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Title: 感性。
2009.02.13
月がきれいだ。それだけの夜にどれだけのことを自分の中に落とし込めるか。 春一番が吹く。それだけのことをどれだけのことに自分に照らし合わせるか。 感性を磨く。それだけでたいていの問題は解決できるような気がする。自分が真宗を扱う上で一番大切にしたいのはそこだと今は胸を張って言える。 * 気づけばつい自分を棚に上げたり、知りもしないのに知ったような顔をする。自分の価値観が一番であるかのように。 自分は自分、他人は他人、どうして違いを必ずしも認めなきゃいけないとは思わないけど、せめてその理由でそれを排除したり傷つけたりするのは絶対に違うと思う。 チベットとかそういう大きな問題の話だけではなく、いま目の前。そこに確実にある問題の話。 * あの頃足が速いことと、高い所に登れるということは一種のステータスだった。だからあの頃はとにかく足がはやくなりたかったし、高い所に登った。そんなことを思い出しながら歩いてたら自分が登ってた木や建物にさしかかった。そしたらその場所のあまりの低さにおどろいた。 あの頃ヒーローになりたくてものすごい怖いのに無理して登った場所は、こんな高さだったんだと思ったら、なんとなくうれしいようなさみしいような微妙な気持がした。 でもきっとそれに気づけてよかったんだと思う。いま目指す頂もきっとそうであってほしいと思う。 * 最近自分がなにかを考えるときの柱というか、自分の中で真中にあるものは、物事は関係性でなりたっているということ。それは自分を棚に上げないことであり、感謝することであり、今を大切にしようということ。仏教的にいえば因果とか因縁、宿業ともいえるのかもしれない。そしてそれは一如でもあり。空でもあるということだと思う。 例えるならば頭痛がするときにほぐしたほうがいいのは、首や目だったりすることであったり、お腹を温めるとそこを温めるために使っていた血流が手足に巡るから手足が暖かくなることとか。 人間の脳は首の上にないと機能低下することとか、つまりは寝たきりになることが引き起こす影響は手足だけの問題じゃないこととか。冬に寒くて縮こまってると姿勢が悪くなって胃にも腰にも負担がかかるとか。姿勢を変えるだけでいろんな所がかわる。 風が吹けば桶屋がもうかる。ということを突き詰めて考えてみると面白いくらいなににでも通ずる。 楽しいってなにかとか、命って何かとか、自分って何かとか、好きってなにかとか、友達って、家族って、そういうこの世のすべて全部に関係性を見出そうとおもったら関係性の見い出せないことなんて一つもない。 自分が思うことはそういうすべての関係性によってもたらされている。 その目に見えない部分まで含めて、その大きな関係性や働きを他力と呼ぶんだろうと最近うすうすだけど感じる。 種があっても芽は出ない、土をかけて雨が降って、それだけでも日陰じゃ芽は出ない、太陽があって、誰からもほじくり返されずにいてはじめて芽が出る。でもその種自身は自分で雨も降らせないし太陽も照らせない。 そういうことなのか。 なむなむ。
Title: 言葉
2009.01.23
まえにオールウェイズ3丁目の夕日を見たときにも感じたけど、「くそばばば醤油のんで死んじまえ!」というのをそのおばあさんにいえるということは、お互いの信頼関係あってだし、言葉尻をとらえればひどいことみたいだけど、でもそれは愛情があるやりとりだと思う。逆に「おばあさんいつまでもお元気で」という言葉をかけたからと言ってその人に関心がなければ全然意味がない。 大事なのは言葉なんじゃなくて、言葉を発する人の中にあるものなんだと思うし、本当に中にあるものは言葉に頼らなくても伝わるものなんじゃないかと思う。 そりゃそうだよ当然じゃないか。なにをいまさらと思うんだけど、でもそれを自分がちゃんと質感をもって感じていたかというとそうじゃなかったと思う。 吉本隆明さんの講演をきいて改めてそう思った。なんていうか言葉が先に出てるのではなく、言葉に心をおいつかせるのではなくて、心に言葉を後付けでさがすような絞り出すような感じがした。 言葉ありきの心ではなく。心ありきの言葉を使えるようになりたいと思った。質感をもって。 すこしそこから話はずれるけど、言葉は大切だけど、それはあくまで一つの手段であって、それ以上でもそれ以下でもないという事実は間違いないと思う。その事実をちゃんと直視するかしないかで心にかかってくる負荷もだいぶ変わってくるんじゃないかと思った。 言葉にしてほしいときもあるんだよとか、言葉にしないとわからないことというのはたしかにそれは間違いないからそれはそれで大事にするんだけど、でも言葉はあくまでなにかを形容する1つの手段であって、いくら自分のほしい言葉を引き出せたからといって、その瞬間安心できたからといってもその瞬間にいつまでもつつまれていることはできない。心というものはいつだって変りうることを考えれば言葉は無常だ。そういう意味じゃ本当の意味での安心というのは言葉によってもたらされるものじゃない。 そう考えれば本当の意味での安心ってのは言葉とかそういうものに左右されるところにはないわけで、じゃあどこにあるかといえば、その言葉をとらえる自分の解釈の問題になってくるんじゃないかと思う。矢印を内側へ。どんな言葉をかけてもらえても、自分がだれかにどんな言葉をかけたとしても、それは1つの事実に対する手段であり形容であって、自分が必ずしもいつもその言葉を生み出せるかというとそうじゃないし、それは相手も同じだということ。そういう瞬間を大切にしつつもそれは無常であると思えることに幸せっていうのはあるんじゃないかと思う。なくなりうるから価値があるのであって永遠なんてものには価値はないと思う。 そう思ったらいまかけてもらえた言葉や人にかける言葉にものすごく質感がともなうんじゃないかと思った。 この事実を間違いないと思えたらものすごく楽になれるような気がする。口にだすだけでそのつもりにならないように、何事にも質感をもって。 言いたいことがうまくまとまらないけど。 いつまでもあると思うな髪の毛と命。ということです。 | コメントを書く (0) | Trackback (0)Title: 一期一会
2008.12.26
リベラルとか保守とか。自分らしさとか、誇りとか、プライドとか、かっこいいとか。 そんなものに頑なな自分の言葉を読み返してみて、ここ数年で自分の中で変わったなと思う部分は、変わるものは守ろうとしても変わるし、変わらないものは変えようとしても変わらないと思えるようになったこと。 自分が意識的に守れてるとか保ててるなんてものはいつだってなくなるようなあやういものでしかない。それが流れでそれが移ろいでそれが出会いで別れでもあるわけで。自分がいくらがんばっても自分の中にある流れや今の自分の周りを取り囲むすべての要因をひとつづつ変えることなんてできない。 あがいてもうけいれても、最後は人間死ぬだけで、慈善事業をしてても、世界の経済を動かしてても、一人でもたくさんの人に囲まれてても、がんばってもがんばんなくても。さみしくてもさみしくなくても。 最後はたった一人ぼっちで、最後の最後に笑えるかどうかは自分次第だから、だれかに笑わせてもらわなくても、いつだってこんな自分に笑える自分でいたいと思う。 | コメントを書く (0) | Trackback (0)Title: 裁判員制度
2008.12.07 裁判員制度が始まる。自分の身の回りにも何人か裁判員の通知書が届いた。 法治国家ですから人が人を裁くことにいまさら反対してもどうにもならないけど、その小さな苦しみの火種みたいなものを国民中にばらまかなくてもいいのに。人が人を裁くということが人間の心や価値観にどんな影響を与えるかということにもっと深く疑問を持たなくていいんだろうか。 さも自分は正しい人間であるかのように人を裁くこと。そして人を裁いたことに対してあれはあれでよかった。しょうがないよあの人は裁かれて当然となんの疑問を持たなくなることの恐ろしさ。 あの人は死刑になってしょうがない。自分は正しい。自分の価値観は正しい。あいつは悪者。 そんな考え方や価値観が蔓延していくのがものすごく怖い。 この制度が始まってしまった以上は裁くということだけが価値観やなにかの基準に照らし合わせられて淡々と作業的に進められるのではなく、せめてそこに携わった時に、裁く側と裁かれる側を隔てるものがなんであるのかということにもしっかりと目を向けられるような制度になってほしいと思う。 Title: いま自分の目に映っているもの。
2008.11.26 「人間は見えるものを見るのではなく見たいものを見る」という言葉がある。 少しはやいけど今年1年を振り返ってみると本当にいろんなことがあった。世界的な株価暴落、餃子事件に年金問題や大相撲の問題、今年も戦争やテロが減ることはなかったし、日本では自殺者は3万人を超えた。事故扱いにされていない自殺者を含めればきっとゆうに5万人近くになるんじゃないかと思う。911のテロで行方不明または亡くなった人が約3000人、そう考えれば日本では毎月あの規模のテロが起きているのと同じくらいの人が自殺をしている計算になる。それに社会的格差もどんどん広がる。 もういろんなことが覆い隠せないぎりぎりのところなんだろうなと思う。 どんなにいいところを見ようとしても、明るい話題を持ち上げようとしても。夢とか希望を胸に掲げてどんなにポジティブになろうとしてもそれがハリボテだってみんなが気付き始めてるんだろうと思う。 そんな時代だからこそニートやネットカフェ難民をみて、ああはなりたくないねという。ホームレス中学生をみて自分はまだ幸せだなと思う。ある統計によれば秋葉原の事件をみて世論の多くは犯人にたいして同情の気持ちを持っているという。きっとおバカキャラが世の中に受けるのもきっとおんなじ理由なんじゃないかと思う。どこかで自分の中にある優越感を安心に変えようとしてるのかもしれない。まだ自分はましだって。 いつ自分がそうなってもおかしくないという不安がだれにでも見え隠れする。誤解を恐れずにはっきりいうなら、この社会で田中角栄のような人が生まれてくるのはありえないですよ。今の社会じゃそれなりに教育をうけてきて、それなりに社会的地位がなければ、のしあがれるにも限度があると思う。この世なのかを動かしてるのは数人の人間で、お金なんていうのは上の方でうまいこと循環してるだけですよ。コツコツ頑張った人だけが報われるかいえばそうじゃないです。まさにマルクスが心配した通りの世界じゃないか。いままで資本主義の恩恵にあずかってきてそのデメリットに目をむけてこなかったツケがいまになって表面化してるんだろう。 しかもそんな世の中に対する心の不安に病名までつけてそれを治療しなきゃいけないといって、心の病んだといわれる人を作り出して薬を処方する。 不安は病ですか。 思うにこんな時代じゃ鬱になるほうが正常なんじゃないかとすら感じてしまう。毎月何千人も自殺してる国でそれでもハイテンションでなんとかなるさ。なんて言っていることの方が異常じゃないかと思う。 この現実に目を背けたり、気付かないふりをしたり、ましてや夢や希望があれば乗り切れるとはしゃいでももうどうがんばっても覆い隠せないんですよ。 それを前向きに乗り切ろうと、希望や夢で乗り切ろうとするから苦しくなる。乗り越えられないことがあたかも弱い人間で、順応できない人間をだめな人間であるかのような価値観なんかくそくらえですよ。 こうなりゃあきらめるしかない。 「人間は見えるものを見るのではなく見たいものを見る」 いま自分の目に映っているものが正しく見えているものではなくて自分が見たいものではないかと、もう一度自問自答して正しい目で物事を判断することが大事なんじゃないかと思う。 そんである意味開き直る。 諦めるというと否定的なとらえられ方をするけど、社会とか世論とかの物差しから離れた物差しに持ち替えて価値観をはかっていくことが必要なんじゃないかと思う。幸せの価値観すら刷り込まれている自分に気づくことじゃないかと思う。 だれでもない。 幸せは自分の心がきめる。 そもそも幸せってなんですか。 っていう原始的な疑問をもう一度真剣に考えるべき時代なんじゃないだろうか。 | コメントを書く (0) | Trackback (0)Title: さんてぐじゅぺり
2008.10.17 自分の書いたものを読み返して思った。 10年前の自分はきっといまよりも強かった。立ち向かう勇気も勢いもその瞬間にかけられる気持ちの重さは尋常じゃなかったと思う。 でも10年前の自分はきっと今の自分には勝てないと思う。強さとはしなやかさみたいなものできっと力ではない。 名人と達人の違いを考えながらふとそんなことを思った。 バガボンドの中にある言葉 「天下無双とはただの言葉だ」 なるほどね。 武蔵が名人だとしたら石舟斎は達人だということか。 目を凝らせば凝らすほど見えなくなるという感覚が最近やっと自分の中に落ちた気がする。大切なものほど目には見えないんだと星の王子様もいってたし 豪雨の中に静寂を感じるこころ、真っ暗な部屋で明るさを感じるこころ。 こだわらないとらわれない。ぼんやりと。 最近身近で「感覚で息してるみたいなもの」といった人がいた。そういう言葉を普通に使えるということがすごいなと思った。 | コメントを書く (0) | Trackback (0)Title: ラーメン屋で平和を願う人をみて。
2008.05.20
昨日は帰りが遅くなったのでひとりラーメン屋にはいると向かい側にカップルらしき2人が座っていた。みるからにサラリーマンとは違う風貌の彼はチベット問題のことを話している。中国の地震の話も。主にチベットの抱える問題と中国の批判。 きっとおもうに彼は彼なりにチベットの平和を願っているんだと思う。 チベットだけじゃない。スーダンやアフガンの平和を願う人もたくさんいるんだと思うけど。 祈るだけで平和になるなら世界はもう平和になっているはずだ。 そんな彼の話に耳を傾けているとそのテーブルに、店員がラーメンを運んできたんだけどどうも注文と違うものがきたようで、店員は小さく頭を下げると無言でラーメンを持って帰った。たしかにその店員も態度はあまりよくなかったとはいえ。でも思うにその店員は日本人じゃない。もしかしたら中国人だったのかもしれない。 そしたらその態度にその彼は、まじいみわかんないんだけどといって、不服そうな顔をしてあからさまに不快感をあらわにした。横にいた彼女も一緒に。 その光景を客観的に、はたからみていておもった。 ちいさなことかもしれないけど。その時その人にわいた苛立ちや怒りやそんな小さな火種が世界を平和にしないんだと思う。 よく客なんだからとか。お金払ってるんだからとか。仕事だしわりきらなきゃとか言う人がいるけど。 人と人という関係の間にそういう価値観をはさんでしまう物の見方が少なからず平和の問題の根っこにあるんじゃないかと思う。 ここ数年自分が心から感じるのは。客でも顧客でも仕事のライバルでも自分とは毛並みの違う人もなんでも。ちゃんと人と向き合わない人の周りに人なんか集まらないし周りに人の集まらない人になにかを変えるなんてことはできなんだと思うし、なにも変えられない人がいくら平和を訴えても、もっともらしいことを言っても。祈ってるだけとなにも変わらないんじゃないかと思う。 ほんと他人事じゃない。自分自身反省しなきゃと思った。 まずは自分の心だといえば、そんなの理想論だし、そんなことしてたらどれだけ長い時間がかかるかわからないし社会はなりたたないし、そんなの時間の無駄だといわれるかもしれないけど。 でも。平和なんてのはそんな焼け石に水をかけてほんとうに冷やすくらい途方もない作業なんじゃないかと思う。 ああほんと他人事じゃないなぁ・・・ 自分だってその彼と同じで店員やサポートセンターの対応に苛立つことも多々あるし。いくらどこかの平和を願っても、だれかをないがしろにしたり、いらだったり腹を立てたり、ねたんだりうらやんだりそういう心だらけだし。 風が吹けば桶屋がもうかるというけど、それはおおいにありえるとおもうし、笑顔のためになにかできることを本気で考えてみたら。変えるべきはまずそこなんじゃないかと思った。 そうおもってみれば。こないだの成田でのダライラマの会見はすごいなぁ。あの人はずっと笑顔だった。 なむなむ。 | コメントを書く (0) | Trackback (0)Title: 緑化の恩恵。
2008.05.15 小春日和から一転、春先とは思えない寒さが数日続きましたが。。。でもなんか寒い日からあたたかくなるこのわくわく感を今年は2回味わえたかと思えば、なんか得したような気にもなる。 ところで。 うちの寺にはハンカチの木という木があります。詳しくはしらないけどけっこう珍しい木だそうで、白いハンカチのような咲かせることで有名らしい。 でも植樹してもう8年くらいになるんだけど、一度も花をつけたことがない。ちょうどこの時期が花を咲かせる時期なので毎年たくさんの人が楽しみにしてるのに、毎年うんともすんともいわない。 そこで原因を調べようと植物に詳しい専門家をよんで調べてもらったら。 栄養も申し分なし。日当たりも問題なし。一切なんの問題もないです。 はじめは意味がわからなかったんだけど。よく聞いたら。 大事にされすぎて花をつけて実をつけようという生きていくための貪欲さみたいなものが失われているのかもしれないということだそうです。少し枝を落として、肥料もあんまりあげないほうがいいかもしれない。とのこと。 時期を同じくして。幼稚園にある一本の木の葉が完全に虫に食われてぼろぼろになった。 そのときに、消毒してくれる業者の人から聞いたのですが。 普通植物というのは、一枚の葉が虫に食われるともうこれ以上食われまいと自己防衛をして植物自身が苦いエキスをだして他の葉を守ろうとするそうです。なので全部の葉がぼろぼろになるということはあんまりないらしい。 でも幼稚園の木は大事にされすぎてそういう自己防衛が働かなくなっために全部の葉がぼろぼろになってしまったんじゃないかということだった。 なんとなくタイムリーにそんな話をきいて。 うちの前の大通りを歩いていたら。 うちの前の大通りの両脇には銀杏並木になっていてたくさんの銀杏の木がはえているんだけど、この時期は葉があまりにうっそうとするので、信号にかぶってしなったりするので、ほとんどの枝がばっさりと切られ、丸裸にされてしまう。 いつもかわいそうだなぁと思ってたんだけど。 なにげなく木を眺めたいたら。その丸裸に切られた枝から青々とした新芽が伸びてきて、日に日に大きくなっていた。それが日に日に。ほんとに毎日どんどん大きくなっていくのが目に見えて、ものすごく生き生きして見えた。 こんな空気の悪いところで枝を全部落とされてるのに。 しかし植物ってすごいなぁ。 最近緑化計画と題して緑化に力をいれてるのでやたらそういう話に敏感になります。 人間も植物も同じなのかもしれない。ほんとに最近は花を咲かせるのを忘れたような悲しい事件が多い。 なにがよくてなにが悪いなんていう価値観は絶対じゃない。 自分の思う大切も。かわいそうも。それがほんとうに正しい姿なのかはわかんないもんです。 満たされることが幸せなのか。欠如してることが不幸なのか。 世の中にはそうじゃないことがたくさんあふれてる。 それって大事な問題のような気がした。
Title: 刀は文化なのか武器なのか。
2008.05.05
内容や監督に対してはともかく自分の感じたことは。 刀は文化なのか武器なのか。 そこで議論をしようと思う心が靖国を固有名詞からそれ以上のものにしてしまったんだと思う。 刀は刀でしかない。 生も。死も。 それ以上でもそれ以下でもない一点の事実でしかない。 それなのに人は事実に事実以上の意味を見出そうとする。そうすることで安心を得たり平穏を願ったりする。 人は自分のフィルタを通して自分の目に写るすべてのものにレッテルをはる。あれがいい。これはわるい。これは間違っていてこれは正義だ。 価値観に絶対はない。 靖国とはそういう人間の心と、靖国というものの存在が奇跡的、偶然といってもいいくらいの同調率で成り立っているんだろうと思う。 主義主張の全く違う人間なのに、一つの象徴にあそこまで心を奪われとらわれるということはほんとうに絶妙なバランスで、きっとどこかでなにかが違ってても成り立たなかったくらいのバランスで成り立っているからなんだろうな。 なにかが1つのものを支えるのではなくて。なにもないのにそれが支えられているという事実。目にみえないものを具現化するということの生み出す不思議な感覚。 これが靖国にある答えのない問題なんじゃないかと思う。もしそうならばはじめから答えなんてないんだこの問題に。 答えのないものというのは確実にある。それなのにその答えを探そうとしてしまう人間の心が生み出したものが靖国なんじゃないだろうか。 議論をしようという心のわいた時点で自分も靖国にとらわれている一人なんだ。 真宗と靖国は相反するところにあるということにはじめて気づかされて戸惑う自分がいる。 | コメントを書く (0) | Trackback (0)Title: 無礙の一道
2008.05.05 真宗のいう救いと仏陀のいう覚りとは違うものなのだろうか。 親鸞は覚りをどう受け止めていたのか。 仏教はものにもの以上の意味を見出すところに苦しみを生み出すという解釈をしてもいいのだろうか。人間のものさしでなく仏のものさしでものを見るということは生も死もそれ以上でもそれ以下でもないわけで。 目の前に2人のひとがおぼれていたときに。それが母と嫁であろうと。友人と他人であろうと。近いほうに手を差し伸べられるのが正解なら。 そこにかかる想いや心はどこにいくんだろうか。 そしてその正解が覚りにつながるならば。 覚りの境地とは苦しみもないかわりに彩りもないのじゃないかと感じてしまう。でもそれはまだ自分のなかの執着がすてきれていないからなんだろうか。でも執着をすてるのが無理だというのが真宗であるならばなにが真宗のいう救済と覚りはやはり違うものだということなんだろうか。 苦しみがるから喜びがあるんじゃないだろうか。という迷いはまちがってるんだろうか。 仏陀も晩年モッガラーナとサーリプッタを失ったときに嘆き苦しんだんじゃないんだろうか。覚りは苦しみを生み出さない境地ではなくて苦しみに対処する方法だということなんだろうか。 きっとこうやって頭で考えて堂々巡りをしててもどうしょうもないのはわかってるのに。 きっと親鸞がいたらそれこそ南都北嶺にも、ゆゆしき学生たちおおく座せられてそうろうなれば、かのひとにもあいたてまつりて、往生の要よくよくきかるべきなり。親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひとのおおせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。 というんだろうな。 ああだめだな。 念仏者は無礙の一道なり。 ほとほととおい。
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