Title: 生死
2009.02.27


こんなに本格的に雪がふったのはいつぶりだろう。

寒いのは苦手だけど雪はいい。雪が降らないと思いだせないことや雪が降らないと感じられないことがたくさんある。

あたたかくなったり急に冷え込んだり、温度差があると人間の体にはやっぱり目に見えない部分でもたくさんの負荷がかかってるんだと思う。温度差があったり、俗にいう季節の変わり目には亡くなる人が多い。お寺にいると本当に肌で感じることの1つに命と気候や季節の関係というのがある。ああこれは通夜葬儀がはいるだろうなという予想は大方外れることはない。

お寺にいてそういうことを肌で感じて、たくさんの人の死に立ち会ってきてるとはいえ、数日の間に、何人も親しかったおじいさんやおばあさんが亡くなっていって、この間笑顔で話したばかりの人たちの死を目の当たりにすると気持ちの整理をつけるのに時間がかかる。

人は誰かの死を通してしか死というものを肌で感じることはできない。死を目の当たりにするたびにああ人間は確実に死ぬんだなと当たり前のことがお腹の中にず~んと響いて、そのおじいさんやおばあさんが亡くなっても世界は何事もなかったかのように回っていくことになんか、つめたい水を頭から浴びせられたような気分になる。

原始仏教の経典の中で仏陀は妄想という言葉をよく使う。

生きていると日々の生活のことや、仕事のことや、友達のことや、大切な人のことや、ほしいもののことや、おいしい食べ物のことや、そういうことばっかりを考えて生きている。でもそれは一種の妄想の1つであって、そういうことを考えているということは同時に自分自身や、生きているということ、命とか、簡単にいえば生老病死の根源的な問題に向き合っていないなによりの証拠だという。確実に目の前に迫っている問題を素通りしてるにすぎないという。

これをすぐには腹からわかることは難しいけど少しづつその言葉に質感を感じることができるようになってきた気がする。

どんなに着飾っても、若くても、楽しい仲間に囲まれてても、大好きな人がいても、いつかは病気になって老いて死んでいく。

バブルの時代にはダンディーで羽振りも良くたくさんの仲間に囲まれていた人も、いまは口からよだれをたらして、つえをついて、デイケアの人に付き添われてしか外に出られないとか、夫婦仲良くおしどり夫婦で幸せでも、奥さんが痴呆になって施設に預けていまは一人で暮らしているおじいさんもいる。そういう人生の過程をたくさんまざまざとみると、本当に世界は無常だと思う。泣きたくなるくらい世界は無常だと思う。

でもそれが人間だし、それが生きていくということなんだと思う。どんなにきれいごとをいっても最後は白骨になっておしまい。そんだけなんだなと思う。

世界が無常であるということを嫌というほど見せられれば見せられるほど、今という時間、今という瞬間がどれだけありがたいことで、幸せなことなんだと気付かされる気がする。

今はもう明日にはない。

人の死を通して自分の中に生死の問題をしっかりと見つめることが自分の職業であり仕事であるとほんとうに最近はお腹から思える。

「あわれというも中々おろかなり。されば、人間のはかなき事は、老少不定のさかいなればたれの人もはやく後生の一大事を心にかけて・・・」

寒さと白骨の御文が身に染みる・・・蓮如さんの言葉は本当にストレートだ。

思うに仏教はある種クールダウンともいえるような気がする。

なむなむ

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Title: 感性。
2009.02.13


感性というと一言で片付いてしまうけど、一つの出来事や事実から、どれだけのことを見ることができるか、どれだけのことを感じることができるか、その数が人生の幅になるんだと思う。

月がきれいだ。それだけの夜にどれだけのことを自分の中に落とし込めるか。

春一番が吹く。それだけのことをどれだけのことに自分に照らし合わせるか。

感性を磨く。それだけでたいていの問題は解決できるような気がする。自分が真宗を扱う上で一番大切にしたいのはそこだと今は胸を張って言える。

*
人間その立場、その状況になってみないとわからない。あたりまえのようだけど、それにちゃんと質感をもって感じるっていうのは難しい。

気づけばつい自分を棚に上げたり、知りもしないのに知ったような顔をする。自分の価値観が一番であるかのように。

自分は自分、他人は他人、どうして違いを必ずしも認めなきゃいけないとは思わないけど、せめてその理由でそれを排除したり傷つけたりするのは絶対に違うと思う。

チベットとかそういう大きな問題の話だけではなく、いま目の前。そこに確実にある問題の話。

*
こないだ久々に自分が小さいときに育った場所をゆっくりと歩いた。そしたらあっちこっちにまだあの頃の傷跡とか思い出がこびりついているような気がした。

あの頃足が速いことと、高い所に登れるということは一種のステータスだった。だからあの頃はとにかく足がはやくなりたかったし、高い所に登った。そんなことを思い出しながら歩いてたら自分が登ってた木や建物にさしかかった。そしたらその場所のあまりの低さにおどろいた。

あの頃ヒーローになりたくてものすごい怖いのに無理して登った場所は、こんな高さだったんだと思ったら、なんとなくうれしいようなさみしいような微妙な気持がした。

でもきっとそれに気づけてよかったんだと思う。いま目指す頂もきっとそうであってほしいと思う。

*

最近自分がなにかを考えるときの柱というか、自分の中で真中にあるものは、物事は関係性でなりたっているということ。それは自分を棚に上げないことであり、感謝することであり、今を大切にしようということ。仏教的にいえば因果とか因縁、宿業ともいえるのかもしれない。そしてそれは一如でもあり。空でもあるということだと思う。

例えるならば頭痛がするときにほぐしたほうがいいのは、首や目だったりすることであったり、お腹を温めるとそこを温めるために使っていた血流が手足に巡るから手足が暖かくなることとか。

人間の脳は首の上にないと機能低下することとか、つまりは寝たきりになることが引き起こす影響は手足だけの問題じゃないこととか。冬に寒くて縮こまってると姿勢が悪くなって胃にも腰にも負担がかかるとか。姿勢を変えるだけでいろんな所がかわる。

風が吹けば桶屋がもうかる。ということを突き詰めて考えてみると面白いくらいなににでも通ずる。

楽しいってなにかとか、命って何かとか、自分って何かとか、好きってなにかとか、友達って、家族って、そういうこの世のすべて全部に関係性を見出そうとおもったら関係性の見い出せないことなんて一つもない。

自分が思うことはそういうすべての関係性によってもたらされている。

その目に見えない部分まで含めて、その大きな関係性や働きを他力と呼ぶんだろうと最近うすうすだけど感じる。

種があっても芽は出ない、土をかけて雨が降って、それだけでも日陰じゃ芽は出ない、太陽があって、誰からもほじくり返されずにいてはじめて芽が出る。でもその種自身は自分で雨も降らせないし太陽も照らせない。

そういうことなのか。

なむなむ。


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Title: ごりょうげ。
2009.02.07

念仏とはなにか。

ものすごいシンプルだけどこの答えこそが真宗の核になる部分であることは間違いない。念仏とはなにかということにきっと答えはないんだと思う。でも自分の中で念仏というものが年々形を変えてきているのは間違いない。

まじめは意味のわからない呪文みたいなものとなんらかわりなかったのが、徐々に自分の中で真宗をつかんでいくなかでおぼろげな輪郭が見えてきたような気がする。

念仏はたくさんの表現で表されるけど、その表現の中でも自分の中でしっくりとくるものを挙げるなら。

・子どもが道に迷ってどうしょうもなくなってお母さん!と叫んだその声こそがお念仏。
・念仏は我の崩れる音。
・念仏は赤子の泣き声。

これが自分の中で腑に落ちた、いまの自分のご領解の中で素直に了解できる表現だと思う。今日本堂でお経をあげているときに、御本尊の前に亡くなった人の写真をお飾りしていたのだけど、阿弥陀さんの足元に笑顔の写真があるのをみて「仏子」という言葉が浮かんだ。

一般的には仏の弟子。仏教を信じる人。仏弟子ということを指すけど、そこには「子」とある。仏子という言葉を仏の子という意味でとらえるならば、そこから念仏というものの性質を解き明かすことはできないだろうか。

子どもがなにかに迷ったり、どうしょうもないときにどうするかといえば、お母さん!だったりお父さん!だったり、それすらもかなわない時には大きな声をあげて泣く。泣くという行為はある種のあきらめ、自分の限界を超えたときの最終手段のように感じる。泣くしかないという心境だ。そう考えれば泣いているということは、その前に少なから自分で何とかしようというプロセスを経てどうにもならなかったという事実があるのではないだろうか。

迷子になったら、まずはきょろきょろと親を探す、うろうろとする。そのうちに不安は色濃くなってくる。歯をくいしばってがんばって遠くまで親を探し回るかもしれない。でも見つからない。

そしてこみあげてくるものがどうしょうもないときに大声をあげて泣く。幼稚園で子どもたちをみていてもほとんどがそのプロセスを経て大声をあげて堰をきったように泣き出す。最後の最後に子どもはもう自分の力ではどうにもならないことを悟って涙を流す。

そして決してこの時の「泣く」というのは「泣く」ことで助けを求めているというのはないんだと思う。もちろん心のどこかで助けてほしいという想いはあるのかもしれないが、具体的にだれかに助けてもらおうとか、泣いてアピールをすればだれか大人が駆け寄ってきてくれるなんていう考えは一切ないんだと思う。

いま目の前の現状が自分の限界を超えた。だからいま自分にできるのは泣くことだけだ。という自覚というかあきらめと、どうにもならなくてこみあげてしまったという表現が一番しっくりくるんじゃないかと思う。

このプロセスは当り前のようだけど、そのまま人生にも当てはまるんだと思う。

人間生きていればいろんなことにぶつかる。大切な人を亡くすこともある。生きていくのがどうしょうもなくつらいときもある。自分自身が嫌になってどうしょうもないときもある。

そういうときは言い換えれば右も左もわからないような真っ暗闇にいるんだと思う。右も左も上も下もどこにいってもいいかわかんなくて、でも必死に抜け道を探そうとする。その心は子どもが歯をくいしばって親を探すのにちかいものがある。

しかし大人になればなるほどに、そういう自分を素直にうけとめられなくなる。現状を受け入れるまえに、まず思い浮かぶのは打破ではないかと思う。

迷子になったら、いかにこの危機的状況を抜け出すかを考える、そして知識も経験もあるから、人に道を聞くことも、お金を借りることもできる。最悪携帯で電話すればいい。そうして問題を解決していく。解決していくというよりも解決できてしまう。打破しようとしてできない子どもではなく、打破しようとしてたいていのことが打破できてしまうのが大人で、打破することに慣れてしまい、ましてや打破することに価値観を見出そうとしたりする。

あの頃目も前にあった壁の前でただ泣き崩れるだけだった自分はどこにもいなかったかのように。そんな自分は弱く無力な子ども時の話じゃないか。いつまでそんな話をしているんだという顔を平気でする。

でもそれは違うと思う。

道を誰かにきいてもみんなが違う道をすすめて、お金を借りようとおもっても、お金じゃ解決できなくて、携帯電話の電波も届かないところで迷子になるということが人生にはある。

打破できない問題というのは存在する。生きるということ老いるということ病気になるということ、死ぬということ。

その問題にぶつかったときに、打破することがすべてだった自分はいったいどうすればいいんだろうか。

その時にきっとああ泣くっていうのはこんなに難しかったんだと思うかもしれない。それでもまだただ泣くだけになんの意味があるのかと強がろうとする気持ちがでるかもしれない。

でもただ泣くという行為の中には、自分にはどうしょうもないんだという自覚がしっかり存在してる。あきらめ。いうなれば「我」というものがきわめて薄くなっているんじゃないかと思う。

生老病死の問題というのは言い換えれば何をしても打破できない問題。解決法は受け入れるほかにない。自分の中に何かを受け入れるときに一番大事なのは入ってくるそのものの居場所をしっかりと作ることだと思う、それを邪魔するのが「我」だ。

まだまだ若い。病気には負けないぜ。死ぬなんて老人が心配すればいい。なんて思っててもそんなのは妄想で、否応なしにその問題はいつだって目の前にある。

お念仏「南無阿弥陀仏」というのは。

その目の前にある問題がしっかりと輪郭をおびていきなり目の前に現れた時に、うわぁ!なんじゃこりゃもうどうしょうもねぇ!って出てくるときに出てくる音みたいなもんなんだと思う。

言い換えれば、降参しますで、白旗あげることなんだと思う。現実みたら泣くしかないぜ、なまんだぶつなまんだぶつ、という使い方なんだと思う。

そう思えば最初に挙げた

・子どもが道に迷ってどうしょうもなくなってお母さん!と叫んだその声こそがお念仏。
・念仏は我の崩れる音。
・念仏は赤子の泣き声。

というのがなんとなく了解できる気がする。

ここまで考えた時にじゃ降参しました。白旗あげました。お念仏が口をついてでました。そしたら死ぬのがこわくなくなるんでしょうか、そしたら悲しみをのりこえられるんでしょうか。それが口をついてでたら一体どうなるんでしょうか。というところじゃないかと思う。たぶん。本当の意味でお念仏が口をついてでたときにはこんなところには引っかからないんだろうけど自分にはまだこの部分がひっかかるわけです。

でもその疑問がでるということはまだお念仏というのが、自分の中でなにか苦しみを取り除いてくれる呪文のようなものとおんなじ扱いになってしまってるんだと思う。そういう疑問が出るのはそれがまだ打破の手段だと思ってしまっているからなんだと思う。

「打破できない」この1つの事実がもたらしてくれるのは、いいかえれば人間の有限性というか無力さです。「所詮」っていうことに気づかされることだと思う。

考えても考えなくても死ぬ。考えても考えなくても老いる。考えても考えなくても病気になる。生きるというのはそういう目に見えない大きな流れにさらされててあがいてももがいても一緒なんだってことなんだと思う。

人生というのはよくよく見れば思い通りにいくことなんて1つもない。よくもわるくも。

今の現状がつらくてつらくて泣いて泣いて泣いて泣いて。でもそうするとずっと泣いてちゃだめだ。前を向かなきゃと思う。でもそう思ってもそれが正解とは限らないし、それが正解だという保証は何もない。顔をあげたまたたたきのめされるかもしれない。もしかしたら顔をあげたら別の道がひらけて人生が変わるかもしれない。でもそれはわかんない。

顔をあげるのは正解とおもってると。顔をあげたのにまた叩きのめされた!なんで?って思ってしまうけどだれが顔をあげたら叩きのめされないといったんだろうかということじゃないかと思う。

自分の「思う」ことというすべてに正解はない。1秒先に100%はない。わかってるようで見えにくい人間のもろさ弱さ非力さ無力さに心から気付かされて生きるかどうか。

ある念仏者の方が身内を亡くして寺にきた人とこんなやり取りをしたという。

辛かったら泣いたらいいがな。

でも毎日泣いてるわけにいきません。

じゃ泣きやんだらいいがな。

でも涙は止まりません。

止めなくていいがな。

止めないと仕事にいけません。

そんだら行かなきゃいいがな。

いかないとお金がなくなって食べるものがなくなります。

そしたら食べんでいるしかないがな。

食べなかったら死んでしまいます。

そしたらそんときは死んだらいいがな。

これだけ読んだらなんだこりゃと思うかもしれないけどものすごく筋が通ってると思うし、ここで考えさせられるのは「幸せ」ってなんだろうかということだ。

食べ物があるのが幸せなのか。生きていることだけが幸せなのか。泣かないことが幸せなのか。仕事に行くことが幸せなのか。

最後にそんときは死んだらいいがな。という一言にはっとした。死は忌み嫌われて駄目なものだと思ってた自分の価値観にも違う角度があるかもしれないと思った。これはほんとにわかんないけど、きっと念仏者がこのとおりになって死を迎えたとしたらそれは死は受け入れ難く辛く悲しいものなんだろうか。なんかこれは勝手な想像でしかないけど、いやぁしゃあないな。こうなりゃ死ぬしかないがな、なまんだぶつなまんだぶつと晴れやかに死んでいくのではないかと思ってしまう。もしかしたら最後の最後に死にたくない!って思ったとしても、ああやっぱ、死にとうないなぁ。なまんだぶつなまんだぶつと死んでいくんだと思う。

なんだろう。価値観にとらわれずに我にとらわれずに、自分の存在の分をわきまえてる感じこそ念仏に出遭っているということなのかもしれない。

それってものすごく強いことなんじゃないかと思う。

人生は思い通りにいかない。むしろ自分で変えられることないと思うことは一見窮屈できめられたレールの上なのか。と思ってしまうかもしれないけど、それに気づかされることこそこそ最高に自由なんじゃないかと思う。

いまここ。

自分にはここしかない。

念仏とはなにか。きっとその問題を解き明かすということは一生できないと思う。でもこうやって自分の中でご領解としてことあるごとに頭の中にあることを吐き出す作業だけはやめないようにしようと思う。一生解き明かせないような問題に出会えて自分は幸せだ。

まえにまえに。

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  • 1980年1月9日生まれ。どこからを趣味と呼んでいいのかは模索中。好奇心は旺盛。