Title: 鉛。
ここのところの総括。
*
昔の遊び図鑑というのを買った。それを読んでいて、昔の遊びはほんとによくできているなと思った、想像力にあふれているし、ルールにも柔軟性があって、遊びというのは本来そういうものなんだろうと思う。
人の作ったシステムやルールではなくて、自分でルールから考えて遊んだことなんてここのところ何年もないかもしれない、遊びじゃなくてもそうだけど、自分でルールから作るっていくということほど楽しいものはないんだろうと思う、でもそれには相応の覚悟と責任が伴うんだけど。
*
あたりまえのようだけど、意識を置かない状態、いうなれば無意識というのは、力の抜けた状態を指すのではないなと思った。
無意識というのは、決して脱力ではなくて、意識をしないからこそどこかに力が入っている状態なんだろうと思った。
意識をしないと本当の意味で脱力なんかできないし、意識をしなければ本当の意味で力を抜くなんてことはできないポイントがあるというのを実感としてわかった気がする。
自分の意識をどこに置くか、それを明確にしていくことでわかることや、見えることが確実にある。
清沢満之の本の中に、自分の内側を見るのが智慧であり、仏法である。しかしそれをね、法に従わないで勝手にやってたらきっと頭がおかしくなっていた。と書いてあった。
道を内側にみつけるのが仏法である。
なんか少しだけどわかる気がした。
まさに自力無功の境地なんだろうと思う。
内省をしていくときに、なにに依るかということは大事なことで、そこで必要になる指針みたいなものが宗教でもあるのかもしれない。
*
雨の降る中、レインコートきて朝から夕方まで一日土いじりしていて思ったこと。
・人間の手というのは本当によくできている、どんなに機械が発展しても人間が本来持つ機能の代わりをできるということはないんだろう。
・鎌をつかって草刈りをしていて、自分が明らかに道具に慣れてくると、草がおもしろいように刈れるようになって、ほんとにちょっとした向きや力の入れ加減でこんなに道具の性能が変わるなんてと思ったら、こうやってなにかを体で覚えたのは久しぶりだなと思った。バク転以来か。
・農作業は腰とか腕とかの前に、まず握力にくる。
・農作業を始めたときは、ちょっと泥だらけになったら、うわぁ・・・と思うのに、あるラインまで汚れると、もうどうでもよくなって、開き直った途端に、土や雨が気持ちよくなる。これは農作業に限ったことじゃないなと思った。人生もそうだきっと。
・草刈り機(ガソリンで動くやつ)で大がかりな草刈りをしていたら、こないだ植栽したばかりの柳の木をばっさり切ってしまった。うわっ!と思った瞬間に、これをどうやったら隠せるか考えた自分にものすごい凡夫を感じた。結局あまりの伐採っぷりに隠し通せるわけもなく、素直にごめんなさいをした。数十万がぱあです。ひさびさに本気であわてるという感覚を味わった。
・雨の匂いと土の匂いと草の匂いが混ざり合った匂いというのは、なんか脳にくる。
・ひたすら雨音しかしない畑で農作業していて、あまりの静けさと孤独っぷりが妙に心地よくて、病院のベッドで死ぬくらいなら、こうやってひっそり地面に大の字になりながら死んでいきたいなとか思った。
・芯まで冷えた体ではいった大風呂の気持ちよさはなににも代えがたい。やっぱり幸せとかそういうものは、物理的なものでも、単体で存在するものでもなくて、合わせ技みたいなもんの中にあるのかもしれない。
・車の座席についた赤土は、ガソリンスタンドで車内清掃をしても落ちないくらい頑固だ。
*
やっぱり強さとはきっと、ありのままを受け入れられる覚悟みたいなもんなんだろうと思うし、それはきっと、いつだって目の前の事実をなにかと引き換えにしないということなんだろうと思う。
*
このあいだ葬儀にいった96歳で亡くなったおばあちゃんは、亡くなる直前にひ孫の顔をみて、「本当にうちの血筋はみんな眉毛が濃いねぇ」といって逝ったそうだ。それが最後の言葉だったそうだ。
なんかそれが妙にぐっときた。きっとね、息子とか孫とかひ孫とか、世代を超えても、血筋というのはあって、昔の人はそういう想いや考えとか「家」とか「家族」とかそういうものを大切に思う心が本当に身体の芯にあるんだと思う。
そんできっとそういうものの中から、願いとか想いとか、人間の大事な心が生まれてくるんじゃなかろうかと思ったのです。
なむなむ。
POSTED @ 2010.10.05 |
Comment (0) |
Trackback (0)