Title: 仏教の役目
2010.07.06

この湿度と気温。ああ日本もアジアなんだな、なんてことを再認識する。

こないだあるお寺の方が、命の大切さを説くのが宗教の役目であるし、命の尊さ説くのが仏教の役目であるとおっしゃった。

でも自分はそうは思わない。

宗教は生命よりも大切なものがあるということを考えるためのものだと思う。それに仏教は生命の尊さを説くものではないと思う。生命が一番大切だという考えこそ、宗教や仏教を通して正さなければいけない考えじゃないかとすら思う。

こうかくと誤解を招くかもしれないけど、

生きていることよりも大切なこともある。

それは何かの大義名分があれば死んでもいいというのではないし、簡単に命を粗末にしていいということじゃなくて。生命至上主義になって、命を一番上に置いてしまうと、見えなくなってしまうことがあるということ。

延命の問題も、尊厳死の問題も、移植の問題も、輸血の問題しかり。

日々の生活の中で、人は生きることには必要以上にスポットをあてるのに、死にはあまりスポットをあてない、そんで生きてることだけが素晴らしい、長く生きれること、命があることこそが最高だという価値観を知らず知らずに刷り込まれる。

その価値観が疑いようもないものになると、平気で2つあるなら片方の腎臓をもらえばいいんじゃないかとか、死んだ人からなら角膜を移植すればいいじゃないかとか。豚から臓器をつくって移植すればいいじゃないかとかいう議論を平気でするようになる。

なんかうまく伝えられないんだけど。

なにがいいたいかというと。

統一された価値観に依るというのは危険なことだと思うということ。

例えば、生きてることだけが素晴らしい、長く生きれること、命があることこそが最高だという価値観を知らず知らずに刷り込まれた人は、きっと長く生きられない人をかわいそうだと思って、長く生きられることが幸せに決まっていると思うだろう。

もっといえば、お金があれば幸せだと思っていれば、途上国の子どもをみてかわいそうだと思うだろうし、アフリカの人をみてかわいそうだと思ってお金をあげれば幸せになれるんだと思うだろう。

健康なことが幸せだと思えば、病人をかわいそうだと思い、五体満足であることが幸せであると思えば、ハンディを背負った人をかわいそうだと思って、容姿がいいことが幸せだと思えば、そうでない人をかわいそうだと思うだろう。

他人の事ならかわいそうで片付けて、自分にそれがふりかかれば、なんて自分は不幸なんだろうと思うだろう。

なんでお金がないんだ、なんで病気なんだ、なんで五体満足じゃないんだ、なんで容姿が悪いんだ、なんでなんでと思うだろうに。

人間は価値観に支配されてる、自分の価値観でしか物事を判断できないし、その価値観に外れるものは拒絶するか、目をそむけるように生きている。そんであわよくばそれを人に強要したがる。

それをやめろといわれても無理だけど、せめてそれを知っているか知らないかが大事なんだと思う。

仏教がどこかの価値観にとらわれて、そこに重きを置くような考え方の片棒担ぐわけないじゃん。なんで仏教の役目が生命の大切と尊さを説くことなのさ。

そういうところに落ち込んで、なにかに偏ったりとらわれてはいけませんよ。というのが仏教だと思うし、むしろ世の中に平均的な価値観をつけて不平等を生みだすから、勝ち組とか負け組なんて言葉が生まれるんだし、その平均にならねばならないという閉塞感が、人から生きる活力を奪うんだ。

仏教はどこであれ、だれであれ安穏と生きられる方法を教えるものでしょう。

とかまで自分の中で話しが飛躍しながら悶々と帰ってきたわけです。

こういうことを思うたびに自分の中にある仏教が少しづつ形になってくる気がするのです。

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Title: 口蹄疫。
2010.05.28

最近ニュースで取り上げられていますが、宮崎県で、口蹄疫という感染病が広がり、何万頭という牛や豚が殺処分にされているそうです。

それを取材したとある番組の中で、宮崎県の畜産農家の人がインタビューでこう答えていました。

「殺処分に際して、いずれに肉になるんだといえども、手塩にかけて育てた子が、違う形で殺されてしまうのは苦しい、せめてお腹いっぱいにしていかせてあげたい」

それを聞いて、どういう形であれ、やはり命にじかに手が触れる仕事をしている人たちの言葉というのは、重くて響くなと思いました。

そしていろいろな報道の中で、各分野の各コメンテーターや政治家の方々が口々に議論を交わしていました。

口蹄疫がこれ以上広がるのは、宮崎の畜産業界の未来ひいては国益に関わることだから殺処分はやむなしとか、人間に感染することなく食べても問題ないのにそこまで大げさにする必要があるのかとか、国の対応は正しかったとか悪かったとか。

それを聞いていて、そういう話はとても大切なことで、保証も含め国がそういう体制をしっかりと築いていくことは不可欠なことだと思います。

しかし、そこだけにスポットをあててしまうのではなく、そこに生きる人や、現場でじかに命に手を触れている人たちの気持ちにしっかりと寄添っていくということもとても大切なことだと感じます。現場で命に触れている人たちの気持ちになれば、きっとなにが正しくて何が間違ってるかとか、それが正論かとか、感情的だとか理論的だとかそういうことじゃなくて。

ただ悲しいのだと思います。

命に触れてると、理屈じゃなくてただ悲しいしただ嬉しいし、

ただただなんだと思います。

ただ悲しい。

このただ湧いてくる感情に寄り添うことができて初めて何かを慈しむ気持ちや、なにかを愛でる気持ちというものに気づかされるのかもしれないと思います。

側面的な理屈でばかり物事を考えているとつい見失いがちな部分なのかもしれないと、自分自身、宮崎県の畜産農家の方の言葉に気づかされた気がしました。

最後人を支えるのも、心を動かすものも、理屈ではないなにかなのかもしれません。

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Title: 共有
2009.09.19

宗教や信仰を深めていくということは、感覚の世界だ。

いうなれば感覚の共有なのかもしれない。

夕焼けを見たときの感動を人に伝えるときに、自分にできるのは、夕焼けのところまで足を運んでもらうことしかできない。

その道筋を説くのが仏法なんだと思う。

それぞれの宗派がそれぞれの方法で、同じ感覚を目指しているようなものなんじゃないかと思う。

悟りも感覚の問題なんだろう。

夕焼けを見たとき。誰かを好きになった時、なんでもいいけど、自分の中に湧いてきた様々な感覚の中の1つとして、悟った時の感覚というのがあるんだと思う。

夕焼けを見たときの感動を伝えようと、赤だとか、すごい色だとか、どんなに説明しても、それは理屈で、なんとかそこでわかった気になっているか、わかった気になろうとしているのがほとんどなんだろう。

いままで悟りなんてものは自己申告じゃん。と思ってたし、そんなの意味あるのかい。なんておもってたけど、違うわ。

その感覚がどんなものかわからないけど、そういう人がいて、対峙したとしたら、きっと自分のところと同じところにいないのはわかるし、その人の行動や言葉にすべて、自分にない感覚を味わえるんだと思う。

それが言葉が通じようと通じなくとも。

例えば、めちゃくちゃきれいな夕焼けで感動した自分と、おんなじくらいきれいな夕焼けをみて感動した誰かとは、たとえば多くを語らなくてもわかりあえるし、

きっとこの色なの?と夕焼けを見たことない人に、赤い絵の具を渡されたときに、いやいやいや!と笑いあえるんだろうと思う。

それがつうじあうということなんだろう。

いま自分の中にある感覚が信仰の中でどのへんなのかとか、わかんないけど。

いま自分の中にある、気持ちや感覚に近いものを味わったことがある人となら、目でも言葉でも、きっとこの感覚で、マンガの話をしても、宗教の話をしても、車の話をしても、ゴルフの話をしても、わかりあえるんだと思う。

きっとその人と、真っ白なキャンバスを前にいっしょに大笑いできるかもしれない。

雨の日にずぶぬれになっても大笑いできる気がするし。

これがここにあるとしたら、これはここだよね。そしたらこれはこのへんじゃない?なんて、茶碗や湯飲みや橋を机の上に並べて大笑いできるのかもしれない。

感覚をわかりあうということは、なにを話しても端々にその感覚はにじみ出るし、そこに通じた同志ではわかるものというのがあるんだと思う。

これはなんでもそうだけどね。

ラグビーやったことやったことある人たちでわかりあえる感覚を、やったことない人にはわからないし、でもやった者同士では、ツーカーでわかるようなもんだ。

感覚を共有したものどうしでわかるツーカーの感じ。

ここ数カ月で自分の中でつながった、点と点はけっこう強固で、いっこうにほどけそうもない。むしろこれであっていてくれともおもうし、あっていてもあっていなくてもいいともおもうし、あってないほうがいいかもとも思う。

味わったことないこういう感覚が、もっとたくさんあるのかと思うとたまらんと思う。三昧の境地とかどんな気持ちなんだろうか。味わってみたい。

いままで自分にとっての善知識はなんなんだろうかと考え込んだことがあるけど、おぼろげにいま思うのは、自分にとっての善知識は、この環境すべてなのかもしれない。

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Title: すすむみち。
2009.09.17

自分が成長したなと感じるのは、人と関わる中で苦しんだときで、その中で喜んだときで、感動したときで、悔しかったときで、悶々としたときで。そういう体験が少しずつ自分を押し上げてくれてるような気がする。心がざわつくというのはありがたい。

毎回この時期に子どもたちが運動会の練習をしているのをみると、いろんな想いがこみあげてくる。最近思うのは、その子が、赤ちゃんだった頃とか、お腹にいるころから知っている子どもたちが、泥だらけになって真剣な顔で、走ったり、悔しがったりしているのをみると、ほんとうに人間というのはすごいなとおもうし、不思議だとも思う。

それに、何年もここにいて、何人も兄弟とかずっとみてると、ほっんとにここ一番の、へたれ具合とか、悔しがり方とか、感情があらわになる瞬間にでてくるものって、ほっんとに兄弟って似てると思う、同じものが流れているんだなということを思う。

世の中には理屈じゃ説明できない何かがたくさんある。あたりまえ、というものほど目を凝らせば感動するものないなと思う。この瞬間に感動できない事象なんてないんだろうと思う。

いいなあ人。

と書いてみたら。

思いだした。

まえに人はいいなあ。といったら、とある人から、あなたは誰かに裏切られたことがないだろうし、恵まれているからそういうことがいえるんですよ。でもそうじゃない人もいることを覚えていてください。と言われたことがある。

まさにピシャッと。

その時は、はい覚えておきます。といったもんだ。

最近思うんだ。

そういうことはたくさある。

命の話をしてもそうだし、人の話をしてもそうだし、例えば慈悲の話をしてもそうだ。

日々の生活に追われてて、人にも裏切られて、命がありがたいとか言われてもぜんぜんピンとこないし、そんなことよりも自分は自分が食べていくのが精いっぱいだし、あんたみたいにのうのうと生きてないんですよ。

お寺で話をきいて、わかってるんだけど、なかなか目を向ける時間なんてないんですよ。っていうことはよく言われる。

本当にその通りで、明日食べてくのが必死であったり、子育てしてたら、、生きていくことが精いっぱいで、そんなことを考えている余裕なんて普通はないだろうし、むしろ宗教や信仰がなにをしてくれるんだい。

よっぽどお金でも配ってくれた方がありがたいわい。

といわれればそうかもしれない。

たしかに自分はのうのうといきてるし、ヘラヘラいきてるし、恵まれてるし、生活に追われてはいない。だから、その人たちの気持ちを心からわかることはできない。わかりますよ。なんていえないよ。そうじゃないもん。

でも自分がそれでもなんで命の話をしようと思って、慈悲の話をしようと思って、それでもやめないぜ。と思えるのは、

自分はまだ若いのかもしれないけど、きっとお寺に生まれて、大好きなおじいちゃんやおばあちゃんみたいな人がたくさん死んでいったり、時に若い人の死にも立ち会ったり、そうやって人が死んでいくのを見てたり、年老いて、病気になったり、ボケたりするのもみてきて、それを小さいころから、目をそむけたくてもできない環境に自分なりの方法で適応しようとしてきたからなんだと思う。

そういう環境にいることがいやでしょうがない時もあったけど、今になって思うのは、これがお坊さんってことなんだなと思うし、お寺に生まれるということなんだと思う。

それに残された人たちを見てくる中で、大好きな人の死を乗り越えることがどういうことかをまざまざとみてきて、正直、自分がそういう話をしたり、仏教にここまで感情移入できるのは、なによりも自分が死ぬのが怖いからで、老いたくないし、病気にもなりたくないし、それが怖くて、大切な人の死を乗り越えることができるか不安なんだな。だからそれをなんとか払しょくしたくてなんだと思う。

そんでこの、老いること、病に伏すこと、死ぬこと、は決して自分だけがぶつかっているわけじゃなくて、生きてる人みんながぶつかってる問題だから、生活に追われてても、だれかに裏切られて打ちのめされてても、そんなことお構いなしに、やってくるもんだ。

いくつだろうとこれをいま読んでる人全員。それにぶつかって、「はいこんにちは」ってなってどうしょうもなくなったときに、

そういうときのために仏教っていうのがあるんだよ。

それをどうやったら受け止めていけるか考えて、考え抜いたお釈迦さんって人がいるんだよ。

でも正直自分はそれ試せないし、たぶんそのまんま受け入れるのは無理だわ、だから

自分はね親鸞さんのこの言葉があってよかったと思うんだよね。

それに唯円っていう人がいてね。極楽とかよくわかんないっていってんだよ。

他にもたくさん、何百年も何千年も前からね、そういう問題に向き合ってた人がいてね、それをお経っていうものにまとめたんだよ。

いきなりこれ渡してもこまるだろうから、自分なりの解釈を話すね、これはかくかくしかじかでね。

って

話すのが法話なんであって。

それがお坊さんの仕事。

そんでこれが自分のすすもうとしてる道なんだろうな。

お坊さんは社会的に有益でなければいけない。と最近よくいわれるけどね。

これ1本で有益だと認められなきゃ意味ないと思う。

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Title: 死にかけてますがなにか。
2009.09.15

もしいま突然。

「おいそこの死にかけたおじさん」

と言われたら。むかっとすると思う。

でもそれは全部事実なわけだ。生きている以上、死にかけてない人なんていないし、自分はもうお兄さんでもない。

でもそれにむかっとするということは、

自分は死にかけてないし、おじさんでもないと思いこんでいるからなんだ。

この思い込みを、仏陀は妄想と呼んで、そこでむかっとする気持ちを苦しみと呼んだ。そんで、その苦しみを解消するために、物事を正しく受け止めて、事実を正しく見なさいと言った。その物事を正しく見ることを智慧というと言った。

むかっ。とか、イラっとか。

よく目を凝らしたらけっこう言われんでもないなと思うことは多々ある。

今に目を凝らしてみると、けっこういろんなもんが落ちてるもんで、自分の疑問に思っているすべての答えは目の前にあると思う。

阿弥陀経の中には、「今現在説法」という言葉がある。

今この瞬間にも説法は満たされているという意味で了解してもいいじゃないかと思う。

「摂取不捨」というのも同じで、捨てるもんなんてなにもないと了解してもいいんじゃないかと思う。

ああ自分ってばつくづく浄土系。うふ。

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Title: 方便
2009.07.06

人間は方便を通さないと真実にはいきつけないなというのを今回三願転入について考えているときに改めてそのことを再確認した。

前にも書いたけど、1つの例だけど、家族のコミュニケーションがぎくしゃくしてるとして、家族会議を開いたらそれで解決するかといえば必ずしもそうじゃない。そもそも家族会議が開けるような家ではそこまでぎくしゃくもしないだろうし。

そこで真冬にエアコンをぶっ壊して、リビングにコタツを1つおくことでなにかが円滑に回りだすということはあると思う。これがある意味方便ということなんだろうと思う。

ベストキッドという映画がある。へなちょこダニエルさんに、日系人のミヤギさんが空手を教えるという映画なんだけど、それをふと思い出した。

ダニエルさんがミヤギにはじめて空手を習うときに、ミヤギさんは、車のワックスがけをしてきなさいという。ダニエルさんは言われるがままにそれをする。そして次には壁のペンキ塗り。そこでダニエルさんは切れるわけだ。こんなんで強くなれるわけないだろと。

そこで悪い奴との戦いになるんだけど、そこでやられそうになった時に、ミヤギが駆けつけて横からいうわけですよ。ダニエルさんワックスかける!ワックスふく!すると飛んできたパンチを軽々とその動作でいなしていくわけです。

そりゃ映画だよ。映画だからだよ。でも方便というのはそういうことなんだと思う。

人間は本当に深い部分にはそれだけをまっすぐに考えて、それだけに突き進んでたら見えないんだと思う。

たかがのらしごとでも。

たくさんの人と1つの作業するとよくわかる。その人の気の使い方、声のかけ方、視野の広さ、つかれてくれば本当の表情とか。それにお互いそういう中でしか育まれないものってあると思う。だから楽しいはだれかが与えてくれるものでもないし、楽しいはなにをするかということよりも大事なことがあるんだと思う。

しかし嘘も方便って、方便の意味がわかるとものすごい深い言葉だな・・・

まわりくどいけど、でも自分はこうおもうぜ!なんでわかってくれないの?はまだまだそこには我執があるってことか。それをどうやったらわかってもらえるか、そのためにはまずどの順序ではいるか。ああなんかドッキリを考えて布石をちりばめてる時ににてるかも。ようは直接的じゃだめな時もあるということか。

そう考えたら少し前に感じたことが今つながった。

少し前まで祈るだけで世界が変わるならもう世界は変わってるはずだ。なんて吠えてましたが、あれもあれからよくよく考えてみたら、祈ることではたしかに何もかわんない。超能力とかないし。

でも何かを祈ろうと思う気持ちを持つことで、手の届くところにいる人や、自分の周りだけにだけでもすこしいろんなことに寛容になれるんじゃないかと思う。

ようは祈るという行為に意味があるのではなく、祈ろうと思う自分に意味がある。だから祈りというのはベクトルは内側にむいてるものなのかもしれないということに気づいて目からうろこが落ちて、いままでの自分の視野の狭さと、みえていなかった世界と感覚があったことにうれしくもなった。

事実だけを、目見えるものだけを捉えるんじゃない。そこから。そこを通して自分が何を得られるかということは無限の可能性で、むしろこれは飛躍しすぎかもしれないけど、一つの事実にすべてがあるというところまで行きつけることもあるのかもしれない。

それこそが拈華微笑の世界か。

しかし深いな。深くて深くて。

しかしこんなことを何百年、何千年の間でたくさんの人が生涯をかけて考えてきて、そしてそういう人たちが一生をかけて、生涯をかけて残した経典がいまの世の中まで残ってるんだからすごいことだよな。人間ってすごいなぁしかし。

ありがたい。お経の本は粗末にできないね。お寺に育つとついつい慣れてしまってその辺がおろそかになってしまうけど反省しなきゃ。

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Title: 脳死問題について
2009.06.22

脳死と臓器移植の法案が衆議院で可決され、自分の周りでもたくさんのお坊さんが議論をしています。つい先日、あるお坊さんが、もっと医学者・哲学者・教育者・宗教者などを巻き込んで活発な議論をすべきだ!と言っているのを聞きました。しかし自分の考え方の中ではこの議論にお坊さんは関わるべきでないと思います。

脳死は人の死かどうか。医学者・哲学者・教育者・宗教者などを巻き込んで 活発な議論がなされたら答えの出ることなのでしょうか。

どうしても自分の中で人間というものの凡夫たる所以を深く省みるとどうしてもこの議論をして、法律を改正できたら、改正されると世界から苦しみが減るのかと思ってしまうわけです。この法律がしっかりした議論がされて制定された前と後で人間の苦悩の数は変わるのか。

そもそも人の命というもの、または死というものにラインを引く、言い換えればそれを理解しようとする、理解しようとするということは自分の価値観の中で判別するということです。それをできると思うこと自体が人間の苦悩であり凡夫たるゆえんではないかと思ってしまいます。

誰かにとってはその法律が制定されれば苦しみが減り、たくさんの命がすくわれるかもしれません。でも誰かにとっては同時に新たな苦しみを生みだし新たな問題を生み出すんではないかと考えてしまいます。A案でなく他の案、またはここにあがっていないなにかほかの法案で人を幸せにして苦悩を消すことができるのかなと、こういうともともこもないんですけど・・・どこを選んでもどこかに苦悩の種を残すということは選ぶことが正解ではないのかと思ってしまいます。人間が理屈で理論をするときに、人間が世間の物差しでなにかをはかるときにはどうしてもどこからみても完璧ということはありえないと思うからです。仏教の価値観というものは誰にあっても普遍的なものであると思います。

仏教の目的というのはまずは自分自身が仏教によって救われるかどうかではないかと思っています。脳死は人の死かどうか。という議論に宗教者がはいってああでもないこうでもないということ自体が仏教の本来の目的と少しずれているような気がしてしまいます。仏陀の毒矢の例えがありますが、理屈ではないところの部分ではないかと感じます。

仏教の目的は苦しみの種を減らすことです。どういう形であれどこかで苦しみを減らしてもどこかで苦しみが増えるような議論に、自分はジレンマを感じてしまうわけです。そこに自分がどうしても加われない気がしてしまうんです。なにかもっと根本的にやらなきゃいけないことがあるんじゃないかと。

仏教の根本はその人間の根源的な部分に関わることだと思います。仏教っていうのは自分の体温で世界の温度をあげるような途方もない作業かもしれません。法律をいますぐかえればいいというのではなく、自分はこれから法律をつくっていくであろう人間や、自分の手の届くところにいる人たちだけでも仏法に触れる機会があってその中でなにかを感じてもらえたらなにかがかわるのかもしれないと思います。というかそれぐらいしかできないんですけど。

現代の抱える様々な問題とその議論は、仏陀が死んだらどうなるんだと問われた時にそんなのわかんない。と答えたときの議論に似ているような気がします。

自分にできるのは脳死の場面に立ち会うことになった遺族が、死というものをどういう形であれうけいれられる、真宗的な言い方ですがそれこそ阿弥陀さんのはからいにお任せしようと思えるような種をまき続けていくことであり、まずは縁のあるところ手の届くところに仏法の種をまくことだと思います。

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Title: ひそうひぞく
2009.06.17

忙しいなんて言い訳にならないですが。

アリストテレスやプラトンやアルキメデスやソクラテス達が星と星をつないで星座を作れたのも、無知の知を思いついたのも、お風呂の水があふれるのをみて質量の法則をおもいついたのも、たくさんの崇高な思考や哲学を生み出せたのは彼らには十分に自分と向き合える時間があったからだと思うことがあります。

当時は身の回りのすべてを奴隷にやらせてたんだからやることと言えば考えるくらいしかなかったろうに。

余裕というと弊害があるかもしれないけど、何もしていない時間を余裕と呼ぶならばそういう時間がなければ生み出せないものがあるのかもしれない。

それは自分のことであったり。

人間のことであったり

生きるってこと。

生死の問題、生老病死の問題。

現代の一番大きな問題は選択肢の多さと娯楽の多さだと思います。

なにもなければいやがおうにも目を向ける先は、四季であったり、風や空かもしれないし花かもしれない。そしてそこから対比される中で自分自身や人間に目をむけられるかもしれない。そこから生まれる感情というのはたくさんあると思います。

でもいまはとりあえずテレビをつける。とりあえずパソコンをたたく。とりあえず携帯をいじる。ゲームをする。とりあえずできることだけでも数え切れないほどある。

その時間に暇だったり無駄かも知れないけどなにもしないでいたら気づけることがあるかもしれないのに。なんにもしてない時間が現代人にはどれだけあるのでしょうか。自分や人に目を向ける時間を持ってる人がどれだけいるのでしょうか。

宗教離れも命の尊さに気づきにくい要因の一つにそういうこともあるのではないかと思います。

末法の世とはよくいったもので人間は抱えるのは簡単なのに手放すことは容易にできない生き物なのに、次から次へ抱えたくなるようなものがあふれてくる。

だからどこかで抱えるのをやめないといつまでも本当に大切なものは見えないのかも知れない。 手放すことで得るものがはかりしれないってことに気づけないまま死んでしまうかもしれない。

そう考えると一番強い人間はなにも持ってない人間なのかもしれない。

「すべてを捨ててしまおう」「捨てる心さえも捨てた」という一遍上人の心がすこし了解できるような気がします。

現代において自分を保って生きるってことは本当に難しいことだと思います。

なんで生まれてきたのかとか。

人は死んだらどうなるかとか。

なんで太陽は明るいんだろうとか。

地球ってなんだろうとか。

そんなことに疑問が浮かびそうになってもテレビのスイッチを入れればそんな疑問を一瞬でかき消す。

自分でなにかを手放して、何かに線を引かなきゃ一生見えないものがたくさんあると思います。どんどんとかき消されていくものがたくさんあるんだと思います。

そのかき消されたものこそが生きていく上ではなにより大切なものだったりすることがあります。

うちの寺で寝泊りをしていた曽我先生が、もう娑婆の話は十分ですわっていったのがなんとなく素直に了解できる気がします。

だからといってすべてを捨てることはできない。捨てることはできないなかで、なにが本当の意味で正しく必要であるのか、考えることをやめないこと。

これも一つ非僧非俗の精神なのかもしれないと思います。

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Title: いただきます。
2009.06.03


「いただきます」

幼稚園でも給食がはじまり、子どもたちはお昼ご飯の前にみんなでそろって手を合せ「いただきます」といいます。そんな光景をみていて、ふと子どもに尋ねてみました。

「いただきますって誰にいってるの?」

そうしたら子どもがいいました。

「お母さん」

「どうして?」

「だってお弁当作ってくれたから」

こんな会話をしました。

なにげない会話だったのですが、しばらくしてそのことを思い出してふと感じたことがあります。たしかにお弁当を作ってくれた人にたいする「いただきます」はすごく大切です。しかしそれだけではなくそれともうひとつ忘れてはいけないのが命にたいする「いただきます」ではないかと思いました。

魚の命をいただきます。

動物の命をいただきます。

野菜の命をいただきます。

いただきますは、命をいただきます。という意味もあるんだと思います。いまはスーパーでは魚も肉も切り身で売っていて、水族館で泳いでいる魚や牧場にいる牛と、自分の食べているお弁当を結びつけるのが難しい世の中です。

でも人間が生きるということはたくさんの命をいただいてはじめて生きていけるわけです。そこに気づけてはじめて湧いてくる感情というものはたくさんあるんだと思います。愛でるということ。感謝するということ。

そういう大切な心の一つ一つはをしっかりと子どもたちに伝えていかなきゃいけたらいいなと思いました。

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Title: ばらばらでいっしょ。
2009.05.17


幼稚園ではでは始業式も入園式も終り、いよいよ新しい子どもたちがたくさん幼稚園にやってきました。3歳の子どもたちのほとんどはいままでずっとお家にいたわけで、いうなれば生まれて初めて社会にでたわけです。

まだ幼稚園になれなくて、毎日泣いていたり、友達と喧嘩をしたり、園庭をふらふらしてる子どもがいたり、本当にこの時期に園庭の様子をみていると、ほんとうにいろんな子どもがいるなぁと感心します。一言で言ってしまえば個性というものなんでしょうが、まだ生まれて3年しか生きてきていない子どもたちなのにこんなにもたくさんの個性があるものかと驚かされます。

一日中砂場で遊んでいる子、絵本が大好きな子、植物が好きな子、虫が好きな子、運動が好きな子、泣き虫な子、すぐに怒る子、すぐにいじける子、何もしない子、給食を食べない子。

こんなにたくさんの個性、言い換えればこんなにたくさんの違う子どもたちが、1つの園庭でみんなで遊んでいるわけです。

そんな光景をみていて感じたのは、本当にみんなそれぞれの価値観をもっていて、その価値観のどれにも優劣も正しいも間違ってるもないはずで、それはそれであるがまま素晴らしいことなのに、つい大人になると自分と価値観のあわない人を批判してしまったり、あの人はちょっと変わってるよねなどと、とさも自分の価値観だけが正しいかのように、ふるまってしまい、それを押し付けようとしてしまうことすらあるということです。

また現代では情報が氾濫していて、勝ち組負け組なんて言葉が生まれたりしていますが、気づかないうちにたくさんの価値観や優劣を刷り込まれがちです。

しかしみんなそれぞれが個性をもって生きているということをしっかりと自覚して、それぞれみんなが自分というその個性を大切に、ひいては自分自身を大切に生きていくということは大切なことだと思います。バラバラで一緒というキャッチコピーが京都の本願寺の壁に貼ってありましたが、バラバラで一緒。違いを認める心というのはとても簡単なようで難しいつい忘れがちな心だと思います。

それぞれがそれぞれみんな尊く、それぞれの命がみんなそれだけで尊い。天上天下唯我独尊というと自分が世界で一番偉いという解釈をされてしまうことがありますが、言い換えればまさに、バラバラで一緒、この世のすべての生きとし生けるものすべてにやどっている生命1つ1つがそれだけでそのまんまで尊い。言い換えればたくさんの理屈や価値観に振り回されるて人を判断したり優劣をつけたりするのではなく、この命、この身体はそれぞれがみんな自分と同じように尊い存在だということに気づくということが大切だということなのではないかと感じます。

まず自分の尊さに深く気づき、命のありがたさに気づかされるということが、同時に他人の命の尊さにつながるということは、本当に現代に起きる様々な問題解決の第一歩のような気がします。


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  • 1980年1月9日生まれ。どこからを趣味と呼んでいいのかは模索中。好奇心は旺盛。