Title: 寺っこ

つい先日。お寺の子3人でご飯をたべた。知ってる人は知ってるでしょうが。いつもの3人です。

大抵普段はあの女の子とは最近どうなんだとか。たまにはみんなでマージャンでもしようぜ!とか主にどうでもいい話ばっかりなのに、その日は珍しく真宗の話になった。それこそ信心の話、本願の話、回向の話、さらには信心を得るとはどううことかとか。死んだら極楽にいくのかとか。そもそも極楽はどこにあるとか。それに教団とはなにか。聞法とはどういうことかとか。

ものすごく専門的できっと周りにいる人はあいつらやばいな。と感じただろうけど。ひさびさにそういう話ができてよかった。

そんな中で印象に残った話。

その中の一人で地方のお寺の24代目がこういった。

「正直おれの代でお寺なくなってしまってもそれはそれでいいのかもしれないと思うんだよね」

思うにたぶんたくさんいろんな思いもあるし本当にそう思っていないとしても。仮にでもそういう言葉が口からでてくるのは同じ寺の子としては残念だし悲しくもある。

真宗の根本的な部分には「生きている」ではなくて「生かされている」という気持ちが大切だと思うし、そういうベースあっての真宗だと思うし、自分たちはお寺で育っていくなかでやはりたくさんの人に関わって生きてきたし支えられてもきたし、いまの自分をつくる要素にその一つ一つは確実に欠かせないから。いうなればいまの自分がいるのはそういうすべての要素があるということを忘れちゃだめなんだと思うし。しっかりと自覚しないとだめなんだと思う。

寺で育つと忘れがちなことがある。

お寺で育つとお寺が自分の家になるけど、でも自分の家でもそこは自分の家ではないし、お寺を私有化してしまうとそういう思いになってしまうんだと思う。寺は住職のものではないし、いくら世襲制でもその家族のものでもないと思う。究極いえば、もし事故で自分の父親と俺が死んでしまってもつぶれてしまったらだめだし、何食わぬ顔でそこにありつづけなければならないんだと思う。

それが本当の意味での僧伽だと思うし、何十年何百年たくさんの人が命をかけて生涯をかけて守ってきたものを自分が終わらせるとか自分の代でおわりとかなんておこがましいにもほどがある。自分がどこまでできるかはわからないけどそれをしっかり自覚するということが「継ぐ」ということじゃないのかと思う。

蓮如上人が生涯をかけて命をかけて守ろうとした法灯、蓮如さんだけじゃなく。すくなくとも今の自分のつながる直接的でも間接的でもたくさんのじいちゃんたち、それに親。その中で生かされてきたことを勘違いして勝手に俺の代で消えてもいいや。なんていうのは真宗に育てられたものとして言ってはいけない言葉なんだと思う。

そういう意味じゃ「継ぐ」というのはいま自分が思っている以上に重いということだと思うし、継ぐ以上は自分の気持ちとか、自分の幸せとかそれだけじゃなくて、そういうものも感じ取っていかなければならないんだと思う。

私有化ということで派生していえば。

お寺という部分でいま私有化ということをいったけど。これは「命」もおんなじで。

自分は一人で生きている。命は自分のものだ。という勘違いをするから、自分の命をここで終わらせてもいいんだという錯覚を起こすんだと思う。

今の自分がいるのは。

親がいて、さらにいえば。その親にも親がいて。その親にも親がいて。

何十年何百年もその流れが切れずにいるから自分がいるわけで。もう写真も逸話も残ってないくらいのたくさんのご先祖さんが必死に生きて、子どもをつくり。その子どもがまた生きて子どもを作る。子どもをつくるというのは命を生み出すだけではなくてそこにはたくさんの願いや想いもこめられているわけだし。

そういうたくさんの命や想いや願いはいま生きてるここの自分の中にたっくさん流れ込んできてるんだと思う。

命は自分の持ち物ではない。

同時にいつかいま自分の中にある命も自分も家族や誰かにとってしっかりと受け継がれていくんだと思う。

浄土真宗の法事というのは亡くなった人の命日という日を通してそれに気づかせていただく機会をいただくと同時に、いつか自分も必ず命日という日ができるんだぞ。ということを思い出させていただく機会をいただくというのが本当の意味で、そういう意味では法事やお墓参りというのは亡くなった人の供養のためではなくて生きている自分たちがそういう想いに帰ってくるための法縁ということになる。

これまたややこしけど。

「命が自分を生きている」という言葉がある。大学のときは意味わかんなかったけど最近少しだけどその意味がわかったような気がする。

最後にもうひとつだけ。

もう一人いたお寺の子がぽつりとこういった。

最近思うんだよね。

「なんか本名〇〇としてというよりもなんかそれをこえて釈〇〇としてなにができるんだろうと思うんだよね」

お寺の子は本名のほかに法名というのをもっている。得度をしたときにもらう名前で、一言で言えば僧侶としての名前。

そんなことをあまり意識して生きてこなかったけど。自分も最近そのことをものすごく考えていたからなんかそれをいわれてものすごく自分の中にあったものに確信を持てた気がした。

本当にいい機会だった。

POSTED @ 2008.02.12 | Comment (0) | Trackback (0)

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  • 1980年1月9日生まれ。どこからを趣味と呼んでいいのかは模索中。好奇心は旺盛。