• PHOTO最終更新日2010年10月11日



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Title: POSO

「POSO」をみた。

それがどんな動画かは検索すればいくらでもでてくるので説明は省くけど、ああいう動画をみて何を感じるかということは人としてものすごく大切なことだと思う。自分は現実から目をそむけてなにも得ないよりもそれを直視して何かを得るような生き方をしたい。

POSOをみてからしばらくものすごいへこんだし、なんか胃の中がもやもやといやな感じがして、頭の中で宗教ってなんだろうとか、ぐるぐるぐるぐると一晩中まわってた。でも自分がなにかそういう壁にぶつかったときにやっぱり戻ってくるのは真宗なんだなということも改めて再認識した。

POSOをみて感じた一番の感情の感情は悲しさだった。悲しさと同時に浮かんだ言葉は「悪人正機」だった。

まず思ったのは、首をつかんで叫んでる男や、小さな子どもの頭をきりつけた人も、老人の腕を切り落とした人も、悪人正機の教えからいけば救われるわけで、あの動画をみた直後に頭の中でその事実をどう処理しようか、そこにはどういう意味が込められているんだろうかとか、自分のなかで納得できない気持ちでささくれだったままもやもやとした。

言葉でいうのと心で感じるのとでは全く違うし、自分の中でまだうまく処理できていないのでうまく伝えられるかわからないけど。

でも思うに、自分の中でその殺したほうの人間に対してやはり悪人だというレッテルをはっているけど、もしかしたら自分は絶対に理解できないと思っていたとしても、もしかしたらどこかでなにかが一歩間違ったら自分がいつその加害者になるかなんてわからないということは極論事実だし。

悪人正機の指す悪人は法律を犯した人間を指すわけではなく、あくまで自分自身、または人間自身の中にある不確かな価値観をさすという前提にたって、頭で考える善悪ではなく、むしろ頭で善悪を判断してしまう人間自身を指すわけだ。

言葉にすると本当に難しいけど。あの加害者が悪であるということではなくて、あの加害者にあの行為をさせてしまったのはなにかの因果があってのことで、人間は因果がそろえばそういう行為に至ってしまう弱さをかかえて生きているということのなによりの証拠で、それは決して他人事ではなく、因果がそろっていないだけで、あくまでそうなりうるものは間違いなく自分の中にあるという根源的な事実をしっかりと認識する必要があるんだと思う。

さらに、POSOをみて初めに感じた感情は悲しさだった。その時にふと思った。

観無量寿経に仏の御心は人々を救わずにはいられない大慈悲心であると書かれている。慈悲心。この中にも「悲」という文字がある。この「悲」という文字がなにを指すのか、なんで仏の心の中にも「悲」があるのかを考えた。

思うに、あくまでこれは自分の思う解釈だけど。

この「悲」はきっと一つの事実に対して他人事ではないという感覚からくるものなんじゃないかと思う。自分と他人という感覚ではなくて。おなじ人間として。

さっき因果という言葉を使ったけど、あくまで自分には因果がないだけで、いまここに平和にいきているけど、なにかがそろえば今の自分には考えられないようなことをするかもしれない。戦争だっておんなじだ。戦争の中で一番醜いのは人間で一番尊いのも人間で。その二面性は間違いなく自分の中にある。

仏の慈悲心というもの、そこにある「悲」というのはその二面性をかかえて弱くもろく、いろんなものになびき生きていかなければいけない人間そのものに向けられたものであって、その前では先に述べた、法律のどうこうであったり、善悪の区別ということを超越したところにあるものなんじゃないかと思う。だとしたら本当に懐が深くてものすごいことだと思う。


さらにこの感覚は、親鸞の弥陀の本願はひとへに親鸞1人がためなりけり。と述べた一文にもつながってくるような気がする。

あくまで弥陀の本願は人間そのものにむけられたものであって、悪人とか善人とかそういうものではなく誰かを限定にしたものではなくて、あくまで人間自身、自分自身のためにあるわけで、つまりは自分が救われるということは同時にすべてが救われるということにつながってくるわけだ。

さらにいえば。

自灯明・法灯明という言葉はまさにその心を表わしているわけで、あくまで宗教は自分のためにあるもので、自らを灯として法を灯とする。ここで阿弥陀を灯として仏を灯としなさい。ではないところがものすごく自分の中で素直に了解で来たような気がした。

宗教とか自分の中で感じたことを言葉や文字で表現するということはものすごくむずかしい。感応道交やっぱり宗教は感覚の世界なんだろうな。きっと伝わる人には伝わるけど伝わらない人には伝わらない。

でもある記事の中に、口がうまいとか、表現がうまいとかそれだけで物事が伝わるかといったらそうではない。口がうまくなくても、表現が下手でも真実は必ず伝わる。でなければ宗教がここまで根強くのこってこれたわけはない。というのを読んでほんとうにそうだと思った。

ほんと全部ひとことに凝縮すると、なまんだぶつ。これしかないんだよな。ほんとに。この5文字だけで何かを伝えられるようにならなくちゃいけない。

宗教は自覚だ。


POSTED @ 2008.09.04 | Comment (0) | Trackback (0)

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  • 自己紹介:1980年1月9日生まれ。どこからを趣味と呼んでいいのかは模索中。好奇心は旺盛。