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Title: 2008お盆法話
よく人は頭がいい人はいい。わるいからだめだ。いい大学をでてるからいいと。時にニートやホームレスを見てああはなりたくないなぁ。自分はとそんなことはない。とおもっていてもふとしたときにそのようなこれはいい。これはだめだと。自分の価値観でものごとを判断してしないがちなのが人間です。 しかし本当の姿というのはどちらかに価値がありどちらかには価値がないというのでなく。そこにある自分の評価はあくまで自分の頭をとおして感じた、または大多数の世間のものさしを通したある種のレッテルであって自分の価値観。さらには世間という価値観でものごとを判断しているわけです。 しかしよくみてみれば絶対的な価値観というのは存在しないわけです。 そこに気づかせていただくということが仏教の入り口になるわけです。 そのレッテルということについて深くほりさげていきますと。そのレッテルが言い換えれば苦しみになるわけです。 お釈迦様は人間の避けることのできないおおきな苦しみを四苦とされました。 生老病死 これだけみますと、なるほどたしかにこれは苦しみだ。人間のさけることができないおおきな苦しみだなぁと頭でわかったような気がします。しかし突き詰めて生きますと本当はそれ自体は苦しみではないわけですね。これはだれにでもおとづれる当たり前の事実だけなんですね。ようはそれをとらえる人間の心が苦しみをうみだすわけです。
こういう生き方がよくてこういう生き方はだめだ。 その価値観が苦しみをうむわけです。 そこにそぐわないと自分はだめだと落ち込んだりときに追い詰めたりしてしまうわけです。 最近ではほんとうに自分勝手な事件が多い中多くの犯人が口々にこういいます。いきるのがいやになった。どうでもよくなった。だれでもよかった。 それを聞くたびにおもうのが、もちろん人を殺してしまったことは許されることではありません。しかし犯行をおかしてしまった人がそこにいたるまでの経緯に中でこういう生き方をしなきゃいけない。こんなんじゃ自分はだめだ。引きこもってちゃだめだ。ニートじゃだめだ。根暗な自分をかえなきゃ!そうやって自らと戦ってを追い詰めて苦しんで、でも社会生活がうまくいかず、家族ともコミュニケーションがとれず、友人にも悩みをうちあけられなかった。そしてそれがもうどうにもならないところにきてしまったのではないかとおもってしまいます。 そのままでもいい。そういう自分やそういう自分を認めてそれでもいいんだよといってくれる瞬間がどこかに一瞬でもあればそうはならなかったかとおもうととても悲しいことだと感じます。 老いも同じです。元気でいたい若くいたい。アンチエイジングなんてことばがありますが 髪はうすくなるし、いやでも顔はしわだらけになるし、おなかも出てくる。これは誰でも生きている限りそうなるのに、いつまでも若い人とはりあおうとする。若いことはさもいいことであると思い込んでそれを保とうととらわれたようになってしまう。そうするうちに老いは苦しみだと思い込んで年はとりたくないなぁとついぼやいてしまうわけです。
病や怪我も同じです。毎日健康に気をつけてウォーキングしてお酢をのんでいても癌になる。まさか自分がこんな病気になる。そして何で自分がこんなめにあうんだとおもってしまうわけです。自分だけは重い病気にならないなんてことは絶対にありえないのに、そのときになるとなんで自分だけ。とおもう。それは人間だから当然そうおもってしまうし。それはしょうがないんですね。 そして最後に死も同じなんですね。 世界では1年で約9千万人の人が亡くなっているそうです。この今一瞬カチカチと1秒が過ぎる間にもバタバタと人が死んでいっているわけです。そしていつその中にいつ自分がはいってもおかしくないわけです。 しかし人間というのは、多くの人がまだまだ死は先にあるとおもって生きています。そしていつかくるであろうとたかをくくって死に対して、大往生したいとか。だれにも迷惑をかけずにぽっくり死にたい。とか苦しまずに眠るように死んでいきたいなぁ。せめてだれかに見取られて死にたいなぁと。注文をつけて死をすこしでも納得のできるかたちで迎えようとするわけです。ここの集まった人のほとんどは誰かの死を介してお寺というところに集まったわけです。奥さんを亡くされた人。ご主人をなくされたひと、親をなくされた人お子様をなくされた人。それぞれがそれぞれの形で死をうけとめているわけです。しかしそのような身近な死を通してもなおまだ自分の中にある死というものをしっかりとうけとめて意識をするということはなかなか難しいわけです。 そもそも死をえらべるならいいんです。どうやって死ぬか計画できるならいいんですがこれもまた老いや病気と同じでどうにもならないんですね。一切おもいとおりにならない。 いつどこでおきるかも。どんな死がくるかもわからない。わかっているのはどういう形であれいつかかならず自分も死ぬということだけです。 蓮如上人の御文の中にある一文ですが「さてしもあるべき事ならねばとて、野外に送りて夜半の煙と為し果てぬれば、ただ白骨のみぞ残れり。あわれというも中々おろかなり」 どんなに生きているときに何かを成し遂げても、どんな死に方をした人も、ぽっくり死んでも大往生しても、さらには野たれ死んでも家族にもとられても。 最後には白骨がのこるだけ。これが人間の本当の姿であると。死んだら骨だけ。はいおしまいです。 死にどんなに意味をつけようとしても、どんな死に方をしようかと願ってそれが叶っても叶わなくても死はただ一つの現実でしかないわけです。そして自分が亡くなっても世界は昨日と同じように回り続けるんですね。 生老病死すべてにいえることですがお釈迦様はその目の前にある現実を価値があるとかないとか。若い方がよくて老いているのはだめだとか。こういう死は穏やかでこういう死はみじめだとかそういう人間の価値観ではなくただただ目の前の現実をただしい目でみてそのどううけとめてどう受け入れていくかということを説かれたわけです。 そして同時につねに生きている以上人間は生老病死の問題にぶつかっていない人はいないという事実を今この瞬間からみつめていくということ、これは年齢には関係なく20代でも30代でも50でも60でも。同じ問題を抱えて生きているわけです。 お釈迦様は10代のころに農耕祭の中での経験がこの問題を考えるきっかけになったともいわれています。そして29歳で出家して35歳で悟りを開いたわけですが、 いまこの瞬間目の前にある生老病死の問題をしっかりみつめて自分のこととして受け入れる。自覚するということが大切であると述べられたわけです。 さらにいえば生老病死ということば。人間の苦しみですね。これはぜんぶ想いとおりにならないこと、このおもいとおりにならにことをおもいとおりにしようとするところに苦しみがあるというわけです。それ自体はただのあたりまえの事実なんですね。苦しみを生み出してるのは自分の心というわけですね。 その事実をどうやって受け止めていったらいいかということが大切になるわけですがお釈迦様のお話された話のなかにケシの実の話という話があります。 あるときにインドで自分の大切な子どもを不注意で亡くしてしまった母親が嘆き悲しむわけですね。まだ数年しか生きていないのになんでこんなことがおきるんだと。半狂乱で町を走り回り最後に仏陀のところへくるわけです。そこで仏陀にこの子をいきかえらせてください。それが叶うならわたしはなんでもします。というわけです。 すると母親はそれを聞いて喜びあわててケシの実をさがしに町へもどります。そこで何件も何件もの家をまわります。しかしどの家をまわっても去年奥さんを亡くしたばかりだ。おじいちゃんがおととし死んだばかりだわ。息子をなくした。妻を亡くした。みんな口々に言うわけです。そして町中すべての家をさがしまわって、結局いままで一人も死者をだしたことのない家をみつけることができなかったわけです。 そして母親は仏陀のところにもどり、自分だけが死をかかえているのではなく、すべてみんなが死をかかえていきているという事実に気づかされるわけです。悲しい想い苦しいおもいをしているのは自分だけではなかったと冷静をとりもどし現実をうけとめていくというお話です。 母にとっては大切な小さなわがこの死です。自分の身にだけふりかかったうけいれがたい現実です。しかしそれは人間がいつでもぶつかっている一つの現実でそういう想いをしている人達が過去には何十何万何千人といるわけでそうやって社会は世界はなりたっているわけです。決して自分の身だけにふりかかってきたことじゃないんです。その事実を否定し目を背けるのではなくいまめのまえにある真実の姿に目をむけなさいと仏陀は説かれたわけです。 なにがあっても変えられないのが現実であり真実です。受け入れるほかに方法がないわけですね。 仏教では、仏教だけでなく真宗では、正しい真実を姿から目を背けないでこの現実をしっかりうけとめましょうという姿勢はものすごく大切なことです。 そしてその自分の中にある問題、その解決法を外に向けるのではなく自分の中でしっかりとうけとめましょうと。言い換えれば事実を他人事にしないで自分のこととしてしっかりとうけとめましょうということです。 だれかやなにかで苦しみをまぎらわすのではなく自分の心の持ち方や真実をみつめることで解決をしていく。仏教というものはその方法をおしえてくれてるわけです。 ここで大切なのはけして呪文やおまもりや魔法の言葉や神通力でその苦しみをけしたのではなくその苦しみを真実をしっかりとみつめることでそれをうけとめたという点です。 ここが大切です。 ここをしっかりと解釈しないで、なにか高いお札や壷を買って癒されたりずばりいっちゃうおばさんがいますがそういう言葉にいやされたとしても、自分のこととしてしっかりと事実を受け入れない限りそれは傷口にバンドエイドをはってみえなくしただけで安心してるにすぎないわけです。 さてここまでお話をしてなにかひっかかる人もいるかもしれません。受け入れるということをお話しましたが、さてじゃあ現実に目を向け生きていこうとおもったときに、自分にはたしてそれが本当にできるだろうかということです。わが子が死んでそんなに冷静に現実を受け入れられるだろうか。そんなの無理なんじゃないかきれいごとじゃないかとおもうのが自然です。人間というのは、現実をどんとうけとめるには弱くもあり、知恵がある分あれこれと言い訳などを考えてつい現実から逃げてしまうわけです。 仏陀の教えにそって執着をすてようとしているにもかかわらず多くの人がそれを成し遂げられない。死だけでなく、老いも病も。うけいれてつきあわなくてはいけないとわかっているのにそれがなかなかできない。それは今自分自身がそうであるように、この問題も何十年も何百年も前から人間が抱えている問題なんですね。仏陀のおしえはすばらしいことがわかっているのにそれに沿うことができない自分がいる。普段の生活の中でもねたんだりうらやんだりずるいことを考えてことあるごとにおなじことでまた苦しんでしまう自分がいるわけです。そして死の瞬間まで生に執着してしまうのが人間です。 親鸞聖人はそのような私たちを指して一切の衆生は皆凡夫であるといいます。自分もふくめその仏陀の教えを心にとめて生きていてもそれを成し遂げるということはなかなか難しい身であると。ではどうすればいいかということになるわけです。 ここで現れるのがこの本堂の正面いる阿弥陀仏なんですね。くりかえし同じところで苦しんでしまう人間、ほとんどの人がそうであると。しかしそういう人間こそがすくわれなければ意味がない。そういう人間こそが救われる方法が必ずあるはずだと考えられたのが阿弥陀仏であるわけです。そういう人間すべてを自分は救おうと決意をされそして極楽浄土をつくられたわけです。そのときの決意を述べられたのがいつも法事でおあげする「たんぶつげ」というお経です。 そしてお念仏、「南無阿弥陀仏」というのはその阿弥陀仏への呼びかけの声ということになるわけです。 なにかをうけいれよう、うけとめて生きていこうとしているにもかかわらずどうにもそういうことを受け入れていける自信のない自分弱い自分というものをしっかり発見をして自覚したときに、これはいよいよ自分の力だけではどうしょうもないぞ。という心が自力から他力本願というものへの入り口になるわけです。そのときになって口をついてでるその声がお念仏です。お念仏をすることで阿弥陀仏に呼びかけるわけです。 なむあみだぶつとは。 たくさんの解釈がありますがある意味では。 こんな自分ではとても一人では現実をうけとめてそれを一人でかかえていけそうにもありません。現実をうけいれようとしてもまた同じように人をねたんでしまうしずるいことを考えてしまいます。困った困った。こんな自分をお任せいたします。ともなるわけです。 そういうある種の降参の声でもあり告白の声でもあるわけです。そこには自分の弱さもまるごとつつみかくさずこめられているわけです。 それに対して阿弥陀仏は神通力や超能力で苦しみを消してくれるんじゃない。不思議な力で苦しみから解放してくれるんじゃないんですね。誤解を招きそうですが阿弥陀仏はそれに対してなにか甲斐甲斐しく手をさしのべてくれるわけではないんですね。現実にいいことをおこしたり宝くじをあててくれたり、いやな人を消し去ってくれるわけではないんです。現実はなにもかえてはくれません。 なにをしてくれるかといえばただ一緒に苦しみを横でうけとめてくれるだけです。ただ阿弥陀仏は横でしっかりと苦しみや悲しみによりそってくれるだけなんです。一緒になこうじゃないか。一緒にわらおうじゃないか。 現実よど~んとこいと。だめなときは泣きましょう。よければ笑いましょう。必要なときは必要なだけそばにいましょうと。なんにもできないけど一緒にいますよ。いつでもわたしの名前をよびなさい。というわけです。 とても深い慈悲の心だなぁと感じます。 そして自分にはいつだってそういうあみださんがいるから安心だとおもえた瞬間に人は救われるんじゃないかとおもうわけです。 そうやって自らをつつみかくさず降参して手を離す。そして目の前の現実に手を合わせ自分にとっていいことも悪いことも目を背けずにお念仏を唱えて穏やかにいきていく、そうすれば自分の命なくなる瞬間に阿弥陀仏の極楽浄土へうまれることができると親鸞聖人は述べられたわけです。 これが阿弥陀仏の慈悲でありお念仏の功徳なのではないかとおもいます。 最近よく癒しということを聞きますがが癒しというのは。最後の最後にはなにか甲斐甲斐しく世話をしてくれたり、あれこれ手を貸してくれることよりもよこで一緒に心から泣いてくれる。心から一緒に笑ってくれる。黙ってそばで手を取ってくれるだけ。 人はそういうものに安心をおぼえいやされていくのではないかとおもいます。 今回お盆の法話ということで生老病死ということを通して阿弥陀仏の願いということをお話させていただきました。この機会に自分のいま目の前にある生老病死の問題をあらためてみつめる機会をいただき、またお念仏の功徳ということを見つめなおす機会がいただけたらとおもいます。
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