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Title: むじょうけん。
重要なのは最後はどれだけすきになってもらえるかよりも。 どれだけすきになれるかなんだと思う。 すきになるということは。 ほんとうに奥が深く。 厳しく深い。 最近はすきだということを勘違いしてる人がおおいけど。 すきは。 無条件ですよ。 認めることで。 すきは。 受け入れることですよ。 そんで究極。 すきは言い換えれば 信じるということですよ。 こうかくとなんのこっちゃ。だれか好きな人でもできましたかといわれそうだし、言葉にすると簡単に聞こえるかもしれないけど。 もっと深い部分の話で、本当に無条件になにかを好きになったり、無条件になにかを認めるとか。無条件になにかを信じるという心がわいてくるために必要なものは、 絶対的に優れているなにかや誰かではなくて、絶対的に弱い自分なんじゃないかと思うわけですよ。さらにいえば自分の弱いという部分をしっかりと見つめて取り繕わないで目を背けないという勇気だと思うわけですよ。 だれかを好きになろう。だれかを信じようとおもって。そういう人が現れないかなぁなんてさがしててもそれだけじゃきっとみつからないと思うんですよ。そういう人に限って強がりだったりプライドが高かったり、少なくとも自分は一人でもなんとかなるということが頭のどっかにあるじゃないかと。 ましてや人間だれかの優れているはけっこう目についても、自分の劣っている所はなかなかはっきりとした形で目につかないもんで、ましてや目に付いてもそれを受け入れようとしないでなんとかあの手この手で取り繕うとするでしょ。 でもそこでそれをしっかりと受け入れて。見つめることができて受け入れてはじめてなにかに無条件になれるんじゃないかと思う。 これを突き詰めていくと あえて神様という言い方をしますが、 神様が存在するから信じようというのではなく。信じてみようとおもうから神様が存在するんじゃないかと。同じようでぜんぜん違うと思うし、その逆説って宗教にとって大切なんじゃないかと思うんですよ。 それが思うに「地獄も一定住みぞかし」の入り口なのかもしれないなぁ。と、さらにいえばそれがしっかりみとめられたときに「念仏もうしたるこころのおこるとき」につながってくるんじゃないかなぁと。 さらにいえば。 それに気づいてはじめて宗教はだれの為にあるのかということがはっきり浮き彫りにできるんじゃないかと思います。 ものすごく真宗に依った見方だし。いまいち自分のなかでまとめきれてないけどものすごく感覚的にだけど最近感じたことです。 |
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