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Title: コリント
キリスト教式の結婚式に出て、またアグレッシブな布教活動にさらされてきたわけですが、その中でコリント13章を朗読する箇所があって、 愛は寛容であり、愛は親切です。 すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、 愛は決して絶えることがありません。 と声に出して読んでみて。 ああ。愛だのなんてもんは、カウパー液みたいなもんだ。なんて書いた自分になんか妙な後ろめたさみたいなものを感じて、やっぱファーザーイエスはすげぇなと思ったりした。 行き詰ってどうしょうもないときに、まっすぐに愛とか説かれたらぐらりときて、たしかに、子どもみたいに無条件になれるような気持ちにもなるのだけど、でもどうしてもそれは、焼け石に冷や水をかけるようなもののような気がしてしまって、すぐに蒸発して、また石は発熱をしてしまうんじゃないかと思ってしまう。 もちろん、いつまでも主は水をかけ続けてくれるんだろうし、いづれその石が冷えるまでかけ続けるくらいのアグレッシブな布教をするのかもしれないけど。 でも。 やっぱり自分はどうにも素直じゃないし、天邪鬼なので、方法論の問題で仏教の方が向いてる気がするのです。 そもそもなんで石は熱いのさ。 熱い熱いって、その発熱はどこからきてんねん。 ようかんがえてみ。 とお釈迦さまがいうわけで。 自分は理屈っぽいから、そう言われた方が、冷や水をかけられるよりも向いてる気がするのです。 冷や水かけたって、石が発熱してたらまたかけなあかんやん。 そもそもほんまに石は熱いんかい? そもそも熱いってなに? といわれて、 それを反芻しながら自分に落とし込もうとして、 親鸞さんがいうわけです。 発熱したくなくても、発熱してしまうのが人間ですねん。 ええねんええねん。それでええねん。 熱いままでええやんか。 それが生きてるってことやねん。 熱くても熱くなくてもええんん。 大丈夫や、どんなあんたでもあんたはあんたやでって。
おれ熱いまんまでもいいや。 な~もなも。って。
わかっちゃいるけどやめられないを許してくれるかどうかなのかもしれない。 真宗門徒はきっと最後の最後まで、もがいて、悩んで、自問自答して右往左往していくんだろうと思う。きっと納得してストン楽になっては、また自分の中に湧きあがるものに手を合わせて、善人なをもて往生をとぐいはんや悪人をやとか思うんだろう。 それを繰り返すプロセスがなによりも大事なのかもしれない。 |
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