかえるくらいの変貌をするだろうに。死ぬまでの間に、できないかなぁ。 でもなんか、ああここまで技術が進化してるなら、人間が機械に制御される日もそう遠くないんじゃないだろうかという気にもなる。 なにがいいんかわるいんか。 とまんないんだ人間は。 とまらないからこそ、そこに反作用の力を生みだすんだきっと。 * まだ薄暗いうちに起きだして、東関道を走っていたんです。 それをぼけ~と眺めてたら。 ああ、今日も世界は回っていくわけだ。 とか思ったわけです。 そんで、毎日毎日ず~とこれが繰り返してるだけなんだなと思ったわけです。 昨夜にいいことがあった人にも、悪いことがあった人にも。 平等に、ただ淡々と。 * 一如という言葉の意味がやっとお腹に落ちてきた。裏も表も別じゃなくて、両方で1つのもので、ほとんどのものは、すべてあって1つのもの。どこかだけとりあげて、あれとこれを比べるのは違うわけで。 * 習慣は人を作ると思う。 だから無意識でも意識的でも、習慣づくということは恐ろしいことだと思う。 こないだ、秋葉原の携帯売り場へいって、携帯かえようかなぁ・・・iphoneほしいなぁと思って、お店の人に色々話しを聞いてて思った。 あんなに人と話すことをマニュアル化しなければ、こなせない量の仕事の中に身を置くということは、大変なことだなぁと。 仕事だとはいえ、人と話すということを、あれだけ淡々と進めていくことを習慣にしてしまうと、知らず知らずのうちにコミュニケーションに対する考え方や、そこにある意味や本来の意図が、みえなくなっちゃうんじゃないだろうかと心配になる。 会話はロジックじゃないのに。 もっと深くて楽しいものなのに。 きっとああいう習慣がつくと、いまは誰とも話したくない・・・と思うようになって、コミュニケーションというもの自体にのせる意味合いにマイナスなイメージがついてしまうとおもうんだ。 だから、楽しいと思ってなにかをすることとか。 日々をちゃんと丁寧にこなすことは、すごく大事なことで、意味のあることなんだと思う。 やっぱ資本主義の怖いのはこういうところなんだと思う。 やっぱ資本主義という社会で生きていく以上、丁寧にいきていたら、数字をあげられないから、数字を上げるためにマニュアルを作る。マニュアルを作れば、そこに味は失われるんだろうし、それが結果として、招くものが、無機質な人間の関係とか、孤独感とか、そういうものに結びついてくるんだろうと思う。 飛躍しすぎかと思いきや、全然そんなことないと思う。 目に見えるものに幸せの価値観をつけたことが、資本主義の恐ろしさであり、一番のデメリットであると思う、でも目に見える形で、価値観を示さなければ、人間は自力で伸びあがるには、不確実でだらしない生き物でもあるわけで。 正解は1か0じゃなくて。 1か0じゃないということを知ってるか否かということだと思う。 習慣はそのまま人をつくるし、人生になると思う。 だから同じことを毎日繰り返して10年やって、身につかないことなんてなんもないし、同じことを繰り返しあほみたいに口に出してたら叶わないことなんてないとも思う。 逆に無意識に10年も自分であたりまえになってしまったものを変えることは、そうとうむずいぜ。 * なんか。 いままでの人生が一章なら。 いま確実に二章になったと思う。 今の自分を10年前の自分にみせたい。 つくづく自分てば自分が好きなんだなと思う。 * ろじっくな世界では、ろじっくを武器にしないことが最大の武器なんだろうと思う。 *
Title: よんじゅうはち。
2010.02.20
自分に目を向けないで、誰かに目を向けるのは、欺瞞であり、逃げであり妄想だと思う。 すべての理由はそのまま自分の中にあるものの鏡映しみたいなもんだ。 自分の一挙手一投足に、意識することで、、ここに自分の立っていることの意義や、自分が一息をつくことの奇跡的な事実をうきぼりにできるんだろうと思う。 自分が見えなければ、感謝もできない。誰かを想いやることも、惟ることも。 自分を見つめることが、相手をみつめることであり、過去でもあり未来でもあり、すべてにつながっているんだと思う。 自分には、自分の目でしか世界を見ることはできないし。自分の世界でしか、物事をとらえることができない。だからさがしもののほとんどは、ここにあるんだと思う。 色も形も匂いも、心も、世界を生みだしてるのは全部自分なんだし。 そしてすべての人が、それぞれにしかとらえることのできない世界だからこそ、質問に答えもない。 すべては正解で、すべては不正解だと思う。 それでいいんだと思う。 諦観ともちがう。 ただ、これがまぎれもない事実なんだと思う。 | コメントを書く (0) | Trackback (0)Title: 噴火してセンメートル。
2010.02.19
めずらしくなんであんなに足にきたんだろうというくらいに、千鳥足で家路についてから、2時までトイレに籠っていたわけですが。 さいごのほうに、なにを話していたのかあやふやな点もあるものの。 でも朝起きて。 ああたのしかった。 と感じたので。 体の不調をさしひいても、よしということで。 なぜか、むき出しのお札がぐちゃぐちゃになって何枚かポッケにはいってたんですが。 昨夜自分はちゃんとお会計をしたんだろうか・・・ それと、朝起きて、足の指が折れてるんじゃないかと思うほど痛かったのですが。 謎の残る昨夜の晩餐。 さて。 体はぼろぼろだけど気力は十分。今週もまだまだ働きます。 なもなも。 | コメントを書く (2) | Trackback (0)Title: よんじゅうなな。
2010.02.17 結局は。 人は人である以上。 男も女も、老人でも子どもでも。 それぞれに見えてる世界は、自分の思いこみや、希望や、勘違いでなりたっている世界で。 大抵の場合、自分の弱い部分を否定したものが、自分の信じるもので。 自分の中の、覆い隠したいものを隠した結果が、周りのイメージであって。 怒りは、自分がぐらついている証拠で、悲しみは、かわいそうな自分に流す涙でもある。 信じるということは、裏切られたくない気持ちの表れで。 なんでもそうだ、大抵の自分の判断や、大義名分や美学や、きれいな部分にまとめられてしまうものの、ほとんどは、人間の一番きたない部分を覆い隠しただけのものなんだろうと思う。 それが、いいかわるいかとかじゃなくて。 それが根本的な事実であって。それに目を向けるか向けないかで、生き方はおおきく変わると思う。 それでもいいじゃん。それが人間じゃない。というかもしれない。 あんたのいうことには愛がないといえば、そうなんだ。 それでも、泣いたり怒ったり、人を信じたりしながら生きていくのが人間でしょう。なんて大義名分や、または、あなたはかわいそうな人だ。私は苦しみながらでも生きていくのです。苦しみながらでも人間らしくいきていくのです。 というのも、1つの妄想で。 そういう人に限って、土壇場で、自分ではないなにかに救いを求めるんだろうと思う。 でも自分の手にないものは、まず100%自分の思い通りにはならない。 それが事実で、その現実を受け止めきれないから、いろいろな妄想でそれを覆い隠そうとするのが、人間の根源的な弱さであると思う。 これが現実。 もっともらしい理由や理屈でこの現実を、否定してもそれは、ただ自分に納得できる理由を、いいように作り上げて、自分を守っているにすぎない。 それでも、そんな人生は楽しいのかとか、周りがみんな自分のことしか考えてないのなら、そんな世界に絶望するとか、そういうものだけじゃない、中には、本当に人のことを想っている人もいるし、あなたのような味気と色気のない世界には住みたくないというなら。 あなたの世界は色鮮やかで、味気と色気に満ちてますかと聞きたい。 人を信じられないなんてかわいそうだというなら。 本当に信じられるものは、人間の弱さであって、そこに目をつぶらないことであり、相手の中にある弱さをしっかり認識しなければ、それは一方的な押しつけであり、信じてるではなく、信じたいであり、信じさせてほしいにすぎなくて、それは相手に対する過大評価だと思う。ただしいものをただしいように、理解することのほうが、よほど想いやりがあると思う。 この理屈をもって、議論をしたら、大抵の場合、相手はぐうの音もでなくなると思う。 思い描くような、世界なんてほんとうはどこにもないもん。 乱暴で挑戦的な言い分だけど。自分がここにくるまでに了解した仏教のすべてはこれにつきる。 でも、現実を、ほら、これが現実だよ。あんたのそれは弱さだよ。なに言い訳してんだ、逃げてんじゃねぇ。といったら、大抵の人は、激昂するか、あいつはなにもわかってないというか。私はああはならないといって、逃げていく。 だから、その事実を相手が少しづつでも受け入れられるように、時に頷き、時に共感して、心を少しづつ溶かしながら、その時々で、相手の顔をみながら、話していくことを方便という。 まずは鹿に話してみたりして。 仏教のすごさは。 こういうことなんだと思う。 絶対に否定できない現実をつきつけたこと。 仏陀というのはすごいな。あたりまえなんだけど。 唯一神で片付けないということは、こういうことで、これでもかというくらいに、鋭く、そして、深い。でもその鋭さと、厳しさが、なによりも人間のことを心から思ってる証拠なんじゃないかと思う。 でもじゃあなんでそんなに現実に目を向けなきゃいけないんだってことで。 それについてはまた少し考えたい。 Title: よんじゅうろく。
2010.02.15 その疑問は、もうずっと自分の中にあって。 自分がなにをしても、結果の如何には左右しないのだとしたら。 なんで自分はがんばっているんだろう。 とか思って。 がんばんなくてもいいか・・・とか思うけど。それって努力しないみたいだし、成長できないじゃんとかいうところにぶつかって・・・ じゃあどうしろっていうんだ。ってところの壁が厚くて、そこでずっと躓いてたわけで。 なんもしないで、のらりくらりしてるのが、本当にいいわけない。そんなの、結局独りよがりの自己満足にすぎないし、そんなんじゃちょっと違うんじゃないかと思って。 自分の行動が結果に左右しなくても、自分は最後の最後までもがいていたいんだ。とか言ってみたりしながら。プリウスだのランボルギーニだの理屈こねたりして。 同じようなことを、ここ何年も考えては書いて、書いては考えて。 そんなことを繰り返し繰り返し、ぐるぐるぐる考えてたら。 なんか今日。突然ぽかっと。 喉にささった小骨がとれたような気がした。 ほんとに、すとんと。 1つの事実が勘違いかもっておもったら、そこからいろんなものが一直線にならんだ気がした。 勘違いしてたのは、頑張ってる時に、それは自分が意識的に頑張ってると思ってたんだけど。きっとそれは違うのかもしれないってことで。 きっと頑張ってる時っていうのは、いうなれば自分では手が抜けない時であって。 正確には頑張ってるのではなくて、性格上頑張らざるを得ないというか、頑張るという言葉で本質を隠してしまってるけど、それは、結局、無意識になにかを補うためや、覆い隠すためでもあって、だから結局は、手を抜こうと、堅く心に決めても、結局そういう場面では、自分は頑張ってしまわざるをえないんだろうと思う。 だから、いうなれば、意識的に頑張ってるのではなくて、頑張っているという行為自体が、もう自己の中から無意識におきるものかもと思ったわけで。 そう考えると、たしかに、自分が頑張るときは、そこに理由がある。 その理由は、様々だけど、大抵は自分の中の小さな決まり事みたいなものに、触れていたりして、譲れなかったり、我慢できなかったり、認められたかったり、自己を誇示したいときだったり、貪欲に楽しみたかったりってことが多くて。 結局は、その理由があるから頑張ってるということは、 頑張ってるんじゃない。 自分が頑張らざるを得ないだけなんだ。 だから、きっと頑張らないと思っても頑張っちゃうから、そもそも頑張らなくてもいいのか?なんて疑問、それ自体にとらわれてて、ホントは意味なんてなかったのかもしれない。 頑張るは自己防衛的に湧いてくる止めようのない欲求なんだ。だから止めようとしても止まらなくて、それに、いいも悪いもない。 そう思ったら。 頑張ろうと、頑張らなかろうと、結果の如何に左右することはない。 これは事実だと思う。 でもじゃあ、がんばんなくてもいいかといえば。 人はほっといても頑張る生き物で、頑張らないというのは、意識的にすることではないから。 いうなれば、その頑張ったという行為が、結果を招くためのものではなく、自分の中の理由を納得させるための行為にすぎないということを知っておくことが大事なんじゃないかと思った。 どうしても人は事実から目をそむけて、頑張る自分を肯定したくて、肯定した自分を認めるために結果がついてこないと許せないけど。そうじゃない。 それを知ってるか、知らないかで全然違うと思うんだ。いろんなことが。 仏教は事実だと、最近何の迷いもなくそう思う。あまりにもオブラートにつつまなすぎて、時に怖いくらい。 その事実が怖いから、それを真実だと認識させないものが、我であって煩悩であって、いうなれば、自分がかわいくて仕方のない生き物の宿命なんだろう。 言葉にすると簡単なことなんだけど、ここ数年ずっと喉につかえたものがすっと落ちた気がした。 こういうときの気持ちというか、ぱああっといろんなものがつながってすかっとする体感は、いままでに2度くらいあって、次にいつ来るかわかんないけど、なんか目が悪くなって、知らず知らずに過してて、はじめてメガネをかけた時のような感じの何十倍もすかっとしたような気分。 | コメントを書く (0) | Trackback (0)Title: よんじゅうご。
2010.02.13 自分が考えた末に出した答えや行動で必ずしも物事が好転するとは限らなくて、逆になにも考えずにした行動や言葉で何かが劇的に回りだすことがあって。 自分が迷った末にだした結論が、誰かにとっては最悪な答えであることもあれば、なにも考えずに発した言葉が誰かの救いになることもあって。 自分が正しいと思ったことも、側面にしかすぎなくて、自分の発する言葉はいつだって、しったかぶりの、向う見ずだったりする。 必ずしも、結果につながる要因は自分からうまれたものではないことの方が多いのかもなぁ。なんて深々と冷え込む夜道を歩きながら思って。 はて。一体いままで、自分自身の力だけで、なにかを変えられたことなんかあるんだろうか。と思って、もしかしていままで、そんなことは何もなかったのかもしれないと思ったら。 なんかものすごく、自分ってば自分で、思ってるより無力なのかもなと思って、そんなこと言ったら、なんにもできないし、がんばる意味なんてあるのかなって思って。 なにかを発言することも、結局は独りよがりなのかもとか自虐的に思ったころに、心が反作用して、それって、考えようによっちゃ超楽なのかもというところに落ち込む。 好転するかしないかわかんないんだから、もうそんなこと気にして行動しなくてもいいのかもって思って、そこに出た結果は、やり直したとしても同じ結果が出るかもわかんないわけで、結果はそこにあるものがすべてで。 だから、なんか。 それで失ったものは、失うべくして失ったもので、いまあるものは、得るべくして得たもので。 大切なものを、がんばれば維持し続けられるかといえばそうじゃなくて。失ったものはもう手に入らないかといえばそれもそうじゃないのかもしれなくて。 なんか。 思うに、先の先を見ようとしてきて、物事に関わる要因を、側面的で断片的にならないように、意識して意識して、がんばってがんばって視野を広げようとしてきたつもりだけど、なんか最近、ああ。こりゃ自分の手に負えることじゃないかもって思う。 目の前のたった一つのこと。 なんでもいい。 大きなことも小さなことも。 ほんとに自分には思いもよらない要因が重なってそこにあると。 最近本当に心からそう思う。 | コメントを書く (0) | Trackback (0)Title: とかくこのよは。
2010.02.09 兎角にこの世は住みにくい。なんてぽつりとつぶやける時は、大抵目の前の問題は、過ぎさっているときなんだろう。 こんなぽかぽか陽気だと、いろんなものがふわっとほぐれていい気分。 最近、何事も言ってみるもんだなと思う。 口に出していると叶うことがあるというけど、少し前にオーロラみたいなぁ、犬ぞりで疾走したいなぁ・・・なんてつぶやいていたら、年末にアラスカにいけることになりそうだ。 それに、あちこちで宇宙が好きでね~ただの興味本位なんですけどね、何がというよりもその響きがわくわくするんだ。なんて吹聴してたら、いろんなものがめぐりめぐって、こないだエンデバーで若田さんが宇宙へもっていった300粒のかぼちゃの種を、地球に持ち帰って、それを教育機関で育てる、パンプキンプロジェクトというので、うちの幼稚園で、その貴重な種をいただけることになった。贈呈式なんてものまでしてくれるそうだ。 エンデバーに乗った種。NASAにいった種。無重力に浮いた種。 それだけでどきどきする。 でもこれ発芽させなきゃいけない責任は結構重い。 * しかし、つくづくいったりきたりだな。 捨てたいものを捨てられず、捨てたはずのものをまた抱えて。 そんなことの繰り返し。 フェラーリもランボルギーニもプリウスも。 自分がのうのうといれれば、それはプリウスでもあるしランボルギーニでもあるわけで。 それは色眼鏡で区別することじゃないんだった。 と考え直す。 こだわらないということは、限りなく透明に近くて、つかみどころがなくて。 そこにいきたい。いきたすぎる。 その切望の中に、他力の糸口も見つけられるような気がする。 最近、人間関係なんてものは、兎角自分の判断の及ばないことで、それを自分の力で何とかしようなんてことは、おもいあがりにもほどがあるってわかっちゃいるけど。 どうにも、自分が動くことで、誰かやなにかが好転する可能性があるなら、消耗してもそこにかけたいと思うことこそが、煩悩の固まりなんだろうな。 * 油と水は、相性がいいのか悪いのかなんてことはわからない。 同じ液体なのに、こんなに作用が違うもの同士もあるいみ似た者同士なんじゃないかと思う。 * 幸せにします。といっている人をはたからみて。 一体どうやるんだろう。 とか思ってしまうわが身の悲しさ。 人に軽はずみにそんなこというなや。 とか思っちゃう。 えへ。 * しかし仏教すげぇなと思う。 こんなに論理的で、実践的なものを、宗教というくくりで片付けてしまっていいんだろうか。 * よく考えると。 ゴッホもピカソも。 園庭に座り込んで地面に絵を描いてる子どもも。 本質的にはなんらかわんないんじゃないかと思う。 * | コメントを書く (0) | Trackback (0)Title: フェラーリとランボルギーニ
2010.02.04 好きに理由はいらない。 とか。 言葉にしたらシンプルなんだけど。 でもここに至るまでに。 好きってなんだろうというところから始まって。旅を好きなのと、誰かを好きなのと、空気が好きなのは、同じ好きでもどう違うんだろうかと考えて。その中で同じ感覚であるものどうしを結び付けてカテゴリー分けしたりして。 そんでその中で、自分の行動というのは、原則、感覚とか、自己満足とか、達成感とか、欠落しているものを補うためだったり、様々な理由がまじりあってするものだけど、根源的には、自分の欲求を満たすために人は生きているのかもしれないとか思って。 その行動に伴う感情の中で、その感情が湧いたことの作用が、今の自分にとってバランス良く、心地いい状態であることを、心地がいいとか、好きだとかいうことにつながるわけで。 そういう理論をたてたら、次に、自分がわくわくしたり、どきどきするたびに、自分の中でその心の動きを客観的に実証して、ああ今はきっとこういう理由から、好きだと思うんだろうなとか、この空気は、きっと自分のこういう部分に作用しているから好きだと思えるんじゃないかとか。様々な場面の中にある、自分の感情の動きに理由付けをし続けた結果。 ああ、作用というのは、カテゴリー分けできないくらい、たくさんの事象からなりたってるということに気づかされて、今の自分の判断で書き出せるものだけじゃなく、今の自分の考えも及ばない細かい事象までもが、その作用の中にはあることに気づかされて。 そこで、はじめて、好きというものに理由いらないという言葉があるけれど。 それはきっと、好きというものの理由というのは、考えても人間の脳みその及ぶことではないですよということであって、きっとスーパーコンピュータでも、そのパターン解析できないくらいの数の計算がひつようなことなのかもしれないと思って。 やっと、好きというものに理由はいらないんだ。というよりも、言葉で正確に表現するには、好きというものに自分自身は正しい理由をみつけることはできないんだ。といってもいいのかもしれないというところに行きつくわけで。 まわりくどくてめんどくさくても、そんな作業を繰り返してきて。最近そうやって1周した言葉や項目が少しづつだけど増えてきたような気がして。 ただ最近思うのは。 結局1周したり、いろんな側面が見えると、自分の発する言葉の9割は、憶測と推測にすぎないと思うわけで。そう考えると、つよく主張できることというのは、結局自分の譲れない想いや、なにか弱さを補うためにしかすぎないんだなと思って。 我を離れるなんてできないし、できたとしてもそれはそれでいいのだろうか疑問にぶつかる。 よほど10年まえの自分の書いたものや、残したものをよんでいると、ああ、側面的で一方的だけど、すごいなぁこの熱量と思う反面、そのころ抱えていた問題もいまの何倍もあったなとか思って。 いまその抱えていた問題は半分以下だけど、そのぶん熱量も半分か。とか思うと。 楽に生きることとというのはエコカーみたいなもので、フェラーリやランボルギーニではないんだと思うわけです。 でも人がぐぐっと心をつかまれるのは、プリウスよりもフェラーリやランボルギーニなんじゃないかとも思うわけで。 そのはざまで、そもそも仏教はだれのためにあるんだい。という疑問にもぶつかるわけです。 お釈迦様が、木の下で、自分の悟りを、人に説くべきか否かと木の下で1週間くらい悩んだというけど、仏陀となった人が1週間も考えたあげく、いきなり人間はきびしいなっていって鹿に聞かせて試すくらだからな・・・ この悩みに似たような問題に、どこかでぶつかってる人がいたはずだと思って、原始仏教の中にそういう言葉がないかさがしたくなるし、そういうときに自分は経典を開きたくなるわけで。 七高僧に会えるものならあって、1人1人にこの疑問をぶつけてみたくなる。 親鸞さんを本当にうらやましいと思えるのは、法然さんにあえたということで、そういう相談をぶつけられる師が同じ時代にいて出会えたということで。 もっと羨ましいのは、舎利弗で、あんだけ舎利弗舎利弗いわれて、身近に思ったことをぶつけられる人がいたのが羨ましすぎる。 末法ってこういうことか。
Title: せんず。
2010.02.03
年の数なんてはるかに超えるくらいの豆を食べながら。 ああそういや、高校の時に、お昼に豆が出たら、そのあとの英語の授業でミスター鈴木が黒板を向くたびに、あちらこちらから豆ぶつかられてたなと思いだした。 そんなことをおもいながら、ひたすらぽりぽりぽりぽりセンズを食べるわけです。 おらにげんきを。 なんでこんなに豆うまいんだろう。 1年中食べたい。 Title: おにはそと。
2010.02.03 去年の終わりから。黙って1人で挑戦して、結果を見続けながら、1人でむふむふしてたことがある。 体調管理です。毎年冬になると風邪ひいたり、腰痛くなったり、頭痛くなったりしてたのに、去年の夏くらいから、どっこもわるくないどころか、腰も痛くもならないし、すこぶる体調良くて、これをいつまで維持できるかとひそかに頑張ってたのに、ついにそれが終わった。フットサルのあとからどうも鼻水とまらないと思ってたら、完全に風邪の諸症状。 喉は痛いし、だるいし、鼻詰まってるし、酸欠気味でぼ~とするし。 しかし仕事はまってはくれないわけで。 そんなこんなで、ぼ~としながらも、今日は節分なので、鬼の役を頼まれて、鬼をやるわけです。 そんな頭で、子どもたちに豆をぶつけられたら、なんか妙に鬼ってかわいそうだなという気持ちになってきて、鬼に感情移入してしまうわけです。 鬼は外と、外へ追いやられ、豆をぶつけられ、近づいただけで逃げられて、役だというのに、なんか悲しくなるんだから、いやほんとに鬼に生まれなくてよかったと思った。無条件に嫌われるというのもすごいことだ。 たまたま鬼だったばっかりに・・・といいたくなるに違いない。 今日は節分、外に追いやられた鬼たちが街の中をきっとウロウロしてるのかもしれない。そしたら、肩でもたたいて一杯のみにでも誘ってあげようかという気にもなる。 ああとにかく体の免疫機能が身体の中で菌と戦っている副作用は、こんな感情を呼び覚ますのかと思ったら、これもわるくないとか思う。 とにかく眠くてしかたない。 けど目の前につまれた書類の山をそろそろ片付けないと、どうせあとあと後悔するのだからはやくやらねば・・・ あ。 そうそう。 DS版のA列車をやりはじめたんですが、これなかなか面白い。
|
|