Title: 2007お盆

天才バカボン

本日はみなさま暑い中お集まり頂きましてありがとうございます。

お盆の法話ということで、そもそもお盆といいますのは古いインドの言葉、サンスクリット語で「ウランバーナ」が転じたものでして、それが「盂蘭盆会」そして「お盆」元の意味は「供養すること」というそうです。釈尊(お釈迦様)の弟子で目連(もくれん)という人がいた。

彼の母親が死んで餓鬼道に落ち苦しんでいることを知った目連は、たいそう悲しみ、母を助けるために手厚い供養をした。その結果、母は救済されたという説話に基づくそうです。

今回はその逸話のお話ではなくお盆の語源でもありますウランバーナという言葉、サンスクリット語、梵語ともいいますが今回はすこしサンスクリット語のお話をさせていただきたいと思います。

元々お手元にありますお経の本に書かれている言葉ももともとは仏教の開かれた国インドの言葉サンスクリット語で書かれていたものです。

それががシルクロードを渡り、中国に運ばれてきたわけであります。そこで多くが漢訳され音写されまたは漢字をあてはめまた引用され書かれたモノがこの教典ということになります。

そのもともとの教典を求める旅が西遊記などの物語を生み出すわけですが、車も飛行機もない時代に歩いて砂漠を渡りインドまで教典を求め旅をされた方がたくさんいるわけです、そうして持ち帰ったものが、海を渡り日本に伝わり今みなさまのお手元にあるわけであります。そう思いますとよく祖父などにお経の本を粗末にしてはいけないといわれましたが、命をかけて真理をもとめた人達の想いがここにはのっているのかと思うと教典というもののおもさを感じるような気がします。

教典の多くは漢訳をされていますが、なかには原文に音をあてはめた言葉多く残っています。「南無阿弥陀仏」というのも「ナモアミターユースナモアミターバ」と梵語で発音されたモノです。これは礼をするという名詞だそうですが意訳をしますと意味は信じます帰依しますという意味になるそうです。またアミターユースというのは限りなく優れたモノ無限の命、という意味です。簡単に意訳しますと私はあなたを信じます、帰依致します。またはすべてをおまかせいたします。というような意味になるわけであります。

また他にもサンスクリットというのは私たちの生活の身近にもけっこうはいってきているものが多く。よく使われている「旦那」「旦那様」という言葉、この「だんな」というのも梵語で「施す者」という意味だそうです。ほかにも般若というのも「パンニャー」と発音されこれは「智慧」という意味だそうです。他にも「くしゃみ」というのも、「長寿」という意味のクサンメというサンスクリット語からきているという説があります。当時インドでは「しゃみをすると命が縮まる」といって、「クサンメ」と唱える風習があり、 お釈迦さまがくしゃみをした時にも、弟子たちは「クサンメ」と唱えて師の無事息災を祈った。というところから来ているという説です。

このように梵語というのは身近に色々とあふれているわけですがその中でおもしろい話をみつけたのでお話ししたいと思います。「天才バカボン」という漫画をご存じでしょうか。テレビでも放映されていたので1度は目にしたことがあるかと思います。赤塚不二夫さんという人の書かれた漫画です。

知らない方のためにわかりにくいかと思いますが簡単に概略だけはなしますと、バカボンという少年とその父親、バカボンのぱぱという2人が一応主人公なんですが、この2人がみんなが考えられないようなはちゃめちゃなことをして周りがそれに巻き込まれていく、それに振り回されるんだけれども最後はその2人の行動になにか心が温まるようなお話です。

その「バカボン」というのも実はサンスクリット語が語源であるようです。「バカボン」とは梵語ではサンスクリット語の“Bhagavad(ヴァガバッド)漢訳では薄伽梵(バギャボン)とも発音されその意味は「覚者」「悟った人」という意味で、“Buddha(ブッダ)”と同義語だそうです。つまりバカボンをみてバカにしたり、指を指し笑う人は実は自分が自分のものさしでしか物事をはかれない衆生を指しているという皮肉が込められているそうです。

たしかにそういわれてみますと自分の周りにいる理解のできない人をあいつはバカだとか、あいつは人の話を聞かないとか、言っても無駄だとか思いがちな自分ですがもしかするとそう思う自分こそがなにもわかっていないバカなのかもしれないと思ってしまいます。

そしてこのバカボンという漫画のなかでバカボンのパパの口癖があります。それが「これでいいのだ」というものです。主題歌にもなっていますが「これでいい」この心境こそがあれこれなやも、ああしようか、こうしようか、それともやめたほうがいいのか、人間はなにかを迷うと自分の価値観で何かを判断し、そして自分のものさしでかんがえようとします。そしてあれがよくない。これがわるかったなどと時に現実から目を背けようとします、しかしそうではなく、あるがまま現実ををあるがままに受け入れる姿勢こそが覚者の姿勢ではないかと思うわけであります。

またほかにもこの漫画に出てくるレレレのおじさんというキャラクターがいます。物忘れがはげしく、いつも箒で家の前をはいているおじさんです。

このキャラクターもお釈迦様のお弟子であった物忘れの激しい自分の名前も覚えられない周梨槃特(シュリハンドク)というお弟子がいました。そのお弟子でお釈迦様は一本のほうきを渡され次のようにいわれたのです。「塵(ちり)を払い、垢(あか)を除(のぞ)かん。と念じつつ、一生懸命掃除を続けなさい。」それから周梨槃特は、来る日も来る日もほうきを持っては「塵を払い、垢を除かん」と言い続けながら掃除を一生懸命励まれたのです。そしてついに悟りの境地にいきついたという話からきているといわれています。

話がだいぶそれてしまいましたが、

今回サンスクリット語のお話をさせて頂きましたが、教典というのは元々はそのサンスクリット語でかかれていたものを音写、または漢訳したものです。ですのでただの意味不明な呪文のようなものでそれを唱えれば救われるといったことが書かれているのではなく、1つ1つに意味があるもので、何百年もかけ人間が必ずぶつかるであろう苦悩、悩みを解決する方法としてあるわけであります。教典にはその教えが書かれているわけです。ですので、そう考えますとお経というものは亡き方へたむける為のもの、また供養をさせる言葉でもなく、生きている私たちのためにあるものであるということがおわかりいただけるかと思います。浄土真宗ではお経を唱えることを声明といいます。声に明るいと書きますが、檀家のみなさまと声を出し一緒にお経を唱えるというのが本来の姿です、この声をだしお経をするというのも、亡き方へお経をたむけるのではなく、声を出すことで自分の耳でその教えを聴くという意味があるわけであります。

最近ではとくに若い人たちの中で宗教というものの響き自体が倦厭されがちになっているように感じます。その原因として新興宗教の報道にせいもあるでしょうが、そもそも宗教というものがなにか得体の知れないもののように感じてしまうからではないかと思うわけであります。お経というのも、なにか悪魔を払う呪文のようなもので、根拠のないおまじないのように感じている人もいるかも知れません。

今回教典の中に書かれている言葉、また教本の話をさせていただきましたが、これを機会に何気なく目にして手にしているお経の本を身近に感じて頂き、また宗教とは得体の知れないおまじないやお祓いなどといったものではなく、何世紀もかけて先人達が育んできた生きている私たちに向けての大切な指針であるということ、そしてこの一冊の教典がいま私たちの手元にあるということは、ここに行き着くまでにものすごく長い年月、そしてたくさんの人が真理を求め、そこには多くの願いや想いつながってここにあるわけであります。今回改めて教典というものの意義を考えるきっかけになればと思います。

余談ばかりで話が長くなってしまいましたがこのへんでお盆のお話を終わらせて頂きます。ありがとうございました。

POSTED @ 2007.08.20 | Comment (0) | Trackback (0)

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  • 1980年1月9日生まれ。どこからを趣味と呼んでいいのかは模索中。好奇心は旺盛。